『攻殻機動隊 S.S.S』もしくは、天才と秀才が混在する豊かさについて

★まずお知らせを。本日発売のユリイカ『監督系女子ファイル』に文章書きました。ホントは映画監督の特集なんですけど、私はAV監督のペヤングマキさんについて書いています。ペヤングさんのAVについてと、溝口真希子名義で演出・脚本をされているポツドールの『女のみち』というお芝居について書いていて、5000字ぐらいかな? 立ち読みすると目が疲れる本だから買ってくれると嬉しいです。

★あと、思うところあって今日から年末までできる限り毎日更新してみようかと思います。息切れしたらすみません。

★面白かったよみものを紹介します。「女性が男性のかなり多い環境に身を置くことをためらう理由」
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20061126

 理系の学生さん(女性)の書かれたもので(他のエントリも面白いです)、大きく3つの理由が挙げられているのですが、3の「女性の少ない環境を選択した(もっともらしい)理由や動機付けを(過剰に)求められるため」というのが「は〜なるほど〜」という感じです。「女なのに理系? なんで?」って過剰に物語を求められるというのは、「それが嫌だから理系を選ばない」ということにはならないかもしれないけど(理系が好きな人はそれでも理系を選ぶんじゃないかと思う)、そう聞かれること自体「女で理系は普通じゃない」という目で見られている、ということだから、その「普通じゃない」と思われることが嫌で理系を選択しない、ということはおおいにあると思いました。「普通じゃない」のは、いろいろずーっと、めんどくさいですからね。

 私が身を置いてる環境はエロ出版なのですが、エロの場合「なんで?」って聞かれて、ほんとうの答えは「スケベだから」だったとしても、それ言っちゃうと理由その1とその2(「男性の多い環境に自ら入るということで「男好き」というレッテルを貼られるのを恐れるため」「男性の多い環境に入ることで、複数の男性から性的な対象(のみ)とみなされることを必要以上に恐れるため」)の堂々巡りになるんですよね。私はどっちかというと男はその、好きな方だし、性的対象として見られることも場合によっては嬉しいこともありますが、仕事ではそれが原因で足元から信頼関係という地面が割れていくような絶望感を味わうこともあります。エロの場合、「好き好んで入ってきてるわけだから、好きなんだろ、エロが。ついでにセックスも好きなんだろ、誰にでもエロい目で見られて嬉しいんだろ」と思われて、セクハラなんて言葉は存在しないに等しいというのもあるでしょうね。「エロが好き」と「セックスが好き」と「誰とでもセックスしたい」の間には大きな違いがありますけど。「恋人のことが好き」と「男なら誰でも好き」との間の差ぐらいあると思います。

 「好きだから」という理由だけで納得してもらえない、というのも笑ったな〜。ホント、その通りですからね。「ホントは作家になりたいんじゃないの?」(『ユリイカ』に書いたから今後また言われそうです)「ホントは何を目指してるの?」って追求されて、「いや、別に何を目指してるっていうわけでも(エロライターを目指して、もうエロライターにはなったんだけども)」と言葉を濁すと、「まぁ、女はいざとなったら結婚すればいいからね〜」と、内田春菊がいたら瞬時に殴殺されそうなことを言われたりしちゃうわけです。

 私は今年、三十路に突入したので、セクハラはだんだんされなくなる(というか、性的な視線を浴びなくなる)だろうと思っていたんですけど、よく考えたら笙野頼子が「ブス!」とか言われて(当時の論敵だった男性も容姿はアレだったんで「ブス!」って言い返せ! と思ったよ。まぁブスって書いた人は論敵本人ではなくて容姿はかわいい男性でしたけど)金井美恵子でさえ「欲求不満のババア」とか言われるような世の中ですから、形の違うセクハラというもっとシビアなものがこの先いくらでも待ってると思うと、目の前が暗くなるどころか逆に血が騒ぐぐらいです。

 男が嫌いで、こういうことのすべての矛先を男に対して向けるのなら話は簡単で「男性切り刻み協会」(ヴァレリーソラナス主催。詳しくはこちらで→http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_19.html)に入っちゃえばいいんですけど、そういうことではないのです。私はたまに「男を憎まないようにするので精一杯」なときはありますけど、身近な、何人かの人が「女なのにエロとかやってて、変わった人だね」と言いながらも、ちゃんと仕事相手として見てくれたり、ひとつだけでも何か、大事なことをわかってくれれば、もういいやって気分になるときもある。男女の友情は成立するかなんていうヌルい議論は今さらやってらんないですけど、ただひとつ言えることは、仕事をする上での戦友には、なれます。たとえ一度や二度、セックスや恋愛が介在したとしても、なれる人とはなれる。どんな状況にある人も、そのことに希望は持っていいと思う。

 こんだけ長々書いておいて何だけど、今日の本題はここからです(笑)。ははは、なっげー!

『攻殻機動隊 Solid State Society』もしくは、天才と秀才が混在する豊かさについて

 えっと、姉ちゃんがいきなりこれについて語り出すからといって、この作品がエロアニメだというわけではないですよ。その、最後の方にローライズでケツの割れ目とか股のY字ラインの最初のほうの部分(源流ライン。命名・俺)が見えてるとか、相変わらずケツと太もものムチムチ加減とかおっぱいの微妙な釣り鐘加減がもう熟女モノの域に入っててエロすぎるとか、その完熟ボディをなぜかやたら露出の多い服で見せつけるのはなんかそういう性癖で本当は見られて感じてるんじゃないのかとか、そういうことはあるんですけど、そんな攻殻でヌケるというあまりホメられたものではない特技を持っている姉ちゃんのたわごとはさておき、ちょっと、これは、なんか言わせて欲しい感じなので、書こうと思います。アニメで欲情するなんてねぇ……。知り合いには「絵なのに、なんでおっぱいとかお尻とか出てきて喜ぶのかわからない」と一蹴されてしまいましたよ。まぁ、問題はアニメに欲情することではなくて、アニメに欲情する三十路女がどうなのかっていうところにあるんですけどね。リアルで最近萌えたのははてなのアイドル(略してはてドル)の吉田アミさんのフルメイク自画撮り写真(http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20061125)です。し、知り合いなのに萌えてる……。キモい……自分が! 同性を「カワイイ」とか言う女は信用できないし気色悪いと常々思っていたのに! でもこの唇のツンツンぶり、たまらん……。と、もう会ったら顔見れなくなるようなことを書いてどんどん自分をドツボに追い込んでますが、肌キレイだよな〜。やっべ〜。ニッコリ笑ってくれたら死ぬかも。わーホントだんだん友達になれる可能性、薄くなってきたよ〜。でも、萌えるんだからしょうがないじゃないか!


 ファンの方には自明のことでしょうし、ファンでなくともある程度アニメやマンガを知っている人ならば、『攻殻機動隊』には三種類あるということはご存知かと思います。原作者である士郎正宗の『攻殻機動隊』と、押井守の映画『攻殻機動隊』(と、『イノセンス』)、そして神山健治TVシリーズ攻殻機動隊S.A.C』の三種類が攻殻にはあって、「三種類」と書いてしまうほど、この三つの攻殻はそれぞれ違っています。

 もちろん、三種類あればごくごく単純に「どの攻殻が一番好き?」という質問を自分に対してしてしまうのですが(攻殻機動隊について話せる友達が私の周りにはほとんどいないので、一人淋しく自問自答だよ!)、これが、ものすごく難しい質問なわけです。

 「好き」という感情をかなり根っこの部分で揺さぶってくるのは、圧倒的に原作の士郎正宗攻殻なんです。この原作には、原作で描かれてない部分も含めて、全てがある感じがする。描かれていない部分も含めて全てがあるというのは、この原作が世界観そのものを提示していて、そこにいるキャラクターについては「好きなところ、自分が面白いところしか描かない」という姿勢を全うしているからじゃないかと思う。ある意味極めてクールで、ドライで、でもキャラクターにも世界観にも魅力がありすぎる。これは、もう、原作だけで完結することは前提にしていないのではないかとすら思う。ありとあらゆる同人誌で続きや、描かれていない部分が描かれることを含めて限りなく拡大していくイメージがある。文字通り「原作」という言葉がふさわしい、最初から「原作」であり、何かの「原作」とされる運命を持った作品。「原作」の強度としては、最強なんじゃないかと思う。劇場版とTVシリーズ、それぞれ二回ずつに加えて今回の長編まで作られても、原作はまったく色褪せない。別物にしか見えない。

 士郎正宗の原作は、天才の仕事だと思う。天才というか、何なんだろう? あの魅力のあり方を説明するのは難しい。私は、原作に描いてあることを全ては理解できないんです。ものすごい頭のいいことが描いて(文字でも書いて)ある。その「わからなさ」も含めて魅力的というか、その「近づけなさ」が余計に焦燥感を掻き立てて「好き」という感情を増幅させるという、とんでもないことになっている。そしてそれは、押井守攻殻にも通じる部分がある。

 押井守攻殻も、私は「わからない」んです。頭悪いのをさらけ出すのを覚悟で言うと、何度も観ているのに、押井攻殻のストーリーを説明しろって言われたら、できない。観るそばから忘れてるというか、そもそもそんなこと考えて観てないんです。『イノセンス』も劇場で観たけど、あのパレードみたいなのがものすごく綺麗だったこととか、素子とバトーの関係のこととかだけが印象に残っていて、そのテーマについて深く掘り下げるほどは理解していない。で、わかんないからそれがつまらないかというと、わかんないから「魅力的」で「面白い」わけです。わかんないけど、これは不条理なものではないということはわかる。メチャクチャだから理解できないのではなく、何か、自分にはわからない筋が一本通ってるということはわかるんです。そのことが、わからないながらにとてつもなく魅力的に見える。そしてあの映像美。イメージの喚起力。これも、天才の仕事でしょう。「観れるだけで幸せ」と思ってしまうほどのものがあります。

 士郎正宗攻殻のキャラは、ちょっとすさまじくチャーミングです。押井の攻殻のキャラはそれよりはかなりメランコリックというか、別人みたいですが、もともとの原作が「そういう面があるのもアリ」なようにできている。私は最初に観た攻殻は押井攻殻で、次に士郎正宗。その時はまだTVシリーズはできてなかった。この時期、私はかなり欲求不満でした。「もっと観たいのに!」と思っていた。原作にも、押井攻殻にも描かれていない攻殻キャラが観たかった。どちらの作品にも、キャラが感情を剥き出しにする人間ドラマのようなものはほとんどなくて、私は「原作ですらそういうものではない」のに、「原作には描かれていない部分を、このキャラクターと世界観のままで描いてほしい」と思っていた。そして目の前に現れたのが『攻殻機動隊S.A.C』、つまり神山健治攻殻機動隊でした。

 どれが一番好きか、と聞かれると「士郎正宗」と答えそうになるのですが、私はこの、神山健治攻殻に、泣くほどの愛情と思い入れがあります。自分が観たかったのはこれだ、という確信が、第一回からあった。神山攻殻のキャラは、原作に比べても押井攻殻に比べても、悪く言えばベタで、私程度の知能でもよくわかる。下世話な恋愛感情や友情みたいなものも持ってるし、人間的なんです。これは、初めての「感情移入できる攻殻」だった。おそらく私だけでなく、多くの攻殻ファンが「観たかった」ものを、神山健治という人がファン代表として作ってくれた、というのに近い感覚があった。

 神山攻殻は、私は、天才の仕事だとは思わない。どちらかと言えば秀才の仕事だと思う。神山健治と、Production I.Gと、管野よう子の作り上げた攻殻は、ちょっとあり得ないくらいに丁寧で、サービス精神がある。ここでこんな音楽が鳴ったらたまらないなという音楽が鳴って、ここでこんなアクションがあったらたまらないというアクションがあって、ここでこんなセリフ言われたら鳥肌立つなというセリフがある。それを、カンとかでやってる感じがしないんです。普通の人が、全力を振り絞って振り絞って、限界まで絞り上げたところで出しているアイデアなんじゃないかと思う。

 これは、『パプリカ』を観た時にも感じたことなのですが、あまりにも丁寧に作られた作品というのは、観る人をそのことだけで感動させることができるんです。私は『パプリカ』を観ているあいだ、その音楽と、イメージと、絵の良さ、作品全体の質の良さに「ああ、自分はこの人たち(作った人たち)に、観客として愛されている」という多幸感すら感じました。試写会で観てるから観客としては愛されてないとは思うけど、作っている人たちが「作品」の方ではなく「観客」の方を向いている、というのを感じた。作品としても完成度は高いんですけど、私は『パプリカ』が、それほど独創的でケレン味のあるものだとは思わないし、どちらかというと非常に生真面目な作品だと思う。それはマッドハウスの欠点ではないし、その生真面目さがしびれるほど良かったと感じました。非常に生真面目に、飛べる限りの高さで飛んで遊んでいる感じがする。パプリカの乳首を隠してしまうのも生真面目だから(まだ言うか!)かもしれませんけど。

 神山攻殻を観ているときも、私はそれと同じ種類の多幸感を感じます。こんなに気持ちいいものを観せてくれるなんて、と思う。どういうものが気持ちいいのかということを多分、胃液を絞り出すようにしてみんなで考えているんじゃないかと思う。視聴者に媚びるんじゃなく、視聴者を楽しませるために振り絞って、でもその心意気は胸の中にしまって「作品は見えるものが全てだから」と、絶対に手を抜かずにやっているんじゃないだろうか。いくら技術が発達したからって、こんなクオリティのものがそうそう簡単に作れないだろうということはさすがに予想がつきます。

 数年前に、私は仕事ですごく追い込まれたことがあって(力がないのに、実力以上の仕事を引き受けてしまったのが原因なので、自業自得なのですが)、そのときは毎日この、神山攻殻を観ることだけが楽しみでした。一話ごとに入っているオープニングさえ飛ばすことができなかった。あまりにも綺麗なオープニングで、うっとりして観ていました。そこには、天才にしか描けないイメージや、天才にしかできない独創的なものは、なかったかもしれない。ストーリーも、地に足がついているというか、あまりにもブッ飛んだものではありません。でも、そのことは全くマイナスではなかった。秀才が丁寧に丁寧に視聴者のために作ってくれたものは、私にとってあたたかいごちそうのようなもので、その中で私は草薙素子のかっこよさにしびれ、タチコマの愛くるしさに悶絶し、バトーの一途さにせつなくなったりしていたわけです。バトー、『S.A.C』の最後のほうで素子とセックスしたと思うけどな! よかったね! でもしたから余計にせつないね! カラダは抱けても心は抱けないね! しかも抱いても義体だしね!

 昔は天才がいた、今はいない。と言うことは簡単です。たとえそうだとしても、私はそのことを悲しいとは思わない。これからは秀才の時代だから、天才は必要とされてないんだとも思わない。天才の作品と秀才の作品があって、どっちも観れるということの豊かさを、もっとも強烈に感じます。私は、三種類もの攻殻機動隊が観れる時代に生まれて良かったと心から思う。神山攻殻が観れて、本当に良かったと思う。私の心の何割かは、神山健治によって支えられているんですよ。天才じゃないということ、圧倒的な個性を持たないということ、それは決してマイナスではなくて、こういう形でプラスにできる。その姿勢の健全さこそが、クリエイティブな姿勢というものじゃないかとすら思う。

 私は、神山健治攻殻が好きです。天才じゃなくても好きだし、天才か秀才かということにはもう貴賤はないと思う。ここまで夢中にさせてくれれば、貴賤なんか。どうでもいいことです。作家として天才ではないとしても、エンターテイナーとしては超一流です。キメ台詞覚えるために何回も観るとか(覚えても言う機会ないけど。友達いないから)、好きな場面(エロい場面も含む)を観たいがためにさっき観たのをもう一回リピートするとか、そんな経験が大人になってから何度あるでしょうか。私は神山健治のおかげで、あるし、今日もこれからもう一回『攻殻機動隊 Solid State Society』観ます。初回特典ディスク、まだ観てないし。では、皆さんおやすみなさい。今日は、2030年代の夢を。