友達と批評

 昨日紀伊国屋の前で待ち合わせをしていたら、外に友達のあたらしく出た本が平積みになっていて、ああ出たんだなと思ってすぐに買って、しばしその光景に見とれた。


 人の感情を勝手に推測して、その人がそんなことを思っているかどうかなんて本当はわからないのに、勝手に「もし自分だったら」と立場を置き換えて考えて思い入れてしまうのは、私の悪いくせなのだけど、想像もできないようなプレッシャーの中でものを書くこと、新しいことを書くということはどういうことなのか、考えると、やりとげられたまっさらなその「成果」が真っ白に光るように並んでいる光景に、ちょっと泣きそうになった。


 私は、昔は、取材のときでも何でも、取材の対象の人、書く対象の人と友達になったり、仲良くなったりすると、書く内容にぶれが出るんじゃないかと思って不安だったし、知り合いだからえこひいきしてると思われるのも嫌で、あまり仕事の関係の人と友達にならないようにしていたことがある。でも、最近はそういうふうには思わない。仲良くなりたいと思ったら、仲良くするようにしてる。人付き合いがそんなに得意じゃないから、おっかなびっくりだけど。


 どんな作品でも、どんなものでも、それは誰かにとって大切な友人や知り合いの作った大事なものであるんだから、知り合いだからえこひいきするとか、知り合いだから逆に厳しいことを書くとかじゃなくて、すべてのものに対して、友達の作ったものを受け取るのと同じ気持ちで受け取るのが本当なんじゃないかと思う。知り合いだろうが知り合いじゃなかろうが、ダメなものはダメ、いいものはいい、それが当たり前なんだけど、その平等をつくるときに「知り合いである」ことを無視するんじゃなくて、「知り合いでない、全然どんな人か知らない人」のものを、知り合いのもののように大事に受け取り、扱うのが本当の平等の作り方なんじゃないかと思う。