仕事の予定が詰まってなくてヒマができるとひたすら不安になるというフリー特有の症状のおかげで、ゴールデンウィークって全然楽しめないので(忙しさがまだまだ物足りない……)こうして夜中にパソコンに向かったりしています、雨宮です。

 まずは仕事のお知らせから。今発売中の「ウォーA組」(サン出版)で長崎みなみ監督のインタビューを書いてます。そして「ビデオメイトDX」(コアマガジン)に、女ハメ撮り師・山口真理さん(現役の女優さんでもあります)のインタビューを書いております。偶然にも女性の監督二連発でした。あと、「増刊三浦亜沙妃」(GOT)でコラムを書いてます。今回は、「男は、自分のカラダを『見られるもの』として意識してるのか?」というような話を書いてます。

 女だけが「美しい」から「見られて当然、見せて当然」で、だからミスコンだって「キレイなんだから見せて、その美しさをみんなで共有すべき」という、そういう考えのどこがおかしいか、ということに対するものすごくわかりやすい答え(ブスがひがんでるとか、男女平等でないから、というような答え方ではなくて)を書いた、小倉千加子さんという人がいて、私はこの人がものすごく好きなのですが、最近「幸福論」という中村うさぎ×小倉千加子の対談集が出て、そこでやっぱり「ある世代より上の男の人は、自分の身体が『欲望の対象としての身体』であることを意識してない」というような話が、出てきます。そこで小倉さんは「女を女性偏差値で裁くのがおかしいと言っていたのに、今の社会ははそれをなくす方向ではなく、皮肉にも男にも男性偏差値という新たな偏差値をつける方向に動いている」ということを言っていて、ものすごく、面白いです。

 たぶん、若い世代の男性は、ある種の「女の苦しみ」には共感できるんじゃないでしょうか。世代によらず理解でき、共感できる人はいるでしょうけど。あれだけ女を目の仇にしている本田透さんも、本当は「女に共感できる」はずだと思います。私が本田さんの「電波男」を読んで感じた感動や、「自分の思っていたことを本田さんが言ってくれた」という感覚は、小倉さんの、いわゆるフェミニズム関係の本を読んだ時の感覚と酷似しています。本田さんの怨念の核をなしている「見た目が悪いだけで恋愛市場から疎外され、学校や会社で存在が抹消されるという経験」を、多くの女は非常におそれていて、それゆえに「女偏差値」を保とうと必死になり、その必死さを「キレイになるために努力しているかわいい自分」的な言い換えでコワくないよう巧みに隠し、トシを取ることにおびえ、またその必死のアンチエイジングをなんとか「自然体」に見せようとごまかし続けるわけで、そういうことに成功している人が少ないから、YOUとか小泉今日子とかの「力が抜けているように見える女」に女は群がってゆくのであり、まぁ、なんかなぁって感じなのであります。私は、YOUも、小泉今日子も、それほどなのかっていう気持ちがある。私は、ああいう「自然体」は、嫌いです。YOUのくしゃくしゃの髪の毛なんて、ピシーッとブロウしてやりたくなる(好みの問題かもしれないけど、あのくしゃくしゃ感まで「演出」な感じがしてイヤなんです)。私が叶姉妹が好きなのは、美しいからとかセクシーだからとかではなく(叶姉妹がすでに多くの日本の男の欲望の対象から大きくズレていることぐらい誰にでもわかります)、彼女たちが非常にアナーキーだからです。あそこまでの「不自然体」には、多くの女は、こわくてなれない。だからあそこまでやられると「気持ちがいい」のです。しかもあそこまでやって、金持ちになって、芸能界で「成功」を収めている姿は、さらに気持ちがいい。

 私は「恋愛市場から疎外されて存在を抹消される経験」を、中学高校大学あたりの暗黒の学生時代に一度やっちゃったので、なんか「一度死んだ人生」って感じだし、女としてのデビューが遅いからまだ「女装するのが面白い」っていうフレッシュな感覚があったりします。「女偏差値」に対してはものすごい憎しみがあるのに、女装することは好きという一見矛盾した感覚については、中村うさぎさんが自己分析して対談集の中で語っておられますし、二階堂奥歯さんという方の「八本脚の蝶」という本に、日記という形でなまなましく、出てきます。私自身の感覚としては、女偏差値が憎いがゆえに、高偏差値だと査定されるとざまーみろという暗い快感が、あります。総理大臣を暗殺したい人間が、総理大臣と握手しているような、そういう快感です。憎しみだけで、肌や身体や服装をどうにかしようとする努力なんて、ばからしくてできませんから、それをする理由は、ナルシズムと、男に相手にされなくなるのが怖いという弱い自分を持っている、ということなのでしょう。一度死んだ人生、と言いつつも、一度入った恋愛市場から追いだされるのが、きっと、無意識ではものすごく恐ろしいんだと思います。追いだされて、金銭を介さないセックスができなくなったら、私はAVなんて、とても見れないかもしれない。「女偏差値」というものに自分で自分を縛りつけている限りは、もう絶対、見れないでしょうね。ほんとは、疎外されるような「恋愛市場」なんて、べつにないんですよ。老人ホームで愛憎劇が起こり、クラスの中でジミな女子が一番最初に初体験を済ませていたりするように、考えるよりもそれはずっと自由な市場であるはずなんです。

 以前、ある、ベテランの編集者の方に原稿を見てもらったときに、こう言われたことがありました。「あなたはどうして、恋愛やセックスは美男美女しかしちゃいけないものだっていう思い込みにそこまで取り憑かれているの? 実際はそんなことないって、周りを見てればわかるじゃない?」。なんで取り憑かれてるのか考えると、多分、憎しみゆえに、なのでしょうね。憎んでいるけれども、その中で勝ちあがって、自分をバカにした連中を嘲り笑ってやりたい、という怨念が、ずーっと心の中に棲んでいるのでしょう。その概念自体が崩壊して、私を嘲り笑った連中が無罪放免になるのが許せないのかもしれない。それに、自分の憎しみを手放すのが惜しいんでしょう。手放した方がいいし、さっさとそうするべきなんでしょうけど、「恋愛市場から疎外されてる人間に、恋愛やセックスについて発言する権利はない」という刷り込みが、いまだに解けない。

 人が、ヤリマンの人を「ブスのくせに」と断罪するのは、「美男美女しか恋愛やセックスをする資格はない」という思い込みによるものです。「ブスのヤリマン」と聞いてイラッと来る人は、男女問わず、自分の心にそういう思い込みがないかどうか一度ふりかえってみてはどうでしょうか。私はもちろん、取り憑かれているのでイラッと来るわけですけど(笑)、取り憑かれているから、同時に爽快でもあります。ブスという言葉の意味がここでほぼ無効になっていることが、気持ちいいんです。ざまーみろ、と思う。

 と、ここまで書いてやっと自分がなぜ蛯原友里の「エビちゃんシアター DOUBLE FANTASY」を買っちゃったのか、その理由が見えてきた気がしました。今一番女偏差値が高い女を見てみたかったんだね……。この本は「実写マンガ」という形式を採っていて、写真がコマのように配置されてストーリーを形成しているという、懐かしさすら感じるシロモノで、そのことだけを見て「ひー! 実写マンガだ!」と笑ってる人も多いかと思うんですが、これ、いい本なんですよ。エビちゃんと出会ったばかりの男が「俺、エビちゃんの好きなところ、今すぐ100コ言えるよ」というシーンとか「エビちゃんと出会ったから、もうケータイのメモリは用無しだ。すいません、チェイサーください! (そしてその中にケータイをドボン!)」というシーンとかすごくて笑い死にしそうになるけど、作る側が「実写マンガだってよ! ハハハ!」とバカにして笑ってたら絶対書けない場面ですよ。ちゃんと見せ場作って、インパクトのあるセリフ書いて、感情移入できるような無理のない恋愛の展開を考えて、しかもその中に流行りのスポットを入れ込んでいくっていう作業は、振り絞らないとできないと思う。あまりのキザさやマンガっぽい仕草に笑う部分は多々あれど、この仕事自体は笑われるべきものではなく、尊敬されるべきものです。こういう、バカらしいかもしれないことをバカにせず、ちゃんと全力注いで作ることができる人は、私は好きです。「話、浅っせ〜!」とか「女の妄想ってこんななのかよ!」とか言われる部分も含めて、バカバカしさから逃げずにしっかりツカミを絞り出して書いてる感じが、ちょっと感動的ですらありました。これがただのオシャレなだけの話だったら、少なくとも私は買ってないし、今のエビちゃん人気をしてもここまでは売れてなかったんじゃなかろうか。そしてエビちゃんの服は7割方白のワンピースでした! これが最強のモテ服なんだろうか……?

 私、ずっとエビちゃんって不思議だったんですよ。山田優の方がずっとエロいのに、なぜエビちゃんなのか、と。世の中は「エロ」とか「色気」じゃなくて「女偏差値」で動いているんです。そして「女偏差値」というのは、「エロ」や「色気」の部分も査定の対象ではあるけれど、それだけではないんです。たぶん、麻生久美子とかも「女偏差値」としては、それほど高くないんじゃないか。「女偏差値」を査定するのは、男だけじゃなくて、女も率先して「女偏差値」を査定しあっているのですから、男ウケ抜群で同性から嫌われるタイプの麻生さんは、ちょっと不利だと思う。彼氏を麻生に取られたら、多くの女は激怒するでしょうが、エビちゃんに取られたらがっくり肩を落とすしかないっていう感覚がなんとなくある。多くの男が麻生さんと「セックスしたい」と思うのに対し、エビちゃんとは「デートしたい」と思う感覚と、それはなんか関係があるのではないか。私は個人的にエビちゃんは好みではないのに、それでも「なんかちょっと離れて見ていたい」という気持ちはあるんですよね。「えびの数だけ幸せになろう!」とか言われても、ムカつくどころかちょっと意外な声質の硬さにポワーンとしたりして。脱いでほしいとはまったく思わないし、乳首がどんな色か想像しても全然楽しくないけど(山田優だと楽しい。知人のAV監督が、山田優のことを「ケツまで毛がびっしり生えてそうで好き」と評していて、天才だと思った。ぜったい生えてる)、手でハート型を作ってるとことか見るのはちょっと幸せな気持ちになる。えびの数だけ幸せになりたい〜!(えびフィレオ好きじゃないけど)

 そして、「女偏差値」とは関係ないけど、一時ほど圧倒的な強力さではないにせよまだ魔法の力が残っている松浦亜弥森高千里の名曲を歌っている姿を見ると、ティンカーベルが小さな全身を振り絞って魔法を使っているようで、かわいさや一生懸命さやいろんなものが混じり合った、ちょっとした幸せな気持ちになります。松浦亜弥の「かわいさ」を記号化して「つくりもののかわいさ」を演出する天才的な能力には、「生まれ付きの自然なかわいさ」をまったくのゼロに無効化してしまう爽快な力があって、初めて見た時は衝撃的でした。まえけんゴリエという巧みな女装者を初めて見た時のあの気持ち良さというのは、「女装のうまさ」に対する、同じ女装者(女っぽい女というのは、女装をしているんです)としての尊敬と、「つくりもののかわいさ」が「自然なかわいさ」を無効化する爽快感だったのではないでしょうか。「バウンド目線」はマジで尊敬したな〜。

 って、AVの話じゃなくなってますが、最近の弟からの電話の一節を引用します。「姉ちゃん、あのさ、女の子同士がプロレスみたいに戦うやつ、あれって何が面白いと?」……弟よ、それは「キャットファイト」と言うんだよ。面白い人には面白いし、エロいと思う人にはエロいんだよ……。とりあえず地獄女史の「大草原の小さなイエ〜!」というかけ声(かけ声?)を教えてあげました。ビデオでピンと来ない人も、ナマで見たらけっこう面白いと思います。いろいろ好みはあると思いますが、私は「そんなに訓練とかしてない人同士が、必死で戦ってるんだけど、外から見たらかなり情けない戦いぶり」になっているところが、わりと好きです。でも、なんでまたそれを選んで観ているのか、弟よ……?