西炯子の変貌

 実家に帰ると必ず読み返すマンガというのがいくつかあるのですが、西炯子の作品はその中のひとつです。


 私が初めて西炯子の作品を読んだのは中学生の頃でした。当時の西炯子は嶽野義人(たけのよしひと)という、数奇な運命をたどる青年を主人公にした作品を描いていました。非常にひりひりした、刺さってくる作品でした。


 その後、西炯子は『三番町萩原屋の美人』という作品を経て、あきらかに作風が以前とは変わってゆきます。いまだに「嶽野シリーズが最高傑作」だと言う人もいます。


 ただ、私は過去の作品も好きだし、今の作品も好きで、その両者を読み比べたときに感じる、作者の覚悟や、おこがましい言い方ですが成長のようなものが、とても感動的で、どちらもまとめて西炯子という人が本当に好きだと思えます。


 その「嶽野シリーズ」の中でも、私が特に好きな作品『もうひとつの海』(単行本1992年発行)という作品は、こんな作品です。以下、内容に触れますので、知りたくない方、これからお読みになりたい方はご注意ください。



 高校生になった嶽野は、いろんな体験をしたせいで、クラスメイトとうまくやりながらもどこか醒めた目をしています。そんな嶽野の表情に気づき、惹かれていく「男」が現れる。クラスメイトの、陸上部の上原という男です。


 「恋愛は一つの季節だ 一人の人間の出現によって突然はっきりと季節が区切られてゆく」


 強い風が吹いて、嶽野の長い髪をなびかせる。ただそれだけのシーンで、上原が嶽野にどうしようもなく強く惹かれていることを自覚する様子が描かれています。


 上原は自分の気持ちを言わないまま、嶽野が女の子とキスしているのを見てしまい、嶽野にその女が好きなのか聞きます。「好きになるほど時間がたってない」「おれ簡単に人を好きとか嫌いとかいいたくないんだ」と答える嶽野に、上原は言う。「じゃあ永島(その女の名前)はお前にとって『運命』じゃないってことだ」「一生を左右するような出会いっていうのは もう 一も二もないぜ」


 そして上原は、その言葉を最後に夏休みに突然姿を消します。そして、嶽野の前に、「ユカ」という謎めいた女があらわれる。嶽野にとって、それは「一も二もない」出会いで、嶽野は強烈にユカに惹かれていきます。


 ユカは、「昼間は会わない 家も教えない この時間に ここで キスだけ」と、何も言わないことを条件に、毎晩つぶれた店の中で嶽野と会ってキスだけする約束をする。嶽野はその時間におぼれてゆく。


 そしてある日、嶽野は「気づく」のです。ユカとの出会いのタイミングが良すぎること、上原の失踪の意味、上原の言葉、それがどういうことなのかということに。上原は強引にユカを後ろから抱きしめ、パッドで作った胸を掴んで言う。「どうしてもっと早く気づかなかったのかな……」


 商店街の二階にあるその店の階段に腰かけ、嶽野は言います。「次にそこの通りを通るのが女だったら おまえとは絶交だ」と。


 新学期、登校してきた上原を出迎えるのは、文化祭の劇でメロスの妹役を割り振られて女装した嶽野です。ユカと嶽野(女/男)と男女が入れ替わった、嶽野と上原の後ろ姿で物語は終わります。


 この物語は、コミックスの半分の量しかありません。けれど、ひとつひとつのシーンがものすごく印象的で、セリフや場面が映画のように劇的です。それでいてウソっぽいかというと、そうではない。「男」と「女」というモチーフを上手く使って、西炯子は恋愛そのものを描いています。ボーイズラブと言えばそうなのかもしれないけど、私はこれは、なんの注釈もなくただの恋愛だと思います。


 そしてこの西炯子の素晴らしいシーンの構成力、セリフや絵で見せるというより、本当にシーンそのものの力で見せる、引き込む力というのは、嶽野シリーズが終わったあとでも衰えるどころかさらに洗練された形で出てきます。一番それを感じたのは『STAYリバース 双子座の女』(単行本2004年発行)という作品です。


 舞台は高校。登場人物は生徒会長の坂本清雅、その双子の弟、坂本涼雅、それと裁縫が得意な、クラスで独特の存在感を放っている刈川エリという女子生徒です。


 刈川エリは背が低く、自分にぴったりなサイズの服が欲しくて自分で服を作っている。その私服を合宿のときに見た清雅は、エリに惹かれます。しかし、これは恋愛ではありません。清雅は、「自分も可愛い服が着たい」と思っているのです。


 清雅はそのことを、誰にも言えない。生徒会長で、家がデカイ電器屋で親からは次期社長にと期待されていて、とてもじゃないけどそんなこと言えない。けれど、エリには言ってしまう。


 清雅は、涼雅に恋をしていて、涼雅もまた、清雅に恋をしています。それは、絶対に許されない。涼雅は荒れてケンカ三昧だし、寄ってくる女とてきとうにセックスする毎日を繰り返している。


 恋にも、女になりたい自分の気持ちにも未来が見えない清雅を、エリは見守り、手助けをする。生まれて初めて女の服を着て、マニキュアを塗った清雅は、同じマニキュアを塗ったエリの手を握って泣く。「本物の女の子の手 わたしはどうして こんな手で こんな体で生まれてきたのかなあ……」


 最初はかわいい格好をすることがただ嬉しかった清雅も、そういうことを重ねるごとに、余計に絶望感が強くなってゆく。「わたし あなたと仲良くなるんじゃなかったわ」「そしたらわたし 自分が苦しいことに気づかずに生きていけたかもしれない」清雅にそう言われてエリは答える。「逃げなさんなよ 多分 ここから逃げたら一生よ」「一生こんなよ」。


 清雅の夢見る恋愛は、古風なほど乙女チックでロマンチックなものだ。何度か服を作った清雅が、いちばん作りたい服は「ウェディングドレス」で、純白のドレスでバラのベッドに寝かされ、そこで大好きな彼と「ひとつになる」ことが、清雅の夢で、理想で、それは決して叶わないことだと、清雅は何度も絶望する。


 「わたしがついてるわ 前へ進みましょう」


 エリはそう言って、有り金全部でバラを買い、清雅の布団に敷き詰める。そして、清雅の夢は、夢でなくなる。清雅は「前へ進む」。


 西炯子の「嶽野シリーズ」は、確かに素晴らしい作品で私も大好きです。けれど、この『双子座の女』がある以上、「昔のほうが良かった」とは、私は絶対に言いたくありません。


 「嶽野シリーズ」は、刺さる人間には刺さる表現です。そして、そういうひりひりした、作者の心がむきだしになったような表現はある意味とてもわかりやすく、一部の人に熱烈に愛されるものだと思います。


 嶽野シリーズは、いわば泥沼の中の表現です。傷だらけだからこそ美しく、ひとを魅了する、そういう類の表現です。そういう表現の魅力は確かにあるし、否定はしません。けれど、西炯子はそこを乗り越えて強い希望を描く表現を手に入れています。


 強い希望にあふれた表現は、ひりひりしたい人からすれば「生ぬるい」のかもしれない。けどこの「強い希望」を描くことは、ただひたすらの絶望を描くよりもはるかに難しいことです。それを「描きたい」と思うことと、それを「描けるようになる」ことは違う。描きたいと思って、ほんとうに描けるようになった、それが西炯子のすごいところで、この二冊を続けて読むと、私は狭い袋小路から陽のあたる大きな草原に出たような力強い爽快感を感じます。


 どちらがいい、悪いの話ではないですが、私はこういう表現の道を選んだ西炯子という人が本当に好きですし、すさまじい「伝える努力」というものをしていると思います。そして「嶽野シリーズ」にあった、映画的なシーンの強烈な魅力は『双子座の女』でも健在です。より洗練され、作者本人の思い入れや思い込みを越えて、ひろく他人に開かれた表現になっていて、誰が読んでも土台が揺るがないしっかりしたものになっています。


 私は別にボーイズラブが嫌いなわけじゃないのですが(どちらかというと好きですけども)、もし「ボーイズラブだから」という理由でこれらの作品が読まれないのだとしたら、それはとても残念なので、あまりそういう呼び方やくくり方をしたくありません。実際に男性が読んでどう感じるのかは人それぞれでしょうし、男女ともに受け付けない人もいるでしょう。けれど、それと同じくらい、男女ともにこれらの作品を読んで、そこに描かれている「恋愛」を、「絶望」を、そして「希望」を、感じられる人がたくさんいると思うのです。

もうひとつの海 1 (プチフラワーコミックス)

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双子座の女―Stayリバース (フラワーコミックス)

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