『1Q84』

★『1Q84』のBOOK1&2をいまごろなぜか読んだ。私はむずかしいものや自分にとって面白くないものは「読めない」(正確に書くとページが進まない。文字は読めても内容が頭に入ってこず、歩くようなスピードでサクサク読めない)ので、一気に読めただけでこれはまぁ「面白い」んだろうな……。とは思うものの、読後の感想は、正直言って「気持ち悪い」以外のなにものでもなかった。


 村上春樹の小説に出てくるものが何を意味していて、何が何の象徴で物語全体として言っていることが何なのか、ということは、私は『ダンス・ダンス・ダンス』ぐらいまではわからなくても気にせず面白く読めていて、『ねじまき鳥クロニクル』ではまったくわからなくなってしまい、面白さも見いだせなくなっていた。読者としての私の知識のなさ、読解力のなさで「楽しめない」んだろうなー、ほんとはすごいんだろうなー、と思いつつ、そこから興味を失っていて、ひさしぶりに「読んでみるか」と思ったんだけど……なんか、私が村上春樹を楽しめないのはそういうこと以前の問題のような気がしてきました。


 たぶん、村上春樹の小説に出てくる男女の恋愛やセックスの関係が、ずっと前から私には「気持ち悪い」ものだったのだと思う。そこがどうしても受け入れ難いんだろう。その気持ち悪さというのは、たとえば10歳のときに出会った男女がお互いのその後を知ることなくずっと強く思い合っているという純愛の形とか、そういうものではない。その気持ちの形は、私は理解できる。現実にあるものだとも思える。誰かを強く思いながら他の人間とセックスすることも、理解できる。そのこと自体は、決して気持ち悪くはない。むしろ逆で、そういう理解できる部分や共感できる部分があるからこそ、決定的に自分の考えと違っている部分に対して、はげしい拒否反応として「気持ち悪い」という感情がわきあがってくるのだと思う。


 その「気持ち悪さ」はこの小説の中に登場する少女や大人の女性に対する暴力に向けられたものでもない。私はそれらの表現を、受け入れることができる。小説であっても、エロマンガやAVであっても、描き方によってはそれを気持ち悪いどころか興奮するものとして受け入れることもできる。


 女が小説の中でどんなひどい扱いを受けていてもかまわないし、男が小説の中でどんなひどい扱いを受けていても同じようにかまわない。ただ、ここまで詳細に「青豆」という女性のキャラクタがブラのつけかたやストッキングの脱ぎかたひとつに到るまで丁寧に描かれていても、私はいつものように、村上春樹を読んでるときの、女がバカにされてる感じがする不快感を味わってしまう。なぜだろうか。すべての女性がそう感じるわけでは決してないと思う。バカにされているどころか、青豆はレースのついた「女らしいブラ」をつけなきゃいけない場面があることに対する不満をぶちまけたりしているのに。


 私がそう感じるのは、天吾という男が、自分の意志ではないにせよ17歳の美少女とセックスしてそれでも青豆を探すことで青豆への気持ちの強さを表現したりしていることとか(小説の中で17歳の少女のおっぱいは完璧に近い美乳であり、青豆のおっぱいは左右の形が違っていて貧乳であることがしつこく描かれる)なんじゃないか。くだらないけど、美少女にドキドキしつつ、そのおっぱいを舐めるような目つきで見つつ、結局愛してるのは貧乳で美女でもないもうすぐ30の女だぜ! ってなんだそれ、と反射的に不快に思ってしまうんではないだろうか。たとえ17歳美少女とのセックスが「普通の愛情や欲情とは無関係の、儀式的な、物語の中ではメタファーだと思われるもの」だとしてもだ。


 そして不思議なことに、私は青豆という女性のキャラクタが、性的にはハゲの中年が好みでそういう男とのセックスを楽しんでいることについては、そういう不快感を感じない。それは私が女だから、と思う人がいればそれでもかまわないけど、たぶんそうではない。


 問題は「比べる視点」があるかないかなのだと思う。天吾は、年上人妻や、17歳美少女や、10歳の頃の青豆のことを、心の中で「比べて」いる。これは、村上春樹のほかの作品で私が常に感じる不快感と同じものだ。いろんな女が出てきて、主人公の男がその女たちのそれぞれの魅力に思いを馳せるとき、私がそれが「比べられて」いるのだと感じて、ものすごく不快になる。もーちょっと若い頃には「この中でだったら、この女の人みたいになりたい」なんて思ってたんだけど。それが唯一の村上春樹と私の蜜月の時代だったのかもね……。


 まぁ、それを言うなら青豆だって理想のハゲ具合の俳優と目の前の男を比べたりしてるんだが、そこには不快感を感じない。それもまた「私が女だから」で済ませられることかもしれないが、なんかそうじゃない気がするんだよなぁ……。リアリティがないから不快に思わないんだろうか? それとも、女が男を値踏みすることは社会的にタブーであり、男が女を値踏みすることは表面上はタブーだとしても実質的には許されまくっているから? だとしたら私は青豆が男を比較しているときに多少なりとも爽快感を感じるかもしれないけど、そんな爽快感はどこにもない。青豆のような女が、男を値踏みすることに意味なんてないからだ。若くもなく、美しくもなく、社会的な地位もない女が男を値踏みしてつまらないだのなんだのと言ったところで、その「格付け」を本気にする人なんてだれもいないだろう。それによって誰かの価値が変わったりはしない。爽快感なんて生まれようがない。逆に言えば青豆と同じ年齢で、同じく社会的には大した地位もなく、美男子でもない天吾が女を値踏みすることには、意味や重みがあって、私はたぶんそれが不快なんだろう。ものすごく個人的な、誰だって心の中ではやっているであろう「値踏み」であっても、それがどうしようもない、単なるくせのようなもので、特に差別的な意味合いを本人は持っていなくても、だ。むしろ本人が差別的な意味合いを持たず、ほとんど無意識的に、特に考えもせずに女の価値をはかっているからこそ、不快なのだ。ものすごい個人的な価値観による値踏みであっても、それは意味を持つからね。これは、男がひどいっていう話じゃない。そんな「個人的な価値観による値踏み」が重みを持ってしまうということの不自由さを持たざるを得ないという理不尽さを、男が常に抱えてなきゃいけないなんてことも、おかしいことなんだ。どうすればフェアになるのか、という答えは「女も男を同じように値踏みし返し、それに重みをつける」ことでも「男が女を値踏みすることを禁ずる」ことでもない。個人の値踏みは自由であり、それにまつわる重みも、あくまで「個人の、個人的な価値観による値踏み」以上でも以下でもないものになる、そういうことなんじゃないかと思う。誰だって好きで男に生まれたり、女に生まれたりしたわけじゃないんだから。


 こんな部分はきっと『1Q84』という小説の中では、さして重要な部分ではないだろうし、きっと、どうでもいい部分なんだろうと思う。でもねぇ……。いつも特定の女が「特別な存在」として主人公の前に現れて、なんか起こるっていう村上春樹の小説での女の美化のされかたとか、そういうの、個人的にはやっぱりなんかついていけないものを感じる。別に小説の世界でまで女を差別すんなとかそういうことが言いたいわけじゃないんだけど、ナベジュンや石田衣良のように徹底的に女が超都合のいい女ばっかで笑っちゃうみたいな感じの小説にはまったく怒りや気持ちの悪さは感じないのに、なんで村上春樹に対してだけはこんなに不快感を感じるのかは、私の中でもすごい謎で、もしかして単に村上春樹が嫌いなのか……? という疑問すら持ち始めている。そうなのか? 嫌いなのか? 嫌い、なんだろうな……。でも読みたくない、読めないってほど嫌いなわけじゃないし、BOOK3を読みたいか、ときかれれば「読みたい」って答えると思う。でも、できればムカつかずに読みたい……。やっぱ嫌いなのかなー。自分にとって村上春樹がなんなのか、よくわからなくなってきました。三十路的には17歳美少女が特別な知覚を持っててそれと交わることにより何かが起こる(しかも中出し……。パイパン……。まだ生理きてない……。でも巨乳……)っていうぶっちゃけエロゲかエロマンガかっていうようなチャチい話が文学作品としては素晴らしいよ〜みたいなことになってんのがムカつくってことで片付けてもいいような気がします。エロ関係者としてもそこはムカつくけど、村上春樹ファンの方は、そんなあっさい読み方しかできない私をあざ笑って下されば良いと思います。ほんと、セックスのとこにしか食いつかなくてごめん……。社会的な意味合いとか読み取れなくてごめん! 結論としては豚に真珠、私に村上春樹ってことでいいんじゃないかと思います。