『みんなに好かれようとして、みんなに嫌われる。』

★『みんなに好かれようとして、みんなに嫌われる。(勝つ広告のぜんぶ)』(仲畑貴志著/宣伝会議←昔面接受けて落ちた会社だー! おぼえてますよ面接で『好きな雑誌は?』『ロッキン・オン・ジャパンです!』と答えて落ちたの。そりゃ落ちるっつーの)読みました。


 コピーライターや詩人、歌人というひとたちは、私がもっとも憧れる人たちなのですが、たった数行、数語の短いものでみずみずしく何かを切り取るようなところが好きで、たまにそういうものに触れたくなります。


 「みんなに好かれようとして、みんなに嫌われる」という言葉自体があまりにキャッチーで、笑っちゃうくらいうまいので思わず買ってしまったこの本でしたが、タイトル以上にこの中に書かれているコピー論、広告とは何かという考え方に背筋がもう、ビシッとカツを入れられた感じになりました。


 中には仲畑さんほどの人でさえ、昔やっちゃった恥ずかしい失敗、ほんとうにこれは笑えないくらい恥ずかしかったんだろうな、というような思い出も書いてあるし、「広告の表現技術者は、創造なんかしちゃいないからクリエイターだと名乗るのは気恥ずかしいが」というような、卑下でもなんでもない「本音の心構え」のたたずまいを見せられてぞくっとしたりする。


 中でも、さらっと書いてあって心に残ったのは、「パーになっちゃった」という項で書かれているエピソードだ。


 「厄年というものがある」という言葉からはじまるその項では、仲畑さんが精神を病んだことについて書かれている。昔、糸井重里と遊んでいたときにふいに仲畑さんは「あたまを濃密な風が突き抜けた」のだという。なにか息苦しく、部屋に帰るとちょっと心配した糸井さんから電話があって「もうずいぶん頑張ったから、ちょっと楽にやろうよ、それと、提案だけど、布団にもぐって大声で泣くといいかもしれない」と言われたそうだ。仲畑さんは布団にもぐってみたけど、泣けなかった。「その後、約3年間、希望の無い日々がつづいた。その間、死にたくてしょうがなかった。ロケ先のホテルでも低い階の部屋を選び、窓が開かないことを確認し、冷たい汗を流す生活。でも、不思議なことに、仕事は猛烈に出来た。しかし、パーになった影響はコピーに出た」。


 本の中には、その頃書いた仲畑さんのコピーが5本、並べて書いてある。死にたい自分にいいきかせるような優しいコピーだ。「こころの病理に触れるコピーは、恐るべき深度を持って刺さっていく」と仲畑さんは書き、「しかし(中略)病理に触れるコピーが効果を生む社会は、時代は、やっぱり、少しパーではないか」と結んでいる。


 つらさについて、くどくどと書かない仲畑さんの文章から、すさまじい苦しさがつたわってくる気がする。「布団にもぐって大声で泣くといいかも」という糸井重里の言葉もいい。パーになると、やさしいこと書きたくなるのはよくわかる。自分が誰よりもそれを求めているからだ。


 病理に触れるコピーや文章が効果を生む時代や社会はおかしいのかもしれないが、おかしい私は、仲畑さんがこういう文章を書き、コピーを書いてくれ、自分の経験したことを書いてくれることで、ものすごく救われた気持ちになる。自分よりひどい症状でありながら一流の仕事をし続けた人がいるだけで大きな希望になるのだ。いや、一流の仕事をしたとかそんなことは関係ないのかもしれない。自分と同じような、自分よりももっと深い絶望を味わって、生きながらえている、というだけで希望になる。


 この本の中には「チャーミングなコピー」についての話もあって、その文章のチャーミングなことといったらない。私の安易な言葉で言うと「カワイイ」。ひとつの本の中に、深い絶望があり、「チャーミング」な部分があり、しっかりとした「販売戦略」についての言葉もある。何度も読み返して「ものを(私の場合は文章を)売る」ということについて考えたい、とも思うが、この本を読んで考えるのは単純に「ものを売る」ことだけじゃない。ものを選ぶとか買うとかは自分の中で「気持ちが動くこと」であって、そこに目をつけていると、この本はもっと深いコミュニケーションのことを語っているように読めてくる。


 糸井重里が「ほぼ日」で、ベストセラー本を出したりしていることについて「糸井がうまくやりやがって」という言い方をする人がたまにいるけど、そういう人は「ほぼ日」を毎日読んでない。断言してもいいけど絶対読んでない。糸井重里が「うまくやる」んじゃなく、「自分が本当にいいと思ったもの、面白いと思ったもの」を「人に伝える」努力をどれだけ丁寧にしているのか、あのサイトを毎日見ていればわかるはずだ。あれだけの努力は、どこの誰もしてないんじゃないの? 「うまくやりやがって」じゃなくて、「本当にいいと思うものを、届くように丁寧に伝える努力」を、その人がしてないだけだと思う。興味を持ってもらうためにどれだけのフックを作り、その商品の世界観を音楽まで含めて作ってしまったり、何週にもおよぶ連載の形で掲載したり、写真からサイトのデザインまですべて手抜きなしだ。「金があるからできる」? そんなこと言ってるうちは、一生糸井重里には勝てないよ。糸井重里が使ってるのは、お金じゃなくて頭だ。糸井重里はあのすさまじい量のコンテンツを「努力」だなんて、おそらく思ってない。「面白いことをやろう」「そして、それがきちんと伝われば、それなりに赤字出さないでやっていけるはずだ」と思ってるんじゃないか。


 「ほぼ日」のやっていることは、ものを売っていることでもあるけれど、もっと「コミュニケーション」の匂いが強いことで、面白いなぁと思う。私と、出版社のエラいさん(60歳ぐらいかな?)のお友達が一緒に「ほぼ日」で買ったハラマキの話で盛り上がったりとかしてさ。


 私はこのまえ、ある書籍の企画で営業さんと会った。その営業さんは、私と編集さんが考えたタイトルにあっさりとダメ出しをして「このタイトルは、書店の本好きのお客さんを想定したタイトルです。もっと広く、本好きでない人の関心も惹くタイトルでなきゃいけない」とその営業さんは言い、私はタイトルがボツになったことで、内容も全部構成しなおさなきゃいけないのか、と一瞬頭が真っ白になった。ろくに受け答えができなかった。打ち合わせの後、営業さんは私と編集さんと飲み屋さんに行き「雨宮さん、本音を言ってください。いくら売るためと言っても、作る人がやりたくないことを無理矢理やったってしょうがないんです。ほんとのところどう思ってるのか言ってください」と、言った。


 私のような、本を売った実績もなければネームバリューもない、しかも年下、経験値もあきらかに下すぎる相手に、この人はここまで言ってくれるんだ、と感動した。


 「ものを売る」ということは、面白いことなんだ。私にはまだまだ、わからないことが多いけど、「売るぞ!」って気合い入った営業さんと一緒に仕事させてもらえるのに、この面白いことを、考えない手はないと思う。「売る」前に「伝える」んだ。この努力を、どれぐらい真剣にしているか。仲畑さんの本を読んでいると、考えさせられる。もちろんコピーの、広告のプロと自分を比べるのはおこがましいけど、私のかかわっている本で大規模な広告を打つようなものは少ない。エロ本ではいろんなことを一人でやらなきゃいけない場面が多いけど、これもそのことのひとつとして考えたほうがいいんじゃないかと思う。