充実した人生

 充実した人生を送りたい、いや人生というのはなんだかイメージしづらいけど、充実した生活を送りたい、と言えば、多くの人はなんとなくそう思っているのではないだろうか。


 「忙しい、忙しい」と言う人のことを、からかうように言ったり、少し悪口を言ったりするのは「忙しい、忙しい」と言ってかけずり回っている人が、なんとなく「充実している」ような感じがして、うらやましいという嫉妬の気持ちがちょっとあるんじゃないかっていう気もする。


 私が「充実した生活」という言葉でイメージするのは、朝早く起きて、陽の光を浴びながらていねいに朝ご飯を作って、食べて、麻の部屋着などに着替えてテラスでゆったりとお気に入りのティーカップでおいしいお茶を飲んだりして、四季のうつろいを眺め、きっちり毎日8時間ぐらい仕事をし、友人に会ったり、夜は趣味や勉強、読書や映画鑑賞などに没頭したりする、そういう生活だったりする。まぁ、まずテラスというものがうちにはないのだけど。


 そのイメージとはまったく違うけれど、もうひとつ「充実した生活」でイメージするものがある。毎日、昼も夜もなく遊びまくり、その合間に仕事しまくり、ひっきりなしに着替えたり、クローゼットの整理をするひまもなく買いものにいそしみ、いろんなものをとっかえひっかえ、激しく遊び働いていくイメージである。


 どっちも楽しそうだし、充実してそうだ。が、私の現実の生活はというと、ここに書くのもはばかられるような果てしなくだらしのないもので、かろうじてお茶をのんだり麻の部屋着を着たりはしているものの、それらはまったく生活の良さを慈しむような感じでなされるものではなく、なんだかずいぶんてきとうでいいかげんな具合。寒いからどこにも出かけないでいられたらいいなとか、でも本を読みたいからお金はいるなとか、そのためにはやっぱりもっと一生懸命仕事しないといかんなとか、ひどい思考が頭の中をグルグルと回転している。


 そのだらくさな生活が私には居心地良いので、ふだんあまりこの生活について、人には言えない恥ずかしいものではあるものの特にこのままじゃいけないとか、反省するとかはないのだが、さすがに年末という一年を振り返る時期がやってきて、来年の目標を考えたときにそれが去年も一昨年も思った目標と同じだったりすると(要するに達成できなかったから何年も同じことを思い続けているというわけ)、さすがに「私、何やってるんだろう。もうちょっと巻きで人生がんばらないと、仕事の成果はおろか、人生の基本的な楽しみでさえぼろぼろと取りこぼしてしまうのではないか」と、足元がぐらつくような気分になり、軽いめまいに襲われたりするのである。


 思えば、私はあまり人に会わない。友人と呼べるような人でさえ、一年に十回も会うかどうかあやしい。世間のみなさんがどのようなお友達づきあいをしているか知らないが、こんなことでいいのだろうか。こんなことでこの先、人と同居したり、結婚生活を送ったりすることができるんだろうか。


 そうやって世間と比べてみると、いろいろ「このままでいいのか」という疑問がわいてくるが、いちばん問題だと思うのは「私にとってこれが正しい。だからこれでいい!」と言い切れるものがなにもないということである。


 いや、ちょっと前までは思ってた。いろいろやってみたが私には結局ひきこもりのような生活が向いているし、それがいちばんストレスが少ないのだと。そう思ったから服も買わずに部屋着を買い込み、ルルドマッサージクッションを買い、水を買いにわざわざ外に出なくていいように浄水器まで買った。籠城する準備はできていた。


 だけど「私はこうだ」なんて決めるのは、なんだかすごくつまらないことみたいに思えてきた。すごくセンスのある人や、かっこいい人が自分の信念を貫く姿は最高だと思う。だけど私はそういうものではない。だったら私が「私はこうだ」なんて言うのは、信念とかそういういいものじゃなくて、他の意見や価値観を受け入れないただの頑固者なだけなんじゃないか?


 今まで、服やインテリア、その他の持ち物からお金や時間の使い方まで、迷いに迷ってきた。数々の失敗から、なにごとも方向性を絞ればそれなりに統一性を持たせられるし、無駄になるものが少ないことも学んだ。


 そのルールに従って買いものをすると、確かにあまり無駄はないし失敗もしない。


 だけど、だけど、つまんないんだよね。確かに私は素敵なファッションや、素敵なインテリアに憧れてはいたけれど、それはそういうことが自然にできるような「スタイルのある人」みたいなのに憧れていただけであって、別に無理して自分の欲望をコントロールして、服や部屋に統一感を持たせることをがんばるような、せせこましいことに憧れていたわけではない。


 なんか、もっとグシャグシャでも、いいんじゃないか。「自分はこういう人間です」なんて、はっきり言えなくてもいいんじゃないか。会うたびに違う服を着ていても、服がめちゃくちゃすぎて「合わせられない!」って毎日キーキーしてても、別にいいんじゃないか。


 無理矢理「こういうのを自分のスタイルにしよう」なんて決めても、飽きる。外側からワクを作っただけじゃどうしようもないんだ。部屋のパターンでさえ、私は5種類ぐらいのものがいっぺんに好きで、絶対その5つは調和しない。服もそうだ。結局、これだけが絶対に好き、なんていうものがないんだと思う。絶対にいや、はあるけど、好きは選びきれない。


 選びきれない「好き」を、もっととっかえひっかえしてもいいんじゃないかと、今は思ってる。もともと、ものすごく、ミーハーなんだし。


 「無駄」をおそれるあまり、がんばって方向性とかを決めてみようとしたけど、それこそが「無駄」だった。だったら、華麗に無駄をまき散らすような生活が素敵だったりするんじゃないだろうか。エコの概念とかと真逆の方向だけど……。


 いろんな思い込みや、自分自身に対する決めつけを捨てて、行動したり、ものを選んだりしてみたら、すごい楽しいんじゃないかな。もちろん、ときどきひきこもりの楽しさも満喫したりして。充実した生活って、そういうふうに過ごすことで得られるんじゃないかと、少し思ったりする。どっかでばしっと集中しないと、深められないようにも思うけどね。