村西とおる/アダム徳永/SATC2

★努力にこんなに感動したのは久しぶりでした。なんというムダな努力……! 実写版手作りエヴァンゲリオンオープニング映像。


http://www.youtube.com/watch?v=bs-vtODc-Fs



★『セックス・アンド・ザ・シティ2』を観てきました。


 先日、村西とおる監督に取材した際に、村西監督の著書『村西とおるの閻魔帳』に書いてあったアダム徳永批判に非常に共感した旨をお伝えしたところ、村西監督は「あの人は女のことを何もわかっておられないんでございます。『セックス・アンド・ザ・シティ』でも観て勉強なさったらどうですかと、こうお伝えしたいですね」とおっしゃいました。


 脱線しますが『村西とおるの閻魔帳』の中の「思い出に残る女性たち・・・」の章は、すばらしいです。


「『スローSEX』を提唱するアダム徳永氏は女性の味方を装っておりますが、その本質は『女性蔑視』であり喰いつめたマッサージ師でございます。『女性は性の弱者』でいつも性に怯えている、との氏の時代錯誤の女性観は自身の痴虐嗜好の性癖と、『劣等感』からきているものでございます。現代の女性の性はすこぶる『元気』で『情熱的』であり、考えられている以上に『寛容』であり、そのクリトリスのごとく自分の足でスクッと立たれているのであります」


 よくぞ言ってくれた、と言うしかない、目の覚めるような文章です。また、この章の最後には『VOGUE』に寄せられたある女性の手紙の引用があります。


「ポルノを邪悪で危険な闇の怪物、女性をおとしめ、暴力的な倒錯した性犯罪を引き起こす根源として描くことで、女性解放運動家たちは女性自身のセクシャリティを否定しています。
 女性もSEXを空想し、夢見るのです。いやらしい、衝撃的な倒錯した空想です。エロティックな映像や文章で性的興奮を覚える女性もたくさんいるのです。
 女性もレンタルビデオ店でポルノを借りたり、いやらしい本を読んだりします。
 男性の性は『邪悪』で『略奪的』であるのに対し、女性の性は、愛情行為を求める、高潔で、政治的に正しい欲望であるという主張は、横暴かつ誤った論理に立脚しています」


 素晴らしい、素晴らしすぎます(村西監督ふうに)。私が「女のエロ」について感じていた違和感があますところなく書かれています。


 愛情行為を求めるのは、男でも女でも同じでしょう。女だけが愛あるセックスを求めているなんて、間違ってる。何人もの男友達が「やっぱり、遊びのセックスは虚しいんだよね」と言うのを、私は聞いたことがあります。愛情行為はもちろん欲しい。でも、愛情行為とは別に刺激的な欲望も持っているし、それを満たしたいとも思う。遊びの虚しいセックスでも、それが刺激的だったらそれがどうしようもなく欲しくなることもあるんです。


 そして男だけが、犯罪に属するような欲望を抱くわけではなく、女だってそういう、実行したら犯罪に属するような欲望を抱くんです。もちろんそういう欲望を持たない人もいるだろうけど、私は前者です。


 アダム徳永氏のスローセックスの、女はとにかく大事に大事に扱え! という主張を読んだとき、まぁ、大事に扱われることに文句はないものの、ときには荒々しくして欲しいんだけどそれは私だけなのかな? とか、私がそんなことを言い出すと、ほかの「優しいセックス」を望んでいる女性が、迷惑なのではないか? という戸惑いを感じたことを思い出します。「私はこういうのあんまり好きじゃないけど、それは私の性的嗜好が一般とズレてるからかもしれない」と思ってました。今思えば弱気すぎた。別に、自分はそう思わないんだったら、そう言ってもよかったんだなと、村西監督の著書を読んで思いました。


 で、話戻って『セックス・アンド・ザ・シティ2』ですが、ファッションは若干弱くなったような気がしましたが、この、フォトショップで誰もがシワをガンガン消しまくる時代に、小じわいっぱい寄せてチャーミングな笑顔を作り、熟女の柔らかいおっぱいをドレスで寄せて色っぽい谷間を作る4人の好演はすばらしく、また出てくる問題がすごい共感できることばっかりでねぇ……。なんで一緒にいるときに男にテレビ観られるとあんなに腹立つんだろうね! 国境を越えて同じ気持ちを味わっている女たちがいるのだと思うともう、おかしくておかしくてしょうがなくて、最後に『TRUE COLORS』が流れたときには泣いてしまいました。


 私は「同じ女だから」っていう言葉に以前は強い強い反発を感じていて、同じじゃないよ、と思っていたんですが、「同じ女だから」ということがいい意味でじわっと心にしみる瞬間というのが、ここ数年かな? 何度もあって、「同じだから、わかるよ」っていうことが、押しつけがましくなく、本当に慰めになることが何度もあってから、そういう「共有できる感覚」は大事な宝物のようなものだと思うようになりました。


 それは、もっと言えば、ものごとによっては「同じ『女』」だからじゃなくても、「男」でも、共有できる感覚はあるはずだと思うんです。男の人を仲間はずれにしたいとは、私は思ってなくて、男の人は好きなんですけども。


 だけど「女同士だから」っていう、『セックス・アンド・ザ・シティ2』の感覚は、すごく楽しくて、やっぱり好きで、ちょっとだけ男の人を仲間はずれにしてその感覚を味わいたくなるんですよね。男の人が「男同士だから」って楽しむ感覚って、こんな感じかー、と思ったら、それもいいよねって思えるようになった。


 仲間はずれにしあうんじゃなくて、そのときつながれる人と、共有できる気持ちを共有しあえばいいんだなと、思いました。ヘテロであれば、配偶者やパートナーは異性です。その異性となにかを共有して関係をつくりあげていくことには、けっこう苦労する。いやすごい苦労するし、挙げ句失敗したりもする。それはすごくしんどいから、同性同士でそういうしんどさを共有するという、まるでふわふわの雲みたいな安全ネットがあるということが大事なんだと思います。


 そして『セックス・アンド・ザ・シティ2』は、相変わらず加齢とアイデンティティの関係のことをすごく力強く描いてくれていて、そこがものすごく立派だと思います。当たり前なんだけど、歳を取っても「わたしはわたし」だということを、あきらめたくないことはあきらめなくて良いことを、カラッと示してくれる。


 劇場は女でいっぱいで、クスクス笑いが起こって、最後となりに座っていた女の子はちいさく拍手をしていました。ブラボー! だよね。わかるよ。