拝啓、上野千鶴子様

★高熱が出たので病院に行ったら、医者がチョイ悪でした。
待合室にはなんと『Z(ジー)』が! 具合悪いときに読みたい本じゃねーよ! 大きな病気のときはここには来たくないが、できれば小さな病気のときもここには来たくない……。


★タクシーに乗ったら、何も振ってないのに痴漢の思い出話をされました。
「昔はフッとさわるぐらいじゃ誰も文句言わなかったんですよ。男もね、さわろうと思ってさわるんじゃなくて、近くにお尻があればね、さわろうと思う前になんとなく手がフーッと吸い寄せられていくっていうかね、そういう感じで」だそうです。運転手さん、私の顔に「エロ本」って書いてありますか。




★少し前の4月20日に、NHKETV特集松井冬子の回があった。松井さんは死や傷やそういうものを題材に日本画を描いている人だけど、私は絵そのものが好きとか面白いというより、その絵を描く松井さんという人に興味があった。松井さんは、おそろしいほどの造形美というか、ちょっとありえないくらいに美しい顔をしている。美しい、という言葉は適切ではないのかもしれない、と戸惑うくらいの顔だ。それくらい日常で美人と感じるレベルと違う。その人が、地獄絵図に近い世界を描くことの理由をきいてみたかった。美人がおどろおどろしい世界を描くのが不思議なのではない。当然だと思うけど、自分が想像しているような理由で描いているのか、そこのところを知りたかった。


 松井冬子は、番組の中で何人かの人にインタビューを受けていたが、最初は過剰に防御しているように見えた。仮面をつけているというか、すなおにものを言う、ということを避けているような不自然さがあって、特に自分の内面と絵の内容を結びつけられるような質問については、ものすごく周到に作品と自分自身に対する偏見を避けようとしていた。


 最後に上野千鶴子が、彼女にインタビューをした。上野千鶴子の質問にすら松井さんはちょっとずれた答えをした。質問の意図がわからないわけではなくて、たぶん言いたくないことがあるのだろう。上野千鶴子は「そういうことじゃなくて」と話を戻し、「あなたの作品に表現されている痛みは、ジェンダーの痛みであって、それを人間の痛みという風に解釈されると違ってしまう」ということを言った。


 そして「あなたは自分の痛みを表現していて、それはとても美しいものだけど、でもあなたより年配の女としては、あなたのような若い女性が苦しんでいるのはあまり、見たくない。苦しむために人は生きているわけではないのだから、私はあなたに幸せになってほしいし、幸せになったあなたの作品を見てみたい」というようなことを言った。


 次の瞬間には嗚咽しながら号泣していた。声をあげて泣いたのは久しぶりだった。


 上野千鶴子さん、あなたは、どうしてそんなに優しくなれるのですか。


 私は、松井冬子の表現が好きじゃなかった。そうするしかなくて、どうしようもなくてその表現をしているのだとは思うけど、自分の傷や痛みの方向に深入りして、その痛みこそが正しいのだと思い込んでいるようで、表現が暗い、暗い方向を向いているのがいやだった。才能あるなら前向けばいいのに、と吐き捨てるように思っただけで、そこに上野千鶴子みたいな優しさはぜんぜんなかった。


 松井冬子が、女で、美人で、日本画という世界にいて、たったそれだけのことがどれだけの、身をやすりで削られるような苦しみをともなうことかは、想像を絶する。絶するけど、すこしはどんなものかわかる。自分が「女AVライター」ということで身動きがとれなくなって、松井冬子と同じようにすなおにものが言えなくなったことがあるからだ。感情でパッとものを言えば「女だから」と言われるのではないかと身構えていたし、言うことも書くものもすべて「女」というフィルター越しに見られるのがうっとおしくてしょうがなかった。AVを、女の実感を重ねて観てると思われるのも違っていたし、なにを言っても誤解されてズレていくように思えた。自分という個人の上に、女、女、女という布を頭からどんどんかぶせられていくみたいだった。


 そういう時期にジェンダー関係の本やフェミニズム関係の本を少し集中して読んだことがある。上野千鶴子は私にはとっつきにくかった(社会学的な素養がないと読みにくいものも多い)けれど、そういう本を読んでいると自分が悪いのではないと救われる反面、男や、男社会、男社会におもねる女、要するにこの世のすべてが憎くて憎くてたまらなくなるときがあった。その憎悪が苦しくてだんだんそういう本から遠ざかっていった。「男にはわからない」「男が悪い」って言ったらおしまいだ、そういうことじゃないんだ、「男にはわからない」って言ったら、それは自分のことを「女だからわからない」って言った人たちと同じになるんだと思った。自分が言われて死ぬほどくやしかったことを、自分が言ってはだめだ。憎むのが目的じゃないんだ。だから、だから、私のくやしさはどこにやればいいんだろうか。大声でどなって怒ってはいけないのか。そうしたら、フェミ女のヒステリーと言われるから、何を言ってもどうせヒステリーだと思って聞いてもらえなくなるから、言ってはいけない。言うべきじゃない。冷静に、すじみち立てて。そんな風に、言えるわけがないじゃないか。傷ついて、怒って、苦しんでいるんだよ。なんでこんな思いをしなきゃならないのか。そして、こんな思いをどこにもぶつけられずに抱えこまなきゃならないのか。


 傷を見ろよ、おまえたちのしていることを見ろよ、と人に突きつけてくるようなところが、松井冬子の表現にはある。私はそれを、上野千鶴子のようなまなざしで見ることができなかった。たとえ松井冬子にインタビューできる機会があったとしても、絶対にあんなことは言えなかったと思う。上野千鶴子はインタビューのあと、彼女の膝にそっと手を置いた。


 去年、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』を読んだときに、結婚していない人のことを「非婚」と当たり前のように書いてあって、はっとした。非婚、という呼び方があるのは知っていたけれど、言葉の上でだけ呼び名が変わっても別に何も変わらないんじゃないの、となめていたし、自分でも独身とか未婚とかいう言葉を平気で使っていた。


 でも、上野千鶴子の使う「非婚」は違った。その言葉を見たとき、ものすごくおおげさだけれど生きていることを祝福された感じがした。結婚なんかしようがしまいが個人の自由で、それをまだしてないとかしてなければ一人前ではないとか、そんなこと、私が誰にも言わせない。胸張って好きなように生きなさい。と上野千鶴子に言われているような気がして、うれしかった。結婚しない子供を生まない自分を責めるのは、周りよりも自分だ。別にあまりしたくないというのが正直な気持ちでも、そういうふうに思うこと自体おかしいんじゃないか、人として何か欠落してるんじゃないかと思ってしまう。あたりまえの、ふつうの、誰もがするべきである大事な大事な経験を飛ばしているように思えて不安になる。夫や子供がいなくてさびしくないわけじゃない。誰かにいてほしくないわけじゃない。そういうふうに思う真夜中のふとんの中に、上野千鶴子の言葉がふっと入ってくるようだった。昔だったら、なんとなくふとんの上に正座させられて叱り飛ばされそうなイメージがあったけど。


 今の上野千鶴子は、苦しみや痛みや怒りのフィルターを何層も何層も通り抜けてきたきれいな水のようだと思う。


 フェミニズムジェンダーフリーという言葉は、いまだに田嶋陽子的なケンケンこうるさいイメージで見られたり、ナンセンスな部分が報道されがちだったりするし、男女が同じようになること、男女の差をなくすこと、という風に単純に思われがちだ。私はそういう言葉を本当はこういう意味ですよ、としっかり説明することはできないけれど、自分なりに噛み砕いた言葉で言うと、フェミニズムジェンダーフリーとは、人は誰でも自由に生きてよいのだということなのだと思う。男女の性差をなくすとか、セクシャルなものから遠ざかるということとは違っているし、男も女もジャンジャンバリバリ馬車馬のように働けよーというのとももちろん違うと思う。でも世の中を変える思想だから、多くの人がなんとなく抵抗を感じているのだと思う。


 世の中はいきなり変わらないし、自分が世の中を変えようと何か運動みたいなことをしたいとも思わない。そういうことも大事なのだろうけど、私が大事に思うのは、上野千鶴子のような人が、膨大な批判や誤解やめんどくさいことと戦ったあとでまだニコニコとタフに生きているということで、そのことが社会の制度を変えるというハードの面じゃなくて、人の気持ちの持ちようを変えるというソフトの面で、とても大きな影響力を持つと思う。



※読みやすくておもしろい本をご紹介しておくと、ちくま文庫の『男流文学論』(富岡多恵子小倉千加子との鼎談です)、『ザ・フェミニズム』(これは小倉千加子との対談。私は小倉さんのファン。シャープで容赦ない上野さんと、直感力のようなものがすぐれていてどこか人情とユーモアがあるように感じられる小倉さんの対話が、剣豪同士の戦いのよう。特に小倉さんが「私自身はもうフェミニズムを必要としていない」と言いだして上野さんが仕込み杖を抜くように鋭い突っ込みを入れるスリリングな展開には手に汗にぎる)がおすすめです。どっちも書いたものじゃなくてしゃべったものだというのが俺の読解能力の低さを物語っていますが、おもしろいよ!