夏の思い出

mamiamamiya2007-08-29

★東京に帰ってきました。以下、帰郷中のできごとなど。

奈須きのこを初めて読んだ。

・ハマった。

・こないだまで「DDD」を間違って「DDT」と呼んでたくせに(それは丸尾末広)。

・フックがうますぎるというか、引きがありすぎる。毎回包帯姿の綾波レイが出てくるエヴァンゲリオンみたいな感じ。

・そういう上手さと破綻のなさが、ある意味ソツがなさすぎてつまらなく感じると言えないこともない。それはある意味、ジャンルを越境できる強さがないとも言えるんだけど、でもまぁとにかくキャラも設定もこれでもかというほどキャッチー。

古野まほろは、破綻しているからチャーミングなのかもしれない。

奈須きのこ「DDD」は、作中でオタク(的なもの)に対する批判(めいた発言)が何度も出てくる。なぜこういう「痛い」「刺さる」ものを、エヴァンゲリオンのときもそうだけどオタクが好むのか、ということを少し考え、ある種の自己啓発だから刺さったほうがより人気が出るのかもしれないと考える。

・自分がエヴァ(テレビシリーズ、旧劇場版)を観ていた頃は、そこに目を逸らしてはいけない何かがある感じがした。描かれているのがまさしく自分の抱えている問題についてであり、自分のことだから観るのは当然、劇場に行くのも当然という感じがした。

・その頃は「痛み」を知りたくて観ていた。作品に「痛み」を突きつけられることで、自分が成長できるような気持ちになった。

・でも、それじゃあなぜ今、エヴァの新劇場版のCMを見ただけで泣きそうになるのか、そのことの意味がうまく説明できない。ノスタルジックな感情は持っていない。

・リツコとミサトのほうに今だと感情移入してしまいそうな気がする。好きになった男がロリコンで理想の少女を手に入れて二人きりの世界で遊んでいたら。なんて考えただけで吐き気がするほど痛い。昔は加持リョウジが一番好きだったけど、今はああいう男にうんざりする気持ちもわかる。そんなことは、ストーリーの中では瑣末なことかもしれないけど。

・とりあえず宇多田ヒカルのシングルを明日買いに行こう。もしも願いがひとつだけ、叶うなら。あなたは何を願う? わたしは絶対に叶わないあのことを、願う。

・叶ったほうがつらいことを願ってしまうのはなぜだろう。つらいのはそれが不自然なことだからだ。自分の満足のために他人の自由を拘束するような、そんな類のことを願っているからだ。

・自分が幸せになれないようなことを、願っているからだ。

・わたしが欲しいのはいまの彼ではないし、過去にかつて彼のことを死ぬほど欲しいと思ったことがある、というだけなのに、その欲望や執着が返り血のように全身にこびりついていて、洗っても洗っても落ちない。

・手に入っても幸せには、なれない。わたしがその恋愛で知ったことは、自分の嫉妬心と独占欲のことで、それは治っていないからおなじことを繰り返すだけで、関係が破綻する前に、わたしは嫉妬による傷で自爆を繰り返し鬱病が悪化して仕事もできなくなるだろう。

・わたしは仕事が大事だから、もうそういう、一方的に焦がれるような恋はしたくないし、できない気がする。歩み寄るように仲良くなっていく恋愛ならできるけれど。

・嫉妬や独占欲で傷だらけになる恋愛は、それで一度ぶっ壊れたらそのあとで「嫉妬や独占欲に振り回されない強い自分」に生まれ変われるような気がするのだけど、おそらく生きたままざりざりと削られて痛みの感覚が麻痺するだけでなにも変わらないのだと思う。わたしは、変われなかった。生まれ変わって強い自分になんて、なれなかった。自分のことを好きにならなければこれ以上生きていけないというところまで追いつめられて初めて自分のことを好きにはなれたけれど、嫉妬や独占欲に対しては、むしろ以前よりもずっと臆病になったと思う。そこに近寄ったら傷つくことを知っているから、異常に敏感になり、より病的になった。

・けれど、わたしのエヴァンゲリオンに対する気持ちは、一方的に焦がれる恋の気持ちにそっくりだ。CMを見て息苦しくなった。

・わたしが今でもエヴァの新作を「観たい」と思うのは、エヴァが、痛みを実際に経験した今でもなお「痛い」部分を持っているからじゃないかと思う。

・というか、エヴァンゲリオンを好きになったことのある人なら誰でも一度は「この作品のすべてが欲しい」という強い欲望をもったことがあるのではないか。絶対に叶わないそれは、つらい恋とそっくりだった。

エヴァから無意識に目を背けようとしていたのは、そのせいだったと思う。だって、四部作なんだよ。何年待てばいいのよ。「好き」っていう気持ちにとりつかれたらもう、今から最低でも4、5年はエヴァのこと思い出すだけでドキドキして「どうなるんだろう?」と思いながら続きを待たなくちゃいけない。まぁ、もう、初日のタイムスケジュールとか調べちゃってる時点でアウトですけどね。

・「痛み」の中毒になることは、ある。「痛んでいるから成長できる」という錯覚に陥って、痛まなければ成長できないと思い込んだりして、やみくもに痛む方向へ進んでいくような。「痛み」がイコール「効き目」に思えてくるような。

・「好き」って、なんなのだろう。「痛い」と「好き」が、矛盾だらけなのに何の矛盾もないかのように簡単に合わさってしまうのは、なぜなんだろう。

・摩耗するだけの恋愛はもういやだ、と思いながら、どこかで「自分は変われなかった」ということへの敗北感のようなものがある。変われたらうまくいっていたかもしれないのに、とはもう思わないし、そういう希望は持っていないのに。

・「好き」というのは、「自分は変われるかもしれない」という希望と、イコールだったのかもしれない。だから「痛くても平気」だと思ったのだろう。

・でも、変われない。変われるとしたら、そういう自分を知って、その自分の消えないみにくい感情とどんな風につきあっていけば良いのか、そのことを少しずつ学んでゆくくらいで。

・変えられるのは自分の「態度」だけだ。

・このことに関しては、まだ自分でもわからない部分が多すぎて、ちゃんと書けない。ずっともやもやしている。

・ちゃんとぶつかれなかった、という後悔がある。いまでも本当のことが、なかなか言えない。言うのはただの自己満足で、相手は不快になるだけだというのもわかっていると、ぶつかるのが正しいことなのかもわからない。

・目の前が暗くなるほどの羨望や、嫉妬は、もういやだ。怖い。二度と味わいたくない。けど、乗り越えたいとも思う。

・どういう形で? やっぱりわからない。苦手なこと、できないことにばかり目を向けて、自分に向いていないことを無理にしようとしているだけのような気もする。

・でも、誰とどうなっても嫉妬はつきまとう。一生こんな、前より一段とひどくなった嫉妬の感情を持ちつづけるのはいやだ。

・実家で猫が子猫を産んだ。

・ギャーギャー叫ぶもんだと思っていたら、小さくみぃという声が聞こえて「は!?」と思って産院(洗面台の下の棚に隠れて産めるスペースを作ってタオルを敷いておいてた)をのぞきこむとなにかちいさいものが……! 全部で六匹産んだ。最初に私が見た一匹はその日のうちに死んでしまった。あっけなかった。

・数日後おばあちゃんの横で母猫が寝ていたのだが、実は子猫を一匹つれてきて一緒に寝ていたらしく「夜中トイレとか行くときに踏んだら困る」ということでおばあちゃんは和室の引き戸につっかえ棒をして寝ることに(和室の引き戸を猫は爪で開ける)。さらに「廊下で踏んでも困る」とマグライトを枕元に……。至るところに危険が……。

・結局、オーラソーマには行かず、アーユルヴェーダエステに行く。熱いオイルをたらたら垂らされ「熱いですか?」と聞かれるが、そのあっついのが気持ち良くて「大丈夫です」と即答し、しばしSM気分を味わう。

・足の指をオイルでぬるぬるにした手の指と交差させられ(五本とも同時に)、よがりそうになる。

・毎日食べ過ぎて胸焼けがして眠れないほど食べていたのになぜかやせていた! アーユルヴェーダの効果……? あとなんか煙草がまずくて吸えなくなっているんですけど……。でもこれは今ちょっと疲れているせいかなぁ。


★そうそう、告知です。現在発売中の「SMネット」(サニー出版。「ネット」という名ですがDVD付きの雑誌です。という説明を編集長のKさんは今まで100回以上してると思う)でコラムの連載が始まりました。タイトルは「あらゆる場所に変態が…」です……。ふざけたタイトルですが内容は意外と(?)真面目です! 星月まゆらちゃんのインタビューの原稿も書いております。