小泉キラリ引退作

 明け方に泣きながらタクシーを拾ったら、ドアが自動じゃなく、運転手さんが白い手袋で開けてくれるMKタクシーでした。初めて乗った……。お姫さま気分というやつか。三十路を目前にしてお姫さまもクソもないもんですが、今の私にわかるのは、お姫さまがみんな幸せなわけではないということだけです。

 えー、お知らせですが現在発売中の「増刊 鈴木杏里」に私生活丸出しのコラムを書いてます。あまりにどうコメントしたらいいのか困る内容だったためか、編集長に「す、素敵なコラムありがとうございます!」と言われました。素敵……?
 あと、来月6日発売の「ビデオメイトDX」に、森下くるみさんのインタビューの原稿を書きました。森下さん、女優歴8年。私、ライター歴5年にして初対面、およそ6時間の長いインタビューをさせていただきました。この模様は、4月発売の森下さんのベスト盤DVDボックスの特典映像として一部収録される予定です。雨宮のあがりきって空回りしまくる情けない姿を見たい方は(姿は映ってなくて声だけですが)こちらもどうぞ。

 昨日は砂の新刊「メスパイゲーム」を買って読んでたら、いろいろエキサイトしすぎて弟からの電話に出られませんでした。あとでかけ直そう……。今回は、昨日観た、ある作品について。

「キスと涙を愛するように」小泉キラリ引退作 [Jo]Style監督(MOODYZ)

 小泉キラリの引退作を、[Jo]Style監督が撮った。というだけで、小泉キラリがどんな女優か、そして[Jo]Styleがどんな監督か知っている人なら、心の中で小さく叫んで鳥肌を立てるのではなかろうか。この二人の組み合わせというのは、そういう組み合わせです。

 小泉キラリという女優さんは、数え切れないほどたくさんの作品に出ている、とてもキャリアの長い女優さんです。当代随一のマゾ女優と呼ばれ、ぶっかけや凌辱モノで見せるうっとりした本物の表情に、多くのファンは魅了されたものです。明るい笑顔で一見強そうでありながら、その実、どこかにどうしようもない暗さや弱さ、一歩間違えれば暗い淵にあっけなく落ちていきそうな、そういうはかなさがあるようで、一言で言えば「業の深さ」を感じさせる女優さんでした。プロ意識が強く、本当に元気で可愛いのに、それだけでない人。はっきり「引退作」というものを出さずに気付いたら辞めていたという女優さんも多いですが、彼女はそうでなく、きっちり決着を着けて辞めていくことにした。自ら作品をプロデュースし、一番好きな監督と組んで、彼女は自分の引退作を作ったのです。

 [Jo]Style監督は、そういう、強くて健気で、でもどこかにどうしようもないものを秘めている女を撮るのが、最高に上手い監督です。上手い、というのもちょっと違う気がする。この女優のこの顔は、[Jo]Style監督にしか撮れない、と思わせるものを撮る人です。脚本のあるドラマ作品でありながら、その虚構の世界の中で、女優さんの本性のある部分を徹底的に暴いてさらけ出させてしまうようなところがあります。多作な監督さんですから、多種多様な作品がありますが、「ザーメンby女教師」や「巨乳マンション」などの作品に[Jo]Style監督のそういう一面はよく現れていて、暗く、悲しく、いやらしい女の姿というものが、[Jo]Style監督にしかできない形で捉えられています。

 この「キスと涙を愛するように」では、小泉キラリ自身のモノローグにより、本人の、まるで実話かと思わせるような物語が語られていきます。彼女が「小泉キラリ」になる以前、デリヘルで働いていた一人の女だった頃の恋人と、小泉キラリになってからの恋人と、ビデオの撮影でのセックスと、その三つを交錯させながら、彼女がどう感じていたか、ということが彼女自身の言葉で語られていく。

 恋人にセックスをねだる小泉キラリに、男はこう言います。「お前、セックスのことしか頭にないのかよ」。そして、新しい恋人はこう言う。「今日は撮影でどんなことやったんだよ。ぶっかけ? 凌辱? 俺に言えないようなことなのか?」。最初の恋人は性欲が薄くて、次の恋人は強くて、どちらも愛情は、あって。「私は撮影でのセックスに愛情をより強く求めるようになりました」と、彼女は言う。

 撮影のセックスで彼女が感じている表情は、私には本物に見える。恋人と別れて、彼女は束縛から逃れられてほっとした、と言う。でも、恋人を愛していたのも本当で、セックスが好きなのも本当で、その、彼女の「引き裂かれ方」に、私はどうしても過剰に感情移入してしまうんです。

 こんなところで発表することでもないけれど、私は少し、セックスの趣味が、おかしいです。おかしい、とは自分では思っていないけれど、まぁ、普通じゃしないようなことを、ちょっとだけしたいんです。顔をおもいきりぶたれたり、首を締められたりするのが好きです。簡単に言えばマゾなんでしょう。でも私にとってそれは、純粋に、それが気持ちいいから、というのとは違うんです。絶望的な気持ちになったときに、それがしたくなる。健康な欲望ではないと思う。幸せなセックスではないと思う。SM的なことが健康で幸せでないと言っているわけではなくて、私のその求め方が健康でないと、自分では思うんです。でも、それがいちばん気持ちいいし、それが必要です。この欲望を、私はポジティブに考えることがどうしてもできない。うんざりする欲望です。これさえなければと思う反面、それが自分の中でもっとも色が濃い部分のようにも感じます。そして、絶望的な気持ちにならず、そういうことを必要としない時でも、やみくもに強烈にセックスがしたくなる時もある。それも、誰でもいいわけではないんです。私は欲が深いから、同じくらい、の人がいい。そして、そんなちょうどいい人は、あんまりいないんです。過剰か、不足か。またはスケベさの方向が違うこともある。それだけで、もう、満足できなくなるんです。

 どうして、愛情だけでなく、そういうことを求めるのか、それは自分でもわからない。愛情にあふれるセックスだけでは、だめなのか。愛情だけでは、だめなのか。刺激的なセックスだけでは、だめなのか。そして両方があれば、満たされるのか。もし、愛する人がいて、その人と別にセックスで私をめちゃくちゃにしてくれる人がいて、それで、満足できるのか。幸せなのか。どうなんでしょう。私は、今以上に引き裂かれてゆくだけのように思える。なぜ、性欲と愛情とに「引き裂かれる」と感じてしまうのか。別々では、いけないのか。それは私が、本当はその両方を、誰かと共有して、生きていきたいと思っているからなんでしょう。自分の願いを、自分の欲望が裏切ってゆくんです。何かを我慢するか、諦めるか、もしくは、誰かを自分のために利用するか。それとも、同じように感じている男と、互いの利害関係の一致する男と、うまくやってゆくか。どれも「幸せ」なようには思えません。例えば妻がいて、妻とはセックスせずに、でも離婚は絶対せずに他の女とセックスしている男の人は、私と同じように、引き裂かれているのでしょうか。セックスが、誰とやっても大差なく、相手が交換可能だと思っている人は、別にそんなことで引き裂かれはしないでしょう。また、最初から一人だけとの関係など、望まない人は、そんなことで引き裂かれたりはしないと思います。

 小泉キラリという女優さんが、どういった形で、どういう風に傷つき、迷っていたのかということは、私にはわからない。もしかしたら、彼女とは違う自分を、勝手に彼女に重ねているだけかも、しれない。愛情と、セックスと、その欠落感と、そういう部分部分に、自分の心を重ねて反応しているだけかもしれません。

 彼女は、撮影のセックスというものを失って、今、どうしているのでしょうか。セックスと愛情の、バランスの良い着地点を見つけたのでしょうか。私の目の前は、暗いです。どちらかを諦めるか、周りの人を傷つけまくるか、男を性欲処理としか思わないような、人を人とも思わない扱いをするか、そういう解決策しか、思いつかない。そんなにセックスの刺激が欲しいのか、と自分でもあきれる気持ちもないではありません。私は今年30歳になります。ゆきずりの男の人に、相手にしてもらえるのはいくつぐらいまでなんでしょうか。やってみたいセックスを、やらずに年老いて、死んでいくのでしょうか。たまに、そういうことを考えると、たまにとても追い詰められた気持ちになります。

 性欲を、セックスに向かう何らかの欲望を満たされた瞬間の小泉キラリの顔は、満たされていながらも絶望的な表情に見えるときがあります。満たされても満たされても、その充足感は一瞬しかない。いつも何かが欠落して、いつも何かが、足りない。

 田辺聖子の昔の小説で、幸せに満たされた瞬間を「死んだもののようになった」と表現してあるものが、ありました。若い頃読んだときには、一瞬ぞくっとしただけだったけど、今は、その言葉の意味がよくわかる気がします。その言葉が、あらゆる意味をもって、自分の心のすぐ近くにあるという感じがします。「死にたい」という言葉と、「幸せになりたい」という言葉は、ある意味で、同義です。手首を刻みつづける人が願っているのは、幸せなのではないか、と私は思う。そして、本当に満たされることがあるのなら、そのとき、他の欲望は死んでしまうのではないかと、思います。その思想は、ネガティブでもポジティブでも、どっちでもない、ただの事実のように思えます。

 生きている今は、深い悲しみも苦しみも、喜びも、そういう感情を味わえることの全てが、それだけでものすごい、たまらない「喜び」です。でも、満たされて、死んだもんのようになるのだったら、それはそれでいいかもしれない。誰かが、欲望のステージを降りて、幸せへ向かうならば、私はその人を祝福したい。

 小泉キラリという女優は、横顔にぞっとするような業の深さやはかなさを漂わせながらも、その業の深さに翻弄されないだけの健康さや強さも持っている女優さんだったように、思います。性欲は病的なものばかりではないし、破滅型のセックスだけが本物ではない。どうか、新しい着地点から、素晴らしい人生を歩まれますよう。