『ビデオメイトDeLUXE』終刊

mamiamamiya2010-04-08

 現在発売中の『ビデオメイトDeLUXE』(コアマガジン)、この号を最後に休刊になります。私は最後に編集長インタビューを書きました。この号、買ってもらってもそれでこの本が復活するとかそういうことはないですけど、でもいい号で、面白いから読んでほしいです。エロ本買うのが恥ずかしかったり、どこで売ってるのかわからない人は、amazonでも買えますよ。http://www.amazon.co.jp/gp/product/B003BQRUBW/ref=sr_1_5?ie=UTF8&redirect=true&s=books&qid=1270631314&sr=8-5


 休刊についての自分の気持ちとかは原稿に書いたのでここでは書きませんが、今まで不景気だの出版不況だの聞いてもちっともこたえてなかった私が、唯一ダメージを受けた出来事がこの『ビデオメイトDeLUXE』の休刊でした。


 最終号の表紙には、AVの女優さんの名前のかわりに、いままでこの雑誌に関わってきたライターの名前が、今はもう亡くなっているひとの名前まで、ずらりと並んでいます。この本がどんな本だったのか、説明するまでもないでしょう。すばらしい本で、あこがれの本だった。


 不況だろうがなんだろうが私は元気だったんです。kindleとかiPadとか言われても、大手出版社の上のほうの人たちはあわててても、私のように最初から失うものがなにもないインディペンデントという名のもとにしがないライター生活をやっている人間にしたら「印税率35%ってマジで!? そんなにもらえんの!?」ぐらいにしか思わない。既存の出版システムの中でたいして相手にされてないわけですから、その既存のシステムがぶっ壊れるかも、という話は、結果的に吉か凶かどうなるのかはわからなくても、わくわくすることでしかないんです。


 休刊になる雑誌がどんどん増え、つぶれる出版社も増え、さすがにライター稼業のみでやっていくのは将来的にまずい、と他の仕事や他の道を探す人も増えてきました。今の出版業界の状況を「沈みかけた船」と考えるなら、逃げ出すのが賢いやり方だし、賢いとか賢くないとか以前に、誰だってお金を稼いで食べていかなくてはいけないわけで、そのためには真剣にどうすればよいのか考えるのが当たり前です。


 で、私も聞かれることがあるんですよ。「きみはこれからどうするの?」と。私はどうもしない、ライターをやります。そうすると「なにか勝算とか、生き残る道みたいなのを考えてるの?」と聞かれる。


 ないです。私がなにか、自分だけが思いついた特別な生き残る方法なんていうものを持っているからライターをやると決めているのかというと、そうではない。


 そもそも、ライターになる、という選択自体が私には賭けでした。そう決めたとき、仕事のあてはひとつもなく、バイト先のあてがあったぐらいでした。起こっている事実だけを見れば「社員からバイトになった」だけで、ライターになんてなれてなかった。名刺に「ライター」と刷ってあるだけの状態でした。


 自分に才能があると思ったからライターになったわけではありません。一生をかけて書きたい何かがあるわけでもない。何かをずっと研究したり調べたりしているわけでもなく、何かに対して特別に深い知識があるわけでもない。ライターとしてやっていける勝算なんて、ゼロです。


 勝算がゼロのところから、ずうずうしさだけで名刺に「ライター」と刷って、仕事をたのんでくれる人があらわれて、だんだん書くことが本業になっていく。その感じは、生活がかかったゲームみたいなものでした。ライターをやるということは、少ない少ない、ちっぽけな自分の能力だけを元手にはじめた、私の一生の賭けであり、ゲームです。ゲームというと遊び半分にやってるみたいできこえが悪いかもしれないけど、ゲームは異様に集中したり真剣になったりするものでもあります。私にとってゲームというのは、そういう意味です。負けたら人生めちゃくちゃになる。そういう状態でやっているゲームです。


 ライターになる前の自分は、たのしくなかった。何かを好きになったり、何かに感動したりはしていたけれど、ライターになる前の自分は、ほんとうには生きていなかったのと同じだと、今は思います。


 ライターになる前の自分は、恥をかくのを承知で自分の能力を世に問うようなことをしたことがなかったし、嫌われたりばかにされたり、誰かに心底軽蔑されたりすることを覚悟のうえでずうずうしくも自分の思ったことを書くなんていうことを、したことがなかった。そのことは、とても怖いことだったし、そういうことは才能のある人間にしか許されていないことだと、つまり自分には許されていないことだと思っていました。


 あるとき私は、自分よりも文章を愛してなくて、ものを書くということについてなにも考えてなくて、文章が自分よりも下手な人間が、どうどうと名刺にライターと刷り、自分はライターになるべくしてなったのだ、という顔をしているのを見て、ばからしくなりました。この世の中なんて、ずうずうしいもん勝ちじゃん、こんなに才能もなければ努力すらしてない人間がライターと名乗っていいんだったら、自分だって名乗ってもいいんじゃないか、と思いました。


 その数ヶ月後の夏のおわりにニューヨークの同時多発テロ事件があって、私は生まれてはじめて強烈に「死にたくない」と思いました。ツインタワーに都庁が重なって、報道の映像に地下鉄サリン事件の記憶が重なって、本気で「東京にいたら死ぬかもしれない」と思った。そのときに考えたのは仕事をやめて地方に行くことや自分の実家に帰ることではなかった。親や家族に会うことですらありませんでした。ただ、いちどでいいから「生きている」という実感を持ちたいという、そのことでした。生まれてはじめて「死ぬかもしれないという恐怖」が「恥をかくかもしれないという恐怖」に勝ち、ずうずうしかろうがなんであろうが、なりふりかまっていられない気持ちになりました。


 AVの女優さんのインタビューで、ときどき「AVをやることで○○(女優名)という、本名の私とは別の私が生まれた。○○としての自分が監督やメーカーに求められたり、○○としての自分を好きになってくれるファンの人が出てきたりして、そのことは信じられないくらい嬉しいことで、AVをやることにはすごく勇気が要ったし、今も家族のことを考えるととても悩むけど、AVをやめることは○○という人間が自分の中でいなくなるということだから、そんなに簡単にやめるなんて考えられない」というようなことを言う人がいます。おおげさに感じる人もいるでしょうが、そう思うならAVをべつの、たとえば自分が真剣にやっている仕事に置き換えて考えてみてほしい。定年退職するお父さんが感じる不安や恐怖に近い感情が、そこにはあると私は思います。


 ほんとうに生きるためにライターになった、なんて言うわりにはしけたライター人生送ってんなーと思われるでしょうが、ライターになってから、ライターでなかった頃の自分のことを考えると、ほんとうに死んでたみたいな気がします。何がしたいのかわからなくて、わからないんじゃなくてほんとうは怖くて、怖いからそっちを向かないためにいろんなごまかしをやってこまごまと浪費して、好きなものにしがみついて、またそれにお金を使って、好きなものが与えてくれる快感だけが楽しみで、それだけではとても満たされなくていらいらして、もっとお金を使いたくなって、でもお金はもうなくて、小さい絶望が日常の中にたくさんあった。楽しいことや幸せなことはあったはずだけど、今にくらべたら、それは「なにもなかった」と言ってもいい程度のことです。


 ほんとうに生きるために、不況だろうがなんだろうがライターをやり続ける、というのは、自分でも笑ってしまうくらいおおげさな言い方です。だけど、少しも人生がたのしくなかった私には、出版社に入ることは「たのしいことをして、お金をもらってもいいんだ」というものすごい発見だったし、ライターになる、ということは「自分のしたいことをして、お金をもらえるなんていうことがこの世にあって、それが自分の身に起こることなんだ」という、信じられないような「ラクなこと」でした。私は「ラクに生きてもいいんだ」と気づいて、とてもびっくりした。苦労していやなことやるのがお金をもらうためのただひとつの道だと思っていたからです。


 ライターの仕事はそんな超簡単でラクなもんではないですが、ほかの仕事をしていたときに比べると、こんなにラクな仕事はないと思います。むかし学生の頃、就職活動をしていた友達が新聞社を受けていて「ジャーナリストって良くない? だって自分の思ってること好き勝手に書いてお金もらえるんだよ」と言ったことがあります。私は、その言葉を、いまはおおすじで正しいと思う。


 私は、生きてないみたいなふうに生きることを、もう二度と受け入れることができない。いちど生まれてしまったから、もう、自分を殺すように生きることはできないし、そんな、快楽のない、つまらないしんどい生活には、きっと耐えられない。だから、勝算なんてなくても、少ない賭け金を元手に、ライターをやるというゲームを人生賭けてやり続けるしかない。


 ライター以外の仕事や、お金にならなくても自分を賭けられることがあれば、ライターであり続ける必要はないです。でも私には今のところ、そういった「ほかの何か」はない。私はライターであることのほかに、生きている実感や快感を感じる方法を知らなくて、それが人生の、ほかのどんなことよりも大事な、なによりも優先させるべきことなのです。


 私がこの出版不況に、とくにエロ本なんて、ネットにつなげる電子書籍の端末が普及したら本よりエロ動画見るよね、そりゃ絶滅寸前だよねっていう誰が考えてもわかるようなものの仕事をしているのに、不安や恐怖を一切感じないのは、エロ本や仕事がなくなる恐怖より、生きている実感がなくなる恐怖、死ぬことへの恐怖のほうがずっと強いからであり、人生賭けたゲームをやっているがゆえの高揚感のほうがずっと強いからです。ゲームをやっている人間にとって、電子書籍があらわれるなんていう、状況が激変することは、こわいことでもあると同時に自分に勝ちがまわってくるかもしれない、停滞していた勝敗の状況が激変するかもしれないという予感に満ちたものであり、血湧き肉踊るゲームの醍醐味を感じる瞬間でもあります。福本伸行先生のマンガみたいな話ですが、ゲームに集中しているとき、人間は独特の集中力や高揚感を味わうことがあって、私はそういう、まるで麻薬でも摂取したかのようなある種の麻痺と高揚に酔っぱらっているのかもしれません。たとえそうだとしても、その状態が最高だと思うのなら、どんな状況においても私は今のような状態でいることを選択し続けるでしょう。快感におぼれた本能の上にある心がこういう生き方を絶対的に正しいと、少なくとも自分にとっては絶対的に正しいと、考えるまでもなく判断しているからです。自分が壊れるかもしれないと思ってゲームを一時離脱したことはあっても、本気でやめようと思ったことは一度もありません。


 そんなふうにしていて、ほんとうに死にたくなることがないわけじゃない。矛盾するようですが、そりゃ逃げたくなることもあるし、これ以外に生きる方法を考えられなかったら、ゲームでじわじわ負けがこんできたときに意識が死の方向に向かうこともあります。でもそこで考える「死」は、ライターをやる前に考えた「死」とは違う。生きていない人間に、死を選択することは可能でも、そうする資格はない。ほんとうに生きていないから、ほんとうに死ぬことなんかできないんです。一度ちゃんと「生きて」いれば、そこから逃げようが、死ぬという選択をしようが、一回「生きた」からにはどんなずるいひどい手段をも選ぶ資格がある。昔、寺山修司が童貞と処女には自殺する資格がないと書きました。私はいま、寺山修司という人が、童貞と処女というたとえを使って言いたかったことがよくわかる。童貞と処女というのは、あくまでも単なる「もののたとえ」であって、真意はそこにはない。ほんとうの快楽を、ほんとうに「生きる」ということを知らない人間には、自殺を選択する資格はないということが、真意なのだと思います。私は死んでもいいほどちゃんと「生きた」とは、まだ言えない。


 これから、予想もしなかったことがきっと、たくさん起こるでしょう。『ビデオメイトDeLUXE』の休刊のダメージより大きなダメージを受ける出来事というのを、私はほかにひとつも思いつかないけれど、大好きな人たちが出版の世界を離れていくことは起こり得るし、その前に私が出版業界からまったく相手にされなくなって、自分の意志とは関係なくゲームを続行することが不可能になる可能性だってある。でも、だからなんだというんでしょう。私はこのゲームをいま心から楽しんでいる。誰だって明日をも知れない人生です。ほんとうに明日、テロが起こって死ぬかもしれない、と思ったときの恐怖を私は忘れていない。明日死ぬかもしれないなら今日をせいいっぱいに生きよ、という言葉がありますが、毎日せいいっぱい人生を謳歌しているとまでは言えないなまけものであっても、私はもう、明日死ぬかもしれないと思っても、ここで死にたくないとは思わない。こんなところで死ぬのはごめんだとは思わない。いいよ、ここでなら、なにがおころうともかまわない。死ぬほどの傷を受けようが、もっとふつうのちがう生き方をしていたなら知らなかったかもしれない苦痛や、想像を絶するいやな気持ちを味わうことになっても、かまわない。わたしはすでに、もっとふつうのちがう生き方をしていたなら味わえない快感を、幸福を、知ってしまったし、それ以上の快感や幸福を自分が得られる場所が、ここのほかのどこにもないことを知っている。だから、いいんだ、ここでなら。たとえ自分の愛したエロ本や、出版の世界が終わるという、引き裂かれるほどつらい出来事を目の当たりにすることになっても、かまわない。自分の文章になんの価値もない、ということを、一生をかけて見いだすことになってもいい。私はたしかに賭けたのだから、もう、結果がどうなるかなんていう、自分が生き終えたあとの話はどうだっていいんだ。


 『ビデオメイトDeLUXE』に感謝の気持ちを。もうどこにも向けようのない愛を。私に生きるよろこびの片鱗を教えてくれたことに、感謝を、感謝を、感謝をささげます。私はこの本が好きでたまらない。不況なんかひとつも悲しくない。この本がなくなることが悲しいだけで。この本がなくなった今、もう誰もなにも私から希望を奪うことはできないよ。