SEX/女/少女

ポツドール『女の果て』、観てから頭が冴えて眠れなくなってしまいました。


 私は溝口真希子さんのお芝居には、いつも救いがあると思っていて、前作『女のみち』では、企画AV女優の救いようのないどん底の部分を描きながらも、そこに夢物語や、ほんの一部の人しか目指せない(入れない)ゴールではない、その人がその人であり続けるだけでいいのだというものすごい現実的な、等身大の救いがあって、私はその捉え方にものすごく感動したのだけれど、


 今回の『女の果て』にも、やっぱりなんか救いのようなものを感じてしまって、それははっきり、どの場面が、という形では言いにくいものなのだけど、どんなに死にそうな出来事があっても「でも、生きていくんだよ」という、言葉にすればひどくありふれてしまうけれど、どうしようもなく大切な現実。なのだと思う。


 私は、今年、死ぬかと思う出来事、死んだほうがマシだと思える出来事、とってもありふれた、どこにでもある不幸な目に遭って、やっぱり死にたいと思ったけど、生きていて、こういう芝居が観れたり、あたらしく友達ができたり、友情の両思い(こっちが「面白い人だな、好きだな」と思っている人が、こっちのことを同じように思ってくれる)のようなことが起こったり、宗教じみた言葉でいやだけど奇跡のようにしか思えない毎日がこの12月にはあって、今は死にたいくらい強烈に生きたいと思っている。


 あと、溝口さんのお芝居で好きなところは、セックスの描き方で、ふつうエロ業界でない場所でセックスを取り上げる場合、それは単なる「刺激物」か「笑いもの」の要素にされてしまう場合が多いと思うのだけど(セックスという、普段隠されたものが日常にいきなり出てくるだけで人はビックリすると思うし、その「ビックリ効果」に頼っているものも多いと思う)、


 溝口さんの作る話の中で、セックスは、切実な愛情表現でもあり、なおかつたかがセックスでもあって、そしてちゃんといやらしくて興奮するものであって、優劣合戦の道具であって、そのいろんな面があるゆえの苦しみがちゃんと描かれていて、


 そこは、私がAVにかかわっていて、いちばん気になるところでもあるので、いつも、観ていて他人事ではなくなってしまう。


 私がAVにこだわる理由はたぶん、そのへんの「好きな彼氏が遊びで他の女とヤッて、たぶんけっこうエロくてすっごい興奮したらしい」とか、その逆の立場で「大好きな男がセックスだけはめちゃめちゃいやらしくヤッてくれるんだけど、全然気持ちがない」とか、それぞれの男女逆バージョンとか、そういうものすごくよくある、けれど自分の中で根本的な解決ができない問題にあるのだと思う。


 自分の中にも「好きな人とセックスがしたい」という欲望と、「ものすごいいやらしくて気持ちいいセックスがしてみたい」という欲望の両方が、何の矛盾もなく存在していて、


 「私は、もし男に生まれていたら、絶対ヤリチンになったのに」といつも思う。アニマ・アニムスとはよく言ったもので、私の中にいる男はヤリチンのギャル好きで、常に新しい女が好きで、もー愛情なんかクソ食らえってくらいのゆきずりでさっき会ったばっかなのにねぇなんでこんなことしてんの? ねぇ? もうすっごいよここ熱っつくてさぁみたいなことを指でかきまわしながら言ったりする男で、だからそういう男を好きになってしまったりして(※詳しくは『溺死ジャーナル』をご参照ください)死にそうになったりするんだなぁ、と思う。


 そして、そういう男や、女たちを、うらやみ、ねたみ、「なれなかった自分」として強烈に憧れ、憎み、自分の中に焼き付けていっているような気がする。


★眠れないついでに金原ひとみ『ハイドラ』を読んだら今まで読んだ中で(たぶん全部読んでるけど)一番良くて、さらに興奮して眠れなくなった! すっげえなぁ!


 私は自分には「少女時代」というものがなかったと考えていて、それは最初から大人だったという意味ではなく、「少女」という言葉の中に、どこか「美しい」という定義があるような気がして、子供時代ひどい容姿だった自分は「少女」として失格なのだと、少女である年齢の頃から思っていた。


 だから、大島弓子岡崎京子も、貪るようにそのほぼ全作品を読んでいるにも関わらず、「好き?」と聞かれると反射的に「大ッキライ!」と答えてしまいそうになる。


 二人とも、別に少女を美化しているわけでもなく、どちらかといえば少女時代が終わること、終わってどこへ行くのかみたいなことを描いているのに、それでも「少女時代」というものが描かれているというだけで、ものすごい憎くなってしまうのだ。「この人たちには、少女時代があったのだな」と思うだけで、ひどい嫉妬に駆られる。


 逆に、少女が少女のままでいる作品には、憎しみは感じない。届かないものとして諦めがつくから、なのだと思う。私が憎いのはたぶん「少女時代を経て、大人になった、少女も大人も両方経験している『女』」なのだ。


 周りからキモがられるほどに愛している吉田アミつんの『サマースプリング』でも、主人公が「少女」であることだけでもう、主人公がどんなひどい境遇にいようとも羨ましくて嫉妬に目がくらんで、まともに書評とか、なにも書けなかった。吉田アミちゃんのことは、本人の少女的な部分も含めてもう、自分でも気持ち悪いくらい好きなんだけど。なんなんだろうかこれは。もしかしたら少女性への憧れを吉田アミへの愛情へと変換しているのだろうか。わー、キモーい。


 思春期、中学生の頃、やおいが自分の中の大きな柱になるほどハマっていた理由は、おとなの女になることへの拒否でも、自分の女性性の否定でもなんでもなくて、ただ「みにくい自分、みにくいがゆえに少女の年齢であるのに少女になれない自分、そして年をとっても、みにくいがゆえに欲情される『女』にはなり得ないであろう自分」からの切実な逃避だったと、今は思う。


 自分は、会社を辞めてからひどかったにきびが治り、遅ればせながら「おとなの女」になることができたのだけど、だから少女時代に少女であれた、美しかった人のことを、当時の自分の絶望の深さ、周りの「少女」たちに見下されていたことなどを思い出して、憎く感じるのだろうと思う。


 金原ひとみは、「女」を描いていて、だから最初うわっと思って避けたけど、やっぱり好きになった。


 彼女が何度も描いている恋愛に対する重度の依存、愛情を得るために容姿に対する脅迫観念と異常な執着があること、そういうことは、今の「おとなの女」の多くが抱えている、ひどくありふれた苦しみで、だからこそそれを当事者でありながら小説にして描けることが、すごい、と思う。