ドグマ その1

 さて、そこまで書くのが楽しみな大ネタ、それはドグマです。ドグマは自ら「ディレクターズ・メーカー」と名乗っています。ディレクターという言葉に姉ちゃんあんまりなじみがないのでいちいち訳をしますが、ディレクターというのは監督のことです。監督のメーカー、そう聞いて弟よ! おまえはどんなものを思い浮かべますか? 多くの人が思い浮かべるのは、監督の作家魂が無意味に炸裂してできた自己満足だけのつまんないAV、ではないでしょうか。それくらいAVの世界で、「監督」という言葉が前面に出ているものは評判が悪いし、負の先入観を人に与えかねないところがある。姉ちゃんも、監督の自己満足だけで作っているとしか思えないつまらない(どころか、憎しみすら覚えてしまうほど女優のほうをまったく向いていない)作品を観たことは何度もあるし、そういう作品は、嫌いです。けれど、ドグマでそういう作品は一度も観たことがありません。では、ドグマの言う「ディレクターズ・メーカー」って、どういう意味なんでしょうか。

 ドグマのビデオに出演する女優さんは、必ずしもその時にもっとも売れている女優さんや、有名な女優さんではありません。人気がひと段落した時期の女優さんが出ることもあるし、まだ人気が出る前の新人女優さんが出ていることも多いです。ドグマは中堅メーカーですから、予算の関係もあるのでしょう。しかし、その女優選びに手抜きはありません。ドグマに小泉キラリが出たとき、紋舞らんが出たとき、私は最初積極的に「観たい」とは思いませんでした。なぜなら、どちらの女優さんの作品も他社から山のようにリリースされていて、たくさん観ていたから。二人ともいい女優さんであることはすでに知っていたし、だいたいの代表作も観た気になっていたのです。

 ところが、これがすごかった。小泉キラリも、紋舞らんも、私がそれまで観たことのない小泉キラリであり、紋舞らんだったのです。マゾ女をやらせたら一番光ると思っていた小泉キラリが、「電車男の接吻とセックス」という作品で、目をキラキラさせて恥ずかしがりながらそーっと脚を開いて男にまたがる痴女をやっていて、明るく元気なキャラと叫びっぷりのいいイキ方が魅力だと思っていた紋舞らんが「交尾エロ」という作品で、あきらかに一皮剥けてロリキャラを脱皮した年相応のしっとりした性欲や感じかたを見せていて、今まで知らなかった二人の女優の新しい魅力を見せつけられたのです。

 女優は人間ですから、成長するし、変わってゆく。「マゾ女」がうまいからって、その人が100%「マゾ女」であるというわけではないし、「元気で激しいセックスが好き」だからって、そればかりがその人じゃない。弟よ! 姉ちゃんは昔、恥ずかしながら自分でマゾ女だと名乗ってそのことをネタにしていた時期が、ありました。けれど本物のマゾの人を見たら、自分のことマゾだなんて言えないし(ムチは三回までしか耐えられません)、ただ意地悪いことをされるのが好きなだけで、でもそれも相手によってはそんなことされたくなかったり、逆にこっちが責めたくなる相手というのもいたりして、今はもう「マゾか痴女か、どっちか」と言われても、はっきりとした答えは私の中にはないんです。マゾか痴女か、なんてどちらかはっきり選べるものでもなければ、ひとりの人間の中に両方存在していても矛盾する概念ではないんです。でも、AVの世界ではなかなかその「複雑さ」が出にくい。「小泉キラリ」と聞けば「ぶっかけ」や「M女」という強いイメージがあり、「紋舞らん」と聞けば「ロリ」「元気キャラ」というイメージがあり、その先入観で作品を作ってしまう監督やメーカーは、多いです。イメージを変えようと、その先入観に反するものを適当にぶつけて作ってしまうところも多い。それで、その女優のエロさの真髄が出るかと言うと、ほとんどの場合は出ないです(女優の力によって成立してしまう場合はあります)。頭のいい女優さんは同じことばっか求められてたら飽きも来るだろうし、何を求めてるかよくわからない現場では実力を全て発揮することは難しいでしょう。

 ドグマは、そういう作品の作り方をしていません。それぞれの監督が撮りたいと思う女優さんを面接し、いろいろ話をした上で、いい作品が作れると思ったらその女優さんを起用する。どんなに有名で売れている女優さんでも、面接で監督が「自分が撮っても、いいものになるかわからない」と思ったら、断る場合もあるのだそうです。これは、普通の人が聞いても「ふーん」としか思わない話でしょう。気に入った人を出して、あまり自分の作風に合わなそうな人を出さないなんて、当たり前のことだと思うでしょう。AVの世界にいる人ならわかると思いますが、これは、メーカーとしてはかなり珍しいことなんです。その女優さえ出ていれば売れる、という女優なら、合うとか合わないとか言ってないで撮るのが普通だからです。よっぽど金銭的に恵まれた環境にあるメーカーで、大物の監督ならともかく、この「当たり前のこと」が監督に許されているメーカーは少ないんです。

 姉ちゃんにとって、ドグマというメーカーは、ものすごく当たり前の、まっとうなメーカーです。女優を、名前やマーケティングではなく「どういう人か」「どういうセックスがしたい人なのか」「どんなところがエロいのか」「今どういう状況にいて、本人はそのことをどう思っているのか」という風に、見ている。女優を撮るのは、監督です。女優一人にどんなに力があっても、監督次第でそれを台無しにされることもあれば、その力を二倍三倍に膨らませて見せることもできるんです。素材が良ければ、ぶつ切りにしただけの刺身だって、うまい。けれど刺身しか出せない料理屋なんてお粗末すぎると思いませんか。もっともおいしく、もっとも持ち味が活かせるやり方で調理されない素材が、もったいないと思いませんか。私はドグマの作品が代表作だと思える女優さんを、何人も知っています。朝比奈ゆいさんという女優さんは、ドグマの作品に出たことで「自分はもともとあんまり性格が女のコっぽくないんだけど、ドグマの作品ではそれをそのまま出して、しかもそれがエロいっていう風に撮ってもらえて、初めて自分が出せた気がした」というようなことを言っていました。ドグマは、女優本来のうま味をこれ以上ない形で出してくれる、そういうメーカーなのです。ドグマの作品には「この女優さん、こんな顔もするんだ、こんなにエロかったんだ」という発見があります。

 ドグマは「監督のメーカー」を標榜しながらも、その言葉を「監督だけが好きなことやってればいいメーカー」という意味で使っているのではありません。監督という存在は、女優をきちんと見つめることが仕事です。いい女優なしにいい作品はあり得ないし、いい作品というのは間違っても「監督だけにとっていい作品」であるはずがないんです。いい作品を作る監督、女優を誰よりも輝かせることのできる監督が「いい監督」なのであって、そういう意味を含んだ上での「ディレクターズ・メーカー」なのだと、私は考えています。

 もうひとつ、ドグマというメーカーを語るときに、私が重要だと思っていることがあります。AVというものは、「商品」であり「作品」である、少し複雑な性格を持った存在です。少し複雑ったって、CDだってDVDだって本だって同じ性格を併せ持っているわけですが、AVはそれらとは少し違います。自分の好きなCDや本を買うときは「あっ、これ出てたんだ。この曲いいんだよなー。早く帰って聞きたいな。3000円、はいっ!」って楽しい気持ちで出すかもしれないけれど、AVは娯楽でありながらもっと切実な欲求に「買わされて」いる場合があるんです。「この女カワイイな〜。でもこっちの素人モノも観たいし、でもこっちの裏ジャケのバックでヤッてる場面が観たいし、でもこっちのフェラ顔もイイし、モザイク小さくて接合部見えちゃいそうだし、ってかもう勃起してきちゃったし、今さらどっちもやめられない気がしてきた……。げー2本で8000円! 高っけ〜! でもしょうがねっか、ほらよ!」的な気分も、あるでしょう。ものすごくお金がないのに、お腹がすいてすいてしょうがなくて千円のラーメンを高いと思いつつも食べちゃう時の気持ちというか、そんな感じの時もある。

 せっぱつまってる時に、どっちがうまい店か、なんて選んでる余裕、ありません。うまいものより、とにかく安くて腹いっぱいになるものが良かったりもする。値段と量です。セルAVの価格はここ数年下がり続け、時間は90分が主流だったのが、120分が主流へと変わってきました。ユーザー(観ている人たち)にとって、いかにすぐれた「商品」であるかということが何よりも重要だと言われ続け、いまもそんな状況です。もちろん、本当は見る側が求めていることってそれだけじゃない。「ただ腹一杯になれればいいや」という人もいれば「そんなに量は食べなくてもいいから、すごくうまいものをちょっとだけ食べたい」という人もいるし、「おいしくて濃い味のもの」「薄味で後味のいいもの」がいいという人もいるでしょう。

 AVには「商品としての良さ」と「作品としての良さ」があると思います。私は、その二つが別のものであることを理解していますが、それと同時に、その二つが「重なる」場合があると考えています。例えば、ものすごくテンションの高いセックスって、どっちの良さなんでしょう? 商品として? 作品として? 「どちらでもある」というのが答えなのではないでしょうか。私は、安易にアンチ商業主義を唱える人も、安易に作品主義を唱える人も、両方信用してません。いい「商品」も、いい「作品」も、あっていいし、いい「商品」でもありながらいい「作品」でもあるものがあって、いいんです。商品が、作品なんか作ったって意味がないと言ったり、作品が商品をバカにしたり、そんなことやってたってしょうがないと思います。私は、それぞれに良さがあると思いますから、叩きあって潰しあっても始まらないと思っています。

 ドグマの作品は商品として非常に強力です。それはドグマ主催の「D-1 CLIMAX」という、社内・社外の監督が作品の売上や優劣を競い合うイベントで、現在社内のTOHJIRO監督の作品がダントツに売れているということからも明らかです。主催してる側が勝っちゃったら勝負としてあんまり面白くないのにも関わらず、今のところ勝っちゃってるらしい(本当の勝敗は12月に発表です)。なぜか。まずこのパッケージを見てください(http://www.dogma.co.jp/AV/d1climax.html 「Mドラッグ」という作品です)。か、かわいらしいおんなのこがべんきにはまっているようにみえるんだけど、どうなのかな。あまりのショックに変換を忘れるほどのインパクト。まさしく「肉便器」の実写版です。そしてD-1に限らず、ドグマの二村ヒトシ監督といえばいま最も売れている監督のひとりです。ハードに女を追いつめて極限まで輝かせる作風で人の心をグッと掴むTOHJIRO監督に、「発情ダブルま○こ」とか「美しい痴女の接吻とセックス」とか「ふたなりレズビアン」とか前略いきなり下品なタイトルで人の下半身にグッと手のひら貼り付かせて粘着質に揺さぶりかけてくる二村監督。作風やタイトルだけでなく、見やすいアングルや、見る側が「見たい」と思っているものをきっちり見せる工夫などが随所に活かされていて、商品としてとても優れた形のものになっています。けど、これが「商品」かと言われると、私は「商品」とは言えないんです。TOHJIRO監督は、絶対にTOHJIRO監督にしか撮れないものを撮っていて、二村監督は、商品として優れたもの、監督の存在がオナニーのジャマにならないものを作りながらも、ただの「商品」の枠から豊かな発想や個性がびろびろにはみ出ている感じがするんです。

 auで、infobarという数字キーがタイル状になった携帯電話が出たことがあります。携帯電話というものは、明らかに「商品」ですが、これは商品でしょうか、作品でしょうか。商品としての魅力と、作品としての魅力は、ときには重なるものなのではないでしょうか。ドグマの作品の中では、その二つの魅力が強力な形で融合しているように思えます。マーケティングの結果こうなった、というわけじゃなく、ただ「いい作品、エロくて面白い作品を」と思って作っていたら、自然と両方が融合してた、という感じがします。

 商品としてすぐれているもの、ユーザーが求めているもの、売れるものを作るということが、AVの世界では厳しく求められることが多いですが、いい「商品」を作るって、ある意味簡単であり、ある意味とても難しいことです。人気のある女優の作品ならどんなものでもある程度売れるという面もあれば、それだけでは必ずしも爆発的なヒットにはならないという面もある。ドグマの作品には、ただ「商品」としてよくできているものの枠を越えた、圧倒的な「抜け」があります。たまに音楽を聞いて「あ、これはすごい」と一度聞いただけで理屈抜きにわかってしまうことがありませんか。宇多田ヒカルの「traveling」という歌をはじめて聞いたときに、私はそれまでロックばっかり聞いていたのにその歌に夢中になり、発売日を待ってCDを買いました。ものすごい名曲だという確信が、これはどうしようもなく人の心をとらえる曲だという確信が、売れる前からありました。そういう、頭ひとつぶんスーッと抜けている、誰もが見ただけで「いい」とわかる、その感じがドグマの作品にはあります。「人の心をとらえる」ということは、マーケティングや女優の知名度だけではどうにもならない部分があって、そのとても大事なものを、ドグマの監督は持っているのです。ドグマの作品は、タイトルも内容もあちこちでパクられまくっていますが、パクられたってドグマはビクともしないでしょう。ドグマの作品の本質は、パクりようがないからです。形だけ真似ても、絶対にあの、匂い立つようなムンムンしたエロさや、圧迫感すら感じるほどの興奮は、真似できない。エロすぎるんですよ。こんなもの絶対に普通の商品じゃ、ないです。これが普通の商品だったらもう大変ですよ。普段着が毛皮とか、そういう感じです。これが「普通」の商品だったら、ほんと、そんな世界はおそろしいくらいです。世界中がトランスかぁ……。それぐらい、ドグマの作品のレベルは高い。いちどでも見てみれば、火を見るよりも明らかな違いがあります。さて、長くなりましたが次回は監督のお話を。

★ドグマホームページ http://www.dogma.co.jp