★土佐有明さんの文章のワークショップにゲスト講師として参加させていただいたのですが、いやー、すごかった。


 まず事前に生徒のみなさんの書かれた文章を採点する作業があるんですが、私これ、やってみる前はいやだったんですよ。採点とかってそんなさぁ『世界に一つだけの花』じゃないけど、みんな特別なオンリーワンでいいじゃん! とか思ってて……(ふだんの自分の思想は「ナンバーワンこそがオンリーワン」なのに! 他人にはそんなきびしいこと言ってきらわれたくないという偽善者ぶりがよく出てますね)。


 ところが採点するつもりで本格的に読み始めると面白いのなんの。まず、他人の文章をそういう目線で見ると、欠点や美点がくっきりクリアに見える。もちろんその欠点や美点はあくまでも自分から見た基準でのものなので、それが一般的に見てどうなのかはわからないけど、少なくとも自分が思う「良い文章」にとって、どういう文章の展開のさせかたや言葉の使い方が「良い」のか、はっきりしてくる。「ここを直せば良くなる」という道のりを文章の中に見つけると、宝の島への道のりを見つけたような気持ちになるんですよ。ああ、こういう道順で行けば、この文章は宝ものになるんだ、とわかる。そういういいものがどの文章の中にもあったし、それがあるから際限なくムキになって「どうすれば良くなるのか」を考えてしまう。


 考えながら「この言葉は不要」「言い回しがくどい」「構成が良くない」「導入の引きが弱い」とか書き込んでいったんですけど、これがまた、書く言葉のひとつひとつがブーメランになって自分に返ってきてからだをガシュッ! とかすめていくんですよ。こわいったらないです。「でも雨宮さんもこういう言い回しやってましたよね?」って言われたら終わりだし絶対にそういう例は探せば見つかるにちがいない……。


 他人の文章を読んでそれが良い文章か判断するということは「読書」という行為を通して無意識のうちに今までもずっとやっていたし、自分の文章も、原稿を書いて読み直す際に添削に近いことをやっているわけで、どちらも経験したことがあるはずなのにこの体験がとても新鮮に感じられたのは、その過程を「言語化」して説明したことが今まで一度もなかったからかもしれません。それを言語化するということは、そのままストレートに「自分の思う良い文章とは何か」を言語化するのとおなじことなんですよね。目の前がバッと開けて、いきなり広い世界が見えた感じがしました。


 「自分の思う良い文章とは何か」って、数ある文章の中からどれかを自分が「良い」と選びとることのように思えるし、一見それは無限にあるものをひとつに絞りこむような感じがしますが、感覚的にはまったく逆でした。それは、今まで言語化しなかったことにより客観視することもなかった「自分の思う良い文章の基準」を、言語化したことで自分から切り離して客観視できて、そうやってはたから眺めてみると、その「良い文章」にたどりつくためには無限の道と可能性があるということが見えてくる、という感じに近いです。


 かっこいいと思う文章、とてもこんなものは書けないと思うすばらしい文章というのもある。良いと思うけど、そこにたどりつくための道が見えない文章ですね。昔はそういうものを読むと落ち込んだり絶望的な気持ちになったりしたけれど、今はそうではないです。すくなくともひとつは、自分が「良い」と思い、たどりつけるかはわからなくとも「道」があることは見えるものがある。たったひとつしかないのか、と昔なら思ったでしょう。でも今はその「たったひとつ」がどれだけ豊かで強いかがよくわかる。いろんな人の文章を読むと、その人の輝きというものが必ずあって、その輝きこそが財産なのに「ほかの輝きのほうがすばらしいのに自分はそれにたどりつく道も見えないし、絶対に書けない!」とその人が絶望していたら、なに言ってんだよと思います。もってる輝きを最大限に活かす前に他人の輝きをうらやむのは、自分の輝きに対してとても失礼で、傲慢な態度です。


 ふだん考える機会のないことをたくさん考えて、ふだん言葉にすることのないことをたくさん言葉にして、それは今はじめて思いついたことではなくてずっと自分の中にあったことなのに、言葉にしてアウトプットした、というだけで目の前の景色が変わって見えたというのは、本当にこの添削する行為自体が文章を書くことと同じで、思ったことを書くことで自分の考えを整理し、自分を客観的に眺めるという行為なのだと感じました。やばいよ、これ。こんな添削毎回やってたらまじで文章うまくなるって!


 あと、読んでてもしゃべってても、自分は文章というものが、ほんとうに好きで好きでしょうがないんだな、と初めて感じました。初めてっていうのもすごいけど、いや本読んでてこの文章最高! とかしびれたことはいっぱいあるんだけど、パーフェクトでない文章でも、読んでいるとそれの中に透明な鉱物の中にある結晶のようなものが見えてきて、自分の好みとかと関係なく惹かれずにはいられないんですよ。


 私は文章を、読者としては「すばらしいもの」「輝けるもの」「芸術」「生きるための糧になりうるもの」と認識していながら、そういう文章は自分には書けない、と思っていたし、だから自分の書く「文章」を、そういうすばらしい「文章」とは違うんだと心のどこかで切り離していた。それが、人の文章を読んで「だめじゃないよ、これは輝けるものなんだよ、光が見えているんだよ」と感じたことで、初めてつながったんです。遅いし、今までそんな逃げの姿勢でいたことが恥ずかしいけど、自分の文章もやはり表現であって、輝けるものにつながっていて、自分が読んでふるえるほど感動した文章とおなじ土俵に立っているんだと思いました。いままで思ってなかったんか! というのがすごいけど、いや、ちょっとは思ってたんだけど、逃げ道を用意していたんだよね。私は三文ライターだからさ〜、という言い訳を用意してた。でも本心は、書きたいんだよ、やっぱり。谷川俊太郎のような500文字を、桑田佳祐のような1行を、書きたくて書きたくてたまらないんだよ。自分の限界に正面からぶつかるのが怖かっただけで、ほんとうは走って走って前に進みたいんだ。それをさぁ、自分はすごい人たちとは違うからって、のろのろ歩きやがってさ、腹立つよね、自分に。ばかだなぁと思う。でも、もう、まったくこわくなくなったし、限界にぶつかることなんかどうでもいいと思えた。「文章が好き」って、そういうことです。好きで好きで、たとえかなわなくとも、かなわないことがどんなにつらく悲しくても、好きでいることの喜びは残る。何が起きても、文章というものがすばらしいということは自分の中で絶対的なことで、そうである以上、私は自分自身がすばらしい文章に到達できなくとも、文章に対する気持ちを裏切られることは決してない。そんなに信じられるものがいつも自分とともにあるのは、幸せなことだと思いました。


 そして土佐さんの良い先生ぶりにもびっくり。いや良い先生だろうとは思ってたけど、教える才能ってあるよね……。私もふたつ前のエントリに書いたことを「雨宮さんはcharaが自分をおばさんと言ったことにがっかりしたとか書いてるけど、雨宮さんも自分のこと自虐的に書くのやめたほうがいいよ! 読む人がっかりするから」としかられてまたすごく反省を……。そうだよね、三十路で独身とか口ぐせのように書きまくってるもんね。それは、ほんとうはナルシストなのがバレたら恥ずかしいから書いちゃうんだよな。安野モヨコの『美人画報』が私は大好きなのですが、あれの中で一度だけ安野モヨコが自虐芸や自分ツッコミ芸を封印して、自分のナルシシズムを隠さないで生活の中の美しいことを描いた(書いた)回があって、やり慣れていないからこなれてない感は少しあるものの、私は実はその回こそがすばらしいのではないかと思っているし、その回がとても好きで何度も読んでしまう。人を不快にさせないナルシシズムの表現っていうのは、あるんだよな。そう、それも頭ではわかってたはずのことなんだけど、自分がやれるとは思ってなかったのかも。うう、知恵熱出そう。教えに行ったのに自分がいちばん教わって帰ってきているよー。申し訳ないのでギャラは全額ユニセフに寄付してきます……。


 生徒のみなさん、ありがとうございました。あまり話せなくて残念だった人もいますが、またいつか。まだまだ何時間でも話していたかったですよ。


★そしてWEBスナイパーにアップされた自分のレビューを読んだらみんなにダメ出ししまくったのと同じ過ちがいっぱいありました。ユニセフの救援物資の中にまぎれて船で送られてきます……。