mamiamamiya2007-08-15

★「更新がないので心配してます」とのご心配メールまで頂戴してしまったので、元気です! とここに報告しておきます。お盆前は出版界はちょっと忙しくなるんですね。そんな中で横浜日産スタジアムまで、バルセロナ横浜・F・マリノスの試合を前から二列目のライカールトの背後あたりの席から観戦したり、試合に行くために前の晩必死で原稿を書きながらバルセロナの歌(カタルーニャ語)を覚えようとyoutubeを観ながら(http://youtube.com/watch?v=8b8cGhxhAsY&mode=related&search=)口ずさんでみたり、結局覚えきれずにカンペを作ってみたりして、現地で携帯のpdfファイルのカンペを見ようともたついている友人を尻目に「やっぱ紙媒体だよね〜」とつぶやきながらカタカナ発音で歌ってみたりしていました。みなさん、お元気ですか。私は最近、佐々木敦さんの学校が開校されるという話を聞き(http://brainz-jp.com/)「プロを目指す若い人に来て欲しい」と書かれているにもかかわらずプロのプライドかなぐり捨てて入学したくなったりしていました。


★今発売中の『Quick Japan』に『職業。素人ヌード雑誌編集長』(和田二郎著・マガジンマガジン)という、元『ストリートシュガー』の編集長の本の書評を書いております。書評も読んでほしいが、とにかくこの本、めちゃくちゃ面白い。ここまで完成されたエロ語りはなかなかないという名エッセイです。長く読み継がれ、少しずつ重版していくような本……ではないと思うので、アマゾンその他で急いで捕獲した方がいいですよ! 

村を捨てよ、東京に出よう

 私は25歳のときにライターになり、それからAVのことを書く仕事をしている。始めた頃はおそるおそるで、そのうち面白くてたまらなくなり、企画なんかいくらでも出せた。取材したい人は尽きないし、観たい作品は観きれないほどあるし、面白くて面白くてたまらなかった。書いても書いても足りないということもあったけれど、自分の書きたいことの中で、AV誌に書けない部分があることに気付いて、サイトで文章を書くことを始めた。「AV誌に書けない」というのは、何か問題があるとか業界のルールを破っているとかいうことではなく、「AV誌の読者に必要とされてない」という意味だ。


 私がライターになりたての頃は、まだインディーズビデオが今ほどきちんとした形の商売になっておらず、傑作なのかカスなのかわかんないようなものがうようよあったりしていたし、AV誌やエロ本の中にもそれなりにスキがあって、なんか「こういうことやってもいいんじゃないの」的な、いろいろやれる雰囲気があった。


 インディーズビデオがセルビデオと呼ばれるようになり、お客様は神様だ的な発想が中心になり、雑誌も読者の求めるものを提示するのが正しい形だと考える人が多くなり、そういう雑誌が増えていった。記名原稿が減り、ライターのコラムのページがまっさきに消えていった。読者として個人的にどう感じるかはさておき、このことは、まったく悪いことではない。読者が求めるものを提示する雑誌なんて、素晴らしいじゃないか。私はその方針に逆らう気はまったくないし、ここは私のサイトなので自分の主観で文章を書くけれど、今仕事をしている雑誌の中では、無記名で主観を交えない、いわゆる「客観的なレビュー」を書いている。クセのない文章で、女優の魅力と内容を伝える短いレビューだ。記名のレビューの仕事は今定期的な仕事ではゼロだ。


 最近、私はあるAVの脚本を書いた。それは自分の性癖を剥き出しにした脚本になり、その作品のサンプルを最近観たが、それが作品としてどうなのか、客観的な判断はできなかった。自分とおそらく同じような性癖を持っている女優さんが本気でセックスしてめちゃくちゃになっているわけだから、涙が出るし、共感でどうしようもなくなり、自分の中ではとても大事な作品になったけれど、これが客観的に観て「いい作品」なのか、「どんな作品」なのか、判断はできないと思った。


 そしたら、この作品の短いレビューを書いてくれという依頼が来た。そのサンプル盤を観ているのが私だけで、今ほかに盤がないからというのがその理由で、私は「サンプル盤をメーカーに返却しましょうか?」と言ったが、「いや、いいですから書いてください」と言われた。で、「自分で脚本を書いているので、客観的に観れないのでできれば書きたくない」と言ったら、「ウチはライトユーザー向けの雑誌で、レビューもライターの主観ではなく、客観的な文章を中心にしてますからそういう風に書いてくれれば」と言われた。


 言いたいことは、わかる。私の言ってることを聞いて「なんかこの人、文章にこだわり持ってるみたいだけど、そういうのウチはいらないから」と言いたいんだろう。けど、私は「主観で書く」なんて言ってない。「客観的に観れない、客観的に書けない」と言ってるのに、「ライトユーザー向けだから客観的な文章で大丈夫なんで」って、なんなんだろう。思いっきり矛盾してるじゃないか。本来なら返答は「ウチの方針では主観的なレビューは扱ってないので、今回はじゃあ別の方に」でしょ。


 たかがAVの、たかが300文字のレビューで、ああだこうだ言う人間がいるなんて、わからないんだろう。私はそういう人の気持ちはわかるし、雑誌を軽く読み飛ばす読者の気持ちもわかる。だからそういう場所では、その人たちが考えているルールに従って、その人たちが求める「仕事」を、しているつもりだ。でも「客観的に書けない」って言ってるのを聞き流して「主観なんて必要ないんで書いてください」っていうのは、私には「たった300文字だから、いいでしょ別に」って言ってるようにしか聞こえない。私はこの人が、決していいかげんな編集者ではなく、ちゃんと文章の良し悪しを判断し、自分なりの方針で雑誌を作っている人だということを知ってはいるけれど、このことに関しての受け答えはおかしいと思った。


 でも、業界では、この受け答えを「正しい」と感じる人の方が、おそらく圧倒的に多いと思う。「正しい」とまでは言わなくても、「わかる」だろう。300文字の原稿。一枚しかないサンプル盤。それを今持ってるライター。締め切りは五日後。そりゃ、わかるよね。ライターなら書けよって思うよね。私も「わかる」し、もちろん書きますよ。ここで長文書いてるからなんかこだわりある人みたいに思ってる人もいるかもしれないけど、私のメインの仕事は無記名原稿で、無記名の仕事が9割だ。名前で、主観で、仕事をしてるライターじゃない。無記名のエロ記事で原稿料を稼ぐ、「普通のエロライター」だ。原稿はもう書いて送ったし、直せと言われれば何度でも向こうの希望通り直すつもりだ。恨んでないし、怒ってもない。私が受けた私の仕事だ。


 「AV誌なんかいらねえんだよ」「どうせ全部三年後には消えてる」「雨宮と○○はデキてる」「デキてるからホメてる」「あいつは○○派だ」「あいつはどうせ○○みたいな人間だから」業界村には暗い噂や陰口が溢れていて、たまにエロ以外の媒体で書くと「文芸方面に転向するんだったらさっさとエロやめればいいのに」「やっとエロから足を洗えてよかったね」、出世したり金持ちになったりして良く言われる人なんて誰もいない。目立てば悪口を言われる。それが村だ。


 私はAVの村しか知らなかったから、早くこの村を出たいとずっと思っていた。AVは好きだけど村は嫌いだから、村を出て自由にAVのこと書きたかった。村の掟や村の中のルール、村の中の偏見に対するエクスキューズを入れながら文章を書かなきゃならないことが、ときには面倒に思えた。雑誌で書きたいことを書けないのは、自分に力がないからだ。謙遜でもなんでもなく、それは事実で、だから早く、早く、この村を出て、派閥とかそういうものと関係なくAVの話をしたかった。「なんかこだわりとか思い入れとかあってめんどくさそう」と思われると仕事が減るという状況の中にいるのにこんなサイトで長文書いてたらそのうち干上がるのも目に見えていた。


 他の世界の人と交流する機会ができてきて、話していると、村なのはAVだけじゃないという状況が見えてきた。音楽にしろ映画にしろアニメ評論にしろ、そこには何かしらの「村」的なコミュニティのようなものが存在していて、まぁやっぱり何かやれば何か言われるし、何か言えば干されるし、何にもやらなくても目立てば何か言われる、そういう世界なのだとわかってきた。悪口によるコミュニケーションや馴れ合いがあることもわかっているけど、もちろん本気の「悪意」もある。そりゃ善意だけの世界なんかないけれど、それにしても、だ。


 高校生のときに、学校が嫌で、田舎が嫌で「東京に行きたい」と思った。東京は、どこにあるのだろう。私がいるのはいつでも村ばかり。怒りを、ためこみ、憤りを、こらえ、おかしいと思っていることをおかしいと言わず「仕事」をして、私は、いつ「東京」に行けるんだろう。


 個人で、その人と会っていると「自分はいま東京にいる」と感じる人が何人かいる。私はその人たちのことを、単純に「友達」とは思ってない。その人たちの感性を信用している。自分にとって、その人たちは「東京」そのものだ。「東京の自由」そのものだ。私は東京の自由を、佐々木敦さんにも感じるし、だから学校行きたいと思ったりもしたし、豊田道倫さんにも、松本亀吉さんにも、ある意味での「東京」を感じる(もちろん「大阪」も感じるけど、そういう出身地的な意味や土地のカラーという意味でなく)。ここに挙げない、個人的なつきあいをしている人たちにも、それを感じる。東京には「行く」んじゃない。東京は自分の中にしかなくて、自分をなんとかしなければ自分の中から「東京」は、湧き出てはこないんだ。


 なんで自分は文章を書くんだろう、と思ったことがある。最初は吐き出して自分がラクになるためだった。それからは、よくわからなくなった。特に大金持ちになりたいわけでもないけれど、売れたい、たくさん読んでもらえる人になりたい、というのは、いつも思っている。名誉がほしいわけじゃない。セレブっぽい人になりたいわけじゃない(いや、それはちょっとなりたいけどさ)。やっとわかってきた。私は「東京」を自分の中から探り当てて、その、あふれるほどの自由のある「東京」を、人とわかちあいたいのだ。


 東京へ行こう。東京へ、行こう。今は行けなくても、いつか行けるか、わからないけれど。行けないまま死ぬかもしれないけど。それでも、村を捨てて、東京へ。東京へ。東京へ。向かおう。