「AV OPEN」そして瀕死のAV批評について

 みなさんは現在「AV OPEN」というイベントが行われているのをご存知でしょうか。(詳しくはこちら→http://www.av-open.com/ソフト・オン・デマンドが主催しており、参加メーカーは全16社。勝敗は売上本数で決まり、優勝賞金は一千万円。「セルビデオの日本一を決める」と謳われているイベントです。

 このイベントが行われるということは、昨年12月、ソフト・オン・デマンド大賞の授賞式で発表されました。私はその会場にいたので、昨年12月から、このイベントの存在を知っていました。でも書かなかった。なぜか。

 細かい理由はたくさんあります。まず「セルビデオの日本一を決める」と言いながら、今のセルビデオの世界で重要な位置を占めているメーカー数社が参加していない(メーカー側が断ったのではなく、「参加しませんか?」と誘われてすらいない)こと。メーカーの規模は大から極小までさまざまであるのに、予算制限を始め、統一ルールがないこと。そしてあくまでも「メーカー対抗」であるために、作り手の顔が見えにくいこと。「参加メーカー全16社」という規模なため、普通のお客さんは全作品をとてもじゃないけど買えないだろうということ(何本か買ってメーカーごとのカラーの違いや、「ここはこう来たか!」というような勝負の醍醐味を味わいにくく、イベント自体をあまり楽しめないのではないかということです)。要するにこれだけの規模で、これだけお金をかけたお祭りなのに、作る側にも見る側にも楽しめる要素や金以外の利益になる部分が少なく、AVの面白さを伝えるためのイベントであるはずなのに、一番面白いところをくまなくすくいきれているとは言えない、ということです。

 そして最も大きな理由は、これが「売上だけを競う」勝負であり、そこに売上以外の価値観が存在しないことです。

 毎年M−1グランプリがあれだけ盛り上がるのは、賞金があるからでしょうか。私はM−1を毎年見ていますが、賞金がいくらなのか思い出せません。あの「日本一決定戦」を誰もが楽しみに見ているのは、審査員に島田紳介松本人志がいるからじゃないでしょうか。「見る目が確かだ」と多くの人が認める、そういう人が審査員にいるからではないでしょうか。賞金なんか10万だろうが100万だろうがどうだっていいんです。「松本が誰を面白いと思うのか」が知りたい。M−1の「日本一」は、視聴者の多数決で決められるものではありません。視聴者の多数決だけで決まるのだとしたらあなたはM−1を見ますか? そんなぬるい勝負、少なくとも私は絶対に見ません。

 ドグマ主催の「D−1 CLIMAX」には、売上という結果以外に大きな意味で「批評」と言えるものが存在しました。勝負に参加している監督の言葉が、何より信頼できる「批評」でもあったのです。現役でお笑いをやっていて、誰もが一目置いている「松本人志」に近い立ち位置にいる、現役の強力な監督が何人も参加していて、作品に関する意見の交換の場があった。出場すれば、二村ヒトシ監督やTOHJIRO監督、松本和彦監督やカンパニー松尾監督、ばば★ザ★ばびぃ監督といった、多彩な顔ぶれの監督陣に作品を見られることになるわけですから、そこには賞金以外に参加する意義もあれば、挑戦する意味もあったのです。

 もちろん、各監督は立ち位置も違えば価値観も違う。でも、それぞれの言っていることは、それぞれの立ち位置からの意見としてはある意味で「正しい」。それぞれの意見を交換することには、とても重要な意味があるし、それこそがこういうイベントの「うま味」なのだと私は思う。自分がいま、もしも、若手のAV監督であったとしたら、作ったものを尊敬するAV監督が見てくれて、それについて意見を言ってもらえるということが、どれだけ励みになるだろうか。そしてそういう「重みのある言葉」によって、その作品に興味をひかれる人も出てくるのではないだろうか。「どの作品が、どうだったか」ということを、作品を見る目のある人間が話し合う、その議論はそれ自体が作り手にとって有益であるし、見る側にとっては、その議論を通して今のセルビデオの世界の全体のことがぼんやりと浮かびあがってくるような、そういうものになり得るはずなのだ。

 「AV OPEN」には、この「批評」がなされる場が、いまのところ存在しないように見える。誰もが「この人の言うことは正しい」「この人は何かときどき、はっとするようなことを言う」「この人はAVについて、本当によくわかっている」と思うような人が、何か意見を言える場というものが存在しない。参加監督の中には、平野勝之監督をはじめとするベテラン監督の姿もチラホラ見えるのに、である。

 この「批評の不在」は、何も「AV OPEN」に限ったことではなく、実は今のAVの世界全体で起こりつつあることだ。数少ないAV雑誌のうちのいくつかはAVメーカーが版元であり、自社作品の販促カタログと化しつつある。版元がメーカーでなくとも、広告の関係で、編集部が厳しい批判を「自粛」する場合もある。編集部から「けなさないでください」と言われることもよくあることだし、メーカーから名指しで「雨宮にウチの作品のレビューを書かせないでくれ」と編集部に言われることも、あった。

 AV批評に意味があると考えている人間なんて、ほとんどいない。AVについて書かれたものの一部が「AV批評」だということすら誰も認識してない。メーカーは雑誌なんか販促カタログだと思っているし、AVの作り手もタダでサンプル貰って悪口を書いて何の不利益も被らないライターなんて人間のクズだと思っている。ユーザーはユーザーでライターの書く提灯記事なんて信用できねえと思ってるし、AV雑誌なんか、なくなったって誰も困らない。AV雑誌を買わなくてもネットを見ればレビューなんていくらでも見つかるし、だいいちサンプルが見れる。「買うための参考として」のAV雑誌なんてもう不要なんだと言われ続けているし、宣伝記事じゃない「AV批評」をやってる雑誌もすでに数えるほどしかない。

 AV雑誌なんかいらない、AVライターなんかいらない、AV批評なんかいらない。見ている側からも作っている側からも言われる言葉だ。追い討ちをかけるように素人まがいのライターが愛情もクソもない文章を垂れ流し、自己満足のためだけにさもわかったようなことを書いて批評家ぶる。雑誌はなくなり、AVレビューの仕事は減り、耳元で大声で「いらない」と宣告されてるような気分で、私は毎日生きている。

 批評って何なのか。宣伝の役にも立たず、ユーザーの購入ガイドにすらならない「批評まがい」に、何の意味があるのか。実際に批評の場が減り、ライターの仕事が減り、「いらねえよ」ってことが立証されているかのように思える現状の中では、批評が「必要か否か」を議論する必要すらもうないかのように見える。でも私はまだ、批評がとても大切なものだと思っている。

 必ずしもこの世の中で、多数決の結果だけが「正しい」わけではないということを考えてほしい。ヒットチャートの一位の音楽は必ず「いい音楽」だろうか。「売れる」音楽なのだから、多くの人の心をとらえる音楽であることは間違いないだろう。でも、それが「上手い音楽」か、「技術的にすぐれている音楽」か、「斬新で画期的な音楽」か、ということはまた全然別である。じゃあ「売れる」ということ以外の評価はどこで誰がするのか。それは多数決では、できない。世の中の多くの人がみんな「音楽を聞き分け、上手いかどうか判断する耳」や「斬新かどうかを判断する知識」を持っているわけではないからだ。「いい音楽」と呼ばれるものには、さまざまな「いい」の基準があり、たとえこの世で数十人にしかわからない難解な音楽でも、それがものすごく「いい」ということはあり得る。その「良さ」を、その微妙な「価値」を、丁寧にひろいあげることは大切な仕事では、ないんだろうか。

 当たり前のことだけど、AVも商売だから、売れなければ意味がない。だから批評なんかされたって意味がないし、批評なんか、なくても誰も困らない。でも、批評のない世界は大切な何かをとりこぼす。「AV OPEN」に批評の力が不在なのは、AVの世界において批評というものが激しく力を失っているからであり、そのことで私は誰のことも責められない。批評の力を見せることのできない自分にも、その責任の一端があるからだ。自分の言葉に何の力もなく、自分に何にも、力がないから、発言する場を与えられない。大事なものを守れない。何よりも大事だと思っているものを、守れない。「AV OPEN」で私が味わっているのは、目の前で大事なものが踏みつけにされているような、そういう気分である。この気分は、参加作品の出来の優劣とは関係がない。作品が優れていようがいまいが、売上のみによって結果が出され、それ以外の価値について授賞式の壇上ですら何か言われる気配が今のところないという、そのことが、きついのだ。

 「売れているものはいいものだ」という価値観を私は否定しない。それは正しい価値観だと思う。ただ、これだけ見ている人の好みがバラけ、ジャンルごとに細分化が進みつつある今のセルビデオの世界で、「ただ純粋に数が売れた」という価値観だけが正しいというのは、大きな誤差を生む考え方だと思う。例えば、痴女モノが好きなお客さん1000人のうち100人が買った作品と、おもらしモノが好きなお客さん50人中40人が買った作品と、どっちがより作品として優れていると言えるだろうか? どっちがより「売れた」と言えるだろうか? 「正しさ」の基準、「いい」ものの基準は複数あるはずで、複数あるのが健全な世界のあり方だと私は思う。

 そりゃあ、大きなワクを相手にしなけりゃ儲からないかもしれない。けど、小さな小さなワクのお客さんを相手に大事にいいものを作っているメーカーもあるし、「数字で見れば大したことないかもしれないけど、そのジャンルにしてはものすごいヒット」というような作品もある。そういう、セルビデオの、あまり表には出てこない豊かな部分がこのイベントからはあまり見えてこない。新しいものや、新しい流行はいつだって、最初は小さなところから始まる。「売れてる」「売れてない」は、動かない事実だ。でもそれだけに気をとられていると、新しい何かが生まれる瞬間を見逃すぞ。

 「AV批評なんかに意味はない」のではなく、「売上以外の良し悪しなんて意味がない」という世界に、この世界はなりつつあるのかもしれない。でも、それでこの世界がダメになるかというとそうじゃなく、それでもいい作品は生まれている。「批評なんか、ただ人の作ったものにゴチャゴチャ言うだけの、何も生みださない空虚なものだ」と思っている人も多いだろうが、私は、そうは思わない。批評は、売れないモンをホメちぎる、負け惜しみみたいなしみったれたものでもなければ、売れてるモンにいちゃもんつけるだけの通ぶった情けないものでもない。批評をやる人間は、誰かが作った、いったい何人の人間に届くかわからないささやかなものを、遠くでたった一人正しく理解できる人間であり得るべきだ。そして負け惜しみでなく、新しい価値観を発見し創造するかのようなスリリングな言葉で、現状を切り裂いて形勢逆転を狙うべきだ。貧しい批評が貧しい世界を作ることもあれば、豊かな批評が豊かな世界を作ることもあると、私は信じたい。


★「AV OPEN」についての原稿依頼はこちらのメールアドレスに。
pinksoda@md.neweb.ne.jp(@を半角に直して入力してください)
全作品レビュー、授賞式レポート、総括記事など、書きます。今なら先着一社様には、どんなに原稿料が安くても書くというキャンペーンを実施します。タダ同然でも!(安くて断る、ということ自体ないんですけどね)。

追記★この記事について、遠藤遊佐さん(名誉AV視聴者)が、さらに視野が拡がる意見を書かれています。(こちら→http://d.hatena.ne.jp/endo_yusa/
私が「AVライターである」ということのジレンマみたいなものは、ここに書かれていることでだいたい全部だと言ってよいと思います。今のAVの世界の中の温度差がていねいに書かれた文章ですので、あわせてご覧ください。

ちなみに、私はAVライターでありますが、AVライターの私ですら、例えば「ビデオTHEワールド」の年間ベストワン、などには違和感を感じます。それが間違っているとか、選ばれた作品に不満があるとかではないんです。でも、ものすごい、怒りと悲しみに近い違和感を感じる。(ライターになる前は、喜びを感じていたのですよ。「こんな作品が一位になってる!」ってことに)今、私はあのページを見て、泣けます。それは、この、遠藤さんが書かれている「温度差」に起因するものだと思います。いい作品がランクインしているのは、わかる。でもそれと同時に、そのランキングが多くの視聴者の基準とズレまくっているのもわかるからです。その「届かなさ」が、むちゃくちゃきつい。

私も、「D−1にはライター票が存在したから公平だと思う」とは、書けないんです。ライター票はむしろ不公平な印象があるし、一位は売上でかまわないと思う。ただ、「それ以外」の良さを拾い上げる部分が欲しいだけで。

そして、重ねて書くと、ビデオTHEワールドのランキングも、「AV OPEN」も、読んでる人や観てる人は、思う存分に、楽しんでください。私がこのことでうじうじ悩んでいるのは、あくまでもこれが私にとって「仕事の場」であるからです。米国ハスラーのTシャツに「relax,it's just sex.」と書いてありますが、その精神で。relax,it's just AV.と、まぁそういう感じで。せっかくのお祭りですからね。