ドグマその3

 さてさて、クリスマスイブ更新というのをやろうかと思っていたのですが、いつのまにかそれも過ぎ、こんなさしせまった時期に更新しております。余談ですが私の理想のクリスマスは、新宿パークハイアットに泊まって40階のプールで泳ぐことです。全面ガラス張りの窓から新宿の夜景が見えて、まるで夜景にダイブするような感覚が味わえるらしいです(ソフィア・コッポラか誰かがオシャレな雑誌でそうコメントしてました)。泳げないんですけどね、私。もちろん飛び込みなんて足からしかできません。夜景に足からダイブ……。攻殻機動隊の夜景ダイブとはずいぶん違った感じになりそうです。ディナーは、そうですね、兔が食べたいですね。私が男だったら「え〜ウサギなんて食べる人いるのぉ〜だってかわいいのにかわいそうじゃない〜ざんこくぅ〜」と眉をひそめて抜かすようなギャルを連れて、ホテルの部屋にディナーを運ばせて、女を全裸に剥いてウサギの毛皮の襟だけ着けさせて、「七面鳥だよ」と言いながら肉を切り分けて一口ずつ食べさせてあげて「おいし〜い」と全部平らげたところでニヤッと笑って耳元で真実を告げますね。そして「いや〜ウサギなんていや〜食べたくなかったのに〜かわいそう〜ひどいいい〜」と泣いてるところをこう、ベッドにそっと倒してですね、お腹や乳房のあたりに兎の血のソースを塗りたくって、肌が熱くなって立ちのぼってくる血の匂いを嗅ぎながらセックスして、泣き声がちょっと調子の違う別の声に変わる瞬間をよく観察して、襟の毛皮に包んで射精してみたいですね。いや〜ざんこくぅ〜。男に生まれなくて本当に良かった! 雨宮です。

 ま、そんな話はさておき、今日はドグマの二村ヒトシ監督の話をしたいと思います。

二村ヒトシ監督

 二村監督という人を語ろうとすると、まずいろいろと愉快な伝説があります。幼稚舎から慶應に行ってたとか、そんな上流階級出身のクセして撮影中にモニターを見ながらオナニーしているとか、まぁ、伝説じゃなくてフレッシュな事実なんですけども、そういうキャッチーな二村伝説はたくさんあります。私も実際現場に取材にうかがった際に、どんなに目を逸らしても視界のはじっこにせわしなく動く二村監督の右手が入り込んできて、目が泳ぎまくった記憶があります。女性がガン見すると動きが速度を増すという噂も……。もしかすると、AV監督なんてみんなこんなもんだと思われているかもしれませんが、弟よ! 絶対にそんなことはありません。「モニター見ながらオナニーしている」と聞いてドン引きする繊細なAV監督もいるのです。今、作品の質的にも売上的にもセルビデオの世界ではナンバーワンでありながら、キャラとしても最強なのが、この二村監督だと思っていただいて良いと思います。

 さて、そんな愉快な話はいくらでもありますが、私はこれ以上そんな話をする気はありません。そんなことは核心ではないからです。二村監督のキャラの面白いところは、これから監督がもっともっと有名になり、もっともっと売れて、村西とおるばりにテレビとか雑誌とかにバンバン露出するようになればイヤでも伝わることです。弟よ! 私は、そういう場では伝わるかわからない作品の話をしたいんです。はっきり言って現場でオナニーしてるかどうかなんて私にはどうでもいい。もっと変なことや気狂いみたいなことをしてたとしても、慶應どころかマサチューセッツ工科大学を出ていようともどうでもいいことで、二村監督は何よりも作品が一番恐ろしいし、すさまじいんです。

 私が最初に見た二村監督の作品は、「美しい痴女の接吻とセックス2」(渡瀬晶主演)でした。このシリーズのヒットによって、セルビデオ界では接吻ブームと痴女ブームが同時に吹き荒れることになるわけですが、接吻ブームも痴女ブームも、まったく、このただひとつのシリーズに匹敵する力を持ち得なかった、と私は思っています。なぜなら二村監督の作品は、正確には「接吻モノ」でも「痴女モノ」でもなかったからです。

 接吻モノ、痴女モノというジャンルは、形だけなぞればできてしまうんです。ただしつこくキスをするだけ、ただ女がやみくもに「気持ちいいんでしょ?」「こうして欲しいんでしょ?」と口だけで言いながら騎乗位でまたがってくるだけ、それだけの、その「絵」がただあるだけのものは、形だけやればできる。二村監督の作品はそうではなかった。そこには、なぜキスをするのか、なぜ女が痴女になってしまうのか、さらにもっと言えば、なぜ女が美しいのかということまで、全てに理由があった。

 セックスが、ただ入れればいいもんじゃないってことぐらい、誰だって知ってます。どんなセックスでも、やりさえすれば気持ちいいなんてもんじゃないことも、誰だって知ってる。気持ちよくないセックスも、途中でテンション落ちるセックスもある。AVの世界には、それに加えて「仕事のセックス」があります。でも、仕事だろうが何だろうが、エロいセックスとそうじゃないセックスはある。それは、どこが、何が違うのか。その答えも誰だって知っているはずです。男と女がお互いに欲望を持っていて、でも自分の欲望だけを押し付けるのではなく、相手をちゃんと見てコミュニケートしながら互いの欲望を満たしあう。エロいセックスの基本形はこれで、これが基本だからこそ相手の意志や欲望を踏みにじるようなセックスのエロさがバリエーションとして存在し得るのです。

 二村作品の中の女は、あきらかに発情しているように、私には見えた。キスする前から、キスされることを期待して、唇が触れた瞬間にビクッとして、呼吸が荒くなって、指先がからだのどこかに触れるたびに、声が出そうになっている。目が潤んで、全身で男を待ってるような状態になってしまって、どうしても我慢できなくて、恥ずかしさに泣きそうになりながら男を求めている、そういうふうに見えました。このキスは、見た目はキスだけど、完全にセックスと同じ意味だし、この痴女は、やってることを見れば痴女だけど、発情した普通の女だった。二村監督の作品は、接吻モノや痴女モノである前に、ただ二村監督がいやらしいと思うまっとうで普通なセックスの形を撮ったものだったんだと私は思います。「美しい痴女の接吻とセックス」は、さんざん、うんざりするほどパクられました。ひとつひとつのコーナーや小道具までパクられた。けれど、どの作品もこの作品がたどり着いた高みには一歩も近づけなかった。二村作品の中で、キスはキスフェチの人だけが興奮できるようなものではないし、女は、欲望のままにふっきれてのべつまくなしに男にまたがったりしている色情狂の女ではない。本当は、そんな、誰とでもなんてセックスしない普通の女なんだけど、キスでスイッチ入っちゃって、興奮しちゃってどうしようもなくなっちゃって、ちょっとごめんなさい、こんなこと言うの恥ずかしいけど、あなた、よかったらちょっと私とセックスしてもらえませんか? っていう感じに見えるんです。そのためらいと、恥じらいと、でも発情して止まらなくなっちゃってる感じがものすごく可愛いし、ああ、ちゃんと欲しがられてるなぁって思うわけです。

 私は、渡瀬晶の「美しい痴女の接吻とセックス2」を初めて見たとき、驚きました。1シーンも、1カットも無駄なくエロい作品というものを、初めて見たからです。二村監督の作品には、時間を埋めるための単調なオナニーシーンもなければ、とってつけたようなフェラ発射のシーンもない。全ての場面に、ほんものの欲望があるんです。オナニーなら、それをやりたい側と見たい側の欲望がちゃんと存在しているし、フェラチオならそれをしたい側とやられたい側の欲望が、ちゃんとある。だから、どの場面もダレないし、予定調和にならないんです。

 二村監督は、それまでAVで形だけしか描かれてこなかった、女の性欲というものを、リアルに演出することに成功しました。それは、生の女の欲望を噴出させる代々木忠監督とはまったく違う形でした。代々木監督の見せる女の欲望は、女の私が見ても、たいへんなものです。自分が男だったら、あの欲望には手が届かない。自分がひとりで、代々木作品で悶え狂っている女を満たせるとはとても思えないんです。満たそう、満たしたいと思うには、その女性に対する個人的な愛情や思い入れが必要になってくる。二村作品の中で描かれる女の欲望は、そういう種類のものではありません。発情していても、あんまりハァハァしてたら恥ずかしいから我慢している。「相手にどう思われるか」という、相手の視線を気にする意識から女を解放してあげるのが代々木作品だとしたら、二村作品で女は男の視線から解放はされてない。自意識もしっかりある。二村作品の女は、最初っから全崩壊はしません。

 二村作品の中で、女は自分の欲望を、気持ち悪くない形で、怖くない形で男にこっそり見せます。多分男が本気で嫌がってたり、からだが逃げてたりしたら、誘わない。自分とセックスしたがってくれる男、そして自分がセックスしたいなと思ってる男にだけ、可愛くこそっと欲望を打ち明けてくれるわけです。欲望に翻弄されてるだけじゃない。欲望を、自分の身の丈に合った形でちゃんと満たしていくのです。その姿は、健全です。ものすごく、涙が出そうなほど健全です。誰かが自分の欲望を満たしてくれるのを待っている女とも、やけくそで誰とでもセックスしちゃう女とも違う。計算も、打算も、ありません。セックスと引き替えに男から愛情や金や結婚をむしり取ろうとする女とは、真逆です。セックスが楽しいんだから、ただいいセックスを欲しがっているんです。

 二村監督の作品の中には、女が二人で男が一人の「発情ダブルま○こ」という作品や、それが三つに増えた「トリプルま○こ」や、女の子にちんこが生えてたらどうなるかというふたなりものや、ふたなりレズや、ちんこの生えた女同士の疑似ホモや、高身長の女が頭ひとつ分身長の低い男にやっつけられちゃう高身長ものや、三人の姉がよってたかって弟をいやらしく可愛がる、または妹がお兄ちゃんを可愛がる兄妹ものや、この世で考えられ得るありとあらゆる、性別さえもミックスさせたエロいアイデアが詰まっています。あまりにも突拍子もない設定もありますが、それがちゃんといやらしい。笑ってしまうし、間抜けな恰好もしているし、でもものすごくいやらしい。楽しくて明るくて、濃密にエロい最高の世界です。

 弟よ! 最初姉ちゃんはこの二村作品に狂喜し、こんな作品がこの世にあったことに感動しました。愉快だと思って笑いながら興奮もして楽しく見ていた。けど、あるときから、姉ちゃんは二村作品を見るのがものすごくつらくなってしまったんです。

 二村作品の中に出てくる女は、最高の女です。自分の性欲に忠実で、好きな男を選んで、気持ちいいセックスをして、後にひきずらない。二村作品の中で、男も女も、シリアスには傷つきません。セックス両成敗というか、まぁ成敗はされないけど、どっちかがどっちかに「やられた」「傷つけられた」「食われた」という、深刻な被害は生まれない。セックスしたいのはお互いさまだからです。これは、非常にまっとうで、健全な欲望のありかただと思う。やりたいときに、やりたい人とやることは、姉ちゃんは何よりも正しいことだと思うし、自分もそうしたい欲望があります。

 ただ、自分のつきあっている相手がそういう欲望をもっていたらとか、自分がそういう欲望をもっていることを自分の恋人はどう思うのかを考えたりすると、姉ちゃんはこのことに平気ではいられません。恋人がいなくても、セックスした相手の心を無自覚にこっち側にひっぱってしまって結果的に傷つけることもあるし、自分が傷つくこともある。私は、人とセックスすることが、平気ではありません。そんな気軽にもできない。今でも、誰かとセックスすることが、少し怖いです。それで自分が傷つくことが、こわい。少しだなんて、うそです。ものすごく怖いです。ただ、いいセックスだけを欲しがることが、私にはとても、むずかしい。拒まれることも、おかしな女だと思われることも、スケベな女だから何してもいいって思われることも、こわいです。

 私は、二村作品の中に出てくるような女には、なれない。ダブルま○こなんかやったら発狂すると思うし、独占欲も嫉妬心もおおいにある。自分の性欲をこれぞと思う相手にこそっと見せるのも、ヘタです。でも、自分がそんなでも私は、二村作品に出てくる女や、セックスの形が、間違っているとは絶対に思わない。あれは、正しいと思うんです。正しいからこそ、見ているのがつらい。間違っているのは自分だと思ってしまうからです。

 セックスしたくない人も、いくらセックスしてもセックスごときで傷つかない人もいます。そういう人は、自分の気持ちのままに、好きなようにしたらいい。でも、セックスしたいけどそれで傷つくこともある人間はどうしたらいいか。私は、傷つくのがこわいから性欲をなかったことにしてしまうのも、セックスしたいままにやりまくって、傷ついてても見ないようにするのも、どちらも間違ってると思う。私は、どちらも見ないふりはしたくない。自分がセックスで傷つくからといって、セックスで傷つかない人を非難したり、セックスをしない人を非難したりもしたくない。私は、セックス、したいです。スラムダンクで桜木が安西先生に言うような気持ちで、したいです。自分の心や気持ちや、恋愛とかとあまり矛盾しない形で、楽しくそういうことをしたいです。傷ついてることを無視してやるんじゃなく、傷つくのがいやだから我慢するのでもない、自分にちょうどいい形や距離を、見つけたいんです。そうじゃなければ、私は一生何かをごまかしたまま生きることになる。性欲なんて小さなことかもしれません。でも、私は大事にしたいんです。たとえ傷つくことがあっても、それが自分にとって重要で、楽しいことであるのは確かだから。

 二村作品を観て「こんなことがあったらなぁ」「こんな目に遭ってみたいなぁ」と妄想して興奮している人は、幸せだと思います。でも、本当にあんな世界を自分で体験しようとしたら、ものすごい大変だと思う。刺すとか刺されるとか、そんな話にもなりかねない。ファンタジーとして観るならこんなに幸せなものはないし、そこに自分の本当の欲望の形を見てしまったら、最悪地獄に突き落とされるような感じになってしまうかもしれません。誰もが、純粋にセックスだけを、快感だけを、楽しめる世界。それがただの乱交やフリーセックスみたいなもんだったら、私は全然憧れはしません。相手を選んで、自分の無理のない形で、それぞれがセックスを楽しんでいる世界だから憧れるんです。自分には絶対に手の届かない高みにある世界を見てしまったら、焦がれるように憧れるしかない。見なかったふりをすることも、手が届かないからあきらめるのも、私はできません。私は、二村監督のビデオに出てくるような女に、なってみたいです。顔や、からだの見た目のことよりも、内面がそうなればいいと思う。心底そう思っているから、自分の中の理想型のような女が出てくるビデオを見ていると、ときどきとてもつらくなる。そのつらさは、中学生のときにやおい本を見ながら、男になって男とセックスしたいと思ったときのつらさと、よく似ています。でも、そのどちらの欲望も、本当に絶対に無理なことではない。自分の身の丈がそこに届かないのがつらいだけで、届くよう努力する方法は、たぶんあるんです。

 あなたは、どんなセックスがしたいですか。どんな人と、どんな風にしたいですか。一度でも、思ったとおりのことを全部人にやってもらったり、自分が相手の欲望をほぼ完全に満たせたと思えることが、ありましたか。その欲望は、凶暴ですか。健全ですか。年末年始、私はあなたに、二村監督の作品を、一本でいいから観てみてほしい。天衣みつの「接吻、密室、天衣みつ」(※1/8タイトル修正。「美しい痴女の接吻とセックス」ではありませんでした。関係者の皆さん、探された皆さん、すみませんでした)や、「姉たちに犯される!」や、そういう作品を観て、自分がどう感じるのか、なんにも感じないのか、自分の性欲のありかを探るような気持ちで、観てみてほしいです。ある種の人たちは、二村作品を観ることで、自分の中のなにかに否応なく向き合ってしまうと思う。でも、弟よ! 私はおまえにそのことをおそれないでほしい。向き合わずに、知らずに生きていくことが、私は幸せだとは思いません。傷つくことは、不幸ではない。なにかにつらいほど憧れることも、不幸ではない。私は、性欲と戦わずに無傷で死ぬことも、拳ひとつで戦場に走り出て傷だらけで犬死にするのも、不本意な傷を追うのも、いやです。ちゃんと自分で防具をつけて、自分の持てる重さの武器を持って、まわりに目を配って、殺さなくていい人を殺したり、自分が傷を負わなくてもいいところで負ったりしないように、しっかり周囲を見たい。そして、どうしようもなくて負った傷のことは後悔せずにいたいです。私が、ときどき憧れでつぶれそうな気持ちになりながらもAVを観続けるのは、そういうことです。そして、私の中の欺瞞に気付かせてくれたのは、二村監督の作品です。

★ドグマホームページ http://www.dogma.co.jp
 ホームページの中に二村監督の日記もありますが、二村監督はミクシィなどもやってらっしゃるそうで、そちらの方が更新がまめだという噂です。ファンの方はそちらもどうぞ。