ジョニー・トー

★今週の「華麗なる一族」、北大路欣也「小が大を」って言いすぎ! あと木村拓哉はなぜコイに向かって敬語なのか。年長者だから?
 長谷川京子のおっぱいを「愛の流刑地」のパンフレット(友達に見せてもらった。揉まれてるらしいよ! 映画では)で見てから、どうも胸が気になります。襟の詰まった服を着ると余計におっぱいが目立つ(これは「エマ」(本場英国メイドのマンガです。エンターブレインから出てます。エロマンガではなく純愛ものですけど、エロい気持ちになろうと思えばなれたりもします。エマのからだのむっちり具合ときたら……。そして服のシワ感ときたら……(「電影少女」のパンツのシワを思い出す)。作者が挑発しているとしか思えない!)もしかりですな。エマが控えめな服装をすればするほどおっぱいが目立つ!)のがいやらしいです。「またこんな服着て。これで隠せてると思ってんのかぁ? ピッタリ布地が貼り付いて余計ふくらみが目立ってんじゃねえかよ奥さん。華族の立派なお嬢様が、こんな下品なデカいおっぱいしてていいと思ってんのかぁ? 歩く度にイヤラシくブルンブルン揺れて、ちょっと万俵家にはふさわしくないんじゃないですかねぇ……」って、鉄平を殴ってた鉄工所の人とかに揉みながらネチネチカランで欲しいものです。そういうAV、どうですかねぇ。「まんぴょう」っていう名字もいい具合にいやらしいですし……。



★「黒社會 election」(ジョニー・トー監督)観ました。かっこよかった。レオン・カーファイってあんな下品な顔だったっけ? 人を殺すのに銃を使わない映画です。ジョニー・トーの言葉を。「いかに格好良く物語を語るか。それは監督の腕次第。芸術映画だって、うまく作れば観客はつくものだと思う」 「映画という文化自体がどんどん浅くなり、映画館も激減するでしょう。ネットやテレビでの鑑賞が中心になるかもしれません。しかし、存在価値のあるものは形態が変わるだけで決して消滅はしませんよ」 だって! 元気だなぁ。スガシカオのベスト盤を買ってみたら、「愛について」という私ですら知ってる曲がセールス的に惨敗して凹んだ話とか書いてあってちょっとビックリしたりしてるんですけど、「愛について」なんてみんな知ってる歌じゃないの? 

 ものを作る人がセールスを気にすること自体は、広い視点で考えた場合、受け手にとってプラスになることも多いと私は思っているんですけど、スガさんが特殊な例なのではなく、今の日本で何かを作って発売するということはこういうことなのかと思いました。作品の評価をノイローゼ的にセールスに委ねなくてはならなくなってしまう。作り手がキツいのはもちろんですが、私のようにスガさんをなんとなく好きでいいかげんにときどきCDを買って「いい歌だなー」なんて思ってるような受け手にも、これはキツい状況です。「いい歌だ」とは思ってるし、それを聞くことでいい気分になったりシリアスな気分になったりして楽しんでいるのに、それが十分には伝わらない。もちろん、言わなきゃ伝わらないんだろうけど、買うときには思ってるわけです。「あんた、いい歌うたってるよね。これ、聴かせてもらうよ」って。それは少ない売り上げにしかならなかったのかもしれないけど、それで凹まされる状況って、なんなんだろう。

 もちろんスガさんが、そういう意味(一人一人の買い手や聴き手を軽視しているという意味)で発言したわけではないことはわかるんですが、セールスが冴えないということでシリアスに凹まされてしまう状況も、ものすごく理解できる。ただ、ジョニー・トーはおそらくそんなことでは凹まないわけで。テアトル新宿で一日に一回しか上映されないという状況でも、多分そんなことなんでもないんだろうし。テアトル、ほぼ満席だったし。

 ジョニー・トーの発言の「芸術映画だってうまく作れば観客がつく」という発言は、裏を返せば「観客がついてほしいから、本来芸術映画になってしまうかもしれない映画をこんな風に(普通のお客さんが娯楽作品として観に来れるような作品に)作ったんだ」という風に受け取ることもできる。客が欲しいという動機で、こんな作品ができて、実際に映画ファンでもなんでもない私がこういう映画の面白さを享受できているということは、もうどっからどう見てもいいことでしかない。これが「面白そう」な映画でなかったら観には行ってないし、なんか男の美学風味に仕立てられていたりしたらイヤだっただろうと思う(実際には、男の美学なんか匂わせないようにひたすら泥臭くやっていることが、逆にものすごくかっこよく見えるように仕上がっていると感じたけど)。客の目を意識する、客の入りを意識することが、客にとっても作り手にとってもいい方向に転んだ例だと思う。

 でも「愛について」なんて、スガさんの代表曲じゃん。これでなんで落ち込むことがあんの? って思う。本人は自信作だったのにセールスに反映されなかったことがショックだったそうで、セールスだけが全てじゃないということもわかっていながら、やっぱり落ち込んだというようなことを語っていて、それはわかるんだけどこれは悪い例だなとしか思えない。セールスがどんなに重要なことなのか、ミュージシャンにとってシリアスなことなのか、私は少しはわかるつもりだけど、それでも、こんなのは悪い連鎖でしかない。

 私は、AVのレビューを書く仕事をしているから、セールスの重みを知っていてもこう言わせてもらう。セールスなんてくだらないこと、気にすんなよ。いい歌作ったのは間違いないんだから、そんな時の運みたいなこと、気にすんな。

 本当は、そんなこと言ってらんないのはわかってる。スガさんならともかくだけど、AVの場合は売れなかったら仕事干されて食えなくなったり、食えないっていうか作品自体を撮ることが事実上不可能になる場合もある。監督の評価は、メーカー側からすればセールスでしかない。

 受け手がいくら喜ぼうが、どんなにその作品を気に入ろうが、そんなことは綺麗事みたいなことでしかなくて、何の役にも立たないことでしかない。商売だから、そういうものだ。

 でも、そういうものなのか? 

 生活必需品じゃないものを作って売るっていう仕事は、受け手が喜んだりそれを気に入ったりすることの積み重ねで成り立ってるんじゃないのか。受け手は、敵じゃない。当たり前のことだけど、受け手は決して敵ではない。気に入らないときにはひどい言葉を投げつけたり、熱狂的に好きだったくせに次の瞬間には何のためらいもなく背中を向けたりするけど、それでも最初から敵だなんてことはない。ものを売ることは、会話をすることと同じでしょう。

 たくさん売るためには、最大公約数みたいなところにものを投げるしかない。そうなるとつくられるものが一斉に同じ方向を目指すことになる。それはどういうことなのか。

 ロシアのアニメーション作家であるユーリ・ノルシュテインがこう言っていたことがある。「芸術は、本当は社会に貢献できるもののはずなのに、最近の社会では、作り手がサラリーマン化していて、芸術はその本当の役割を果たせていない」。私はそれまで、芸術は何の役にも立たないものだけど面白いものだ、という程度の認識しかしてなかった。

 自由で、むちゃくちゃな「もの作り」ができる環境が失われ、自由でむちゃくちゃなものや、「芸術」や、「作品」や、「自由なエロ本」や、「自由なAV」や、そういったものが失われていくことに対して、「淋しい」とか「残念だ」と書く人がいる。淋しいとか残念とかっていう程度なら、なくたって別にかまやしないじゃないかと思うけれど、私も芸術というものについてその程度の認識しかしてなかった。

 本当はそうじゃない。全然違う。きつくて苦しくてたまらなかった学生時代に自分を救ってくれたのは何か。孤独で家族とも仲良くできなかった時代に自分を救ってくれたのは何か。今、死にそうなときに自分を救ってくれるのは、何か。気持ちを晴らしてくれるのは、世界の色を変えてくれるのは、昨日までと今日からをくっきりと鮮やかに切り離してくれるのは、何なのか。

 芸術が社会に貢献できる、なんて、考えたこともなかったけど、ノルシュテインが言っているのはそういうことなのだと思う。AVは、「芸術」と呼ぶにはふさわしくないジャンルのものかもしれないけど、それでも、人が普段テレビを観ている時間や、誰かと電話している時間や、映画を観ている時間を、うばいとってこっちを向かせることができたのなら、それは他の「芸術」と呼ばれるものと、ある意味ではなんら変わりがないと思う。

 性欲のはけ口があれば、人は狂わないで済むし、つらい時に口ずさむ歌があれば、人は死なないで済むんじゃないか。そんなことで、っていうような簡単な、どうでもいいことで不意に救われてしまうような、そういうことがあるんじゃないのか。

 屈折して、ねじ曲がって、自分が「女の子」であることすらちゃんと受け入れることができてなかった、あきらかに少数派の過去の「私」に向けて、なにかを伝えようとしてくれる人がいなかったら。学校で多数派の、最大公約数の人に向けての表現しか、この世になかったら。間違いなく私は今の百倍暗くて百倍ぶさいくで百倍収入がなくてやる気がなくて家族とは仲違いしたままで、百倍孤独で、百倍ひどい人生を、送っていたことだと思う。渋谷陽一がいなかったら、姫野カオルコがいなかったら、寺山修司がいなかったら、同人誌というものがなかったら、東京に来ることもなければ処女をうしなうこともなく、ねじ曲がった自意識から腐臭を漂わせながら誰からも好かれることなくかろうじて生きているような状態になっていたに違いない。そして一生自分を少しも好きになんてなれないまま、半目を開けて未練がましく死んでいったに違いない。

 つまんないもの作って、「セールスなんて下らないこと気にしない」で、自己満足の蜜の味におぼれている人だっているかもしれないが、それだってたとえ数人でも支持者がいればそれでいいのかもしれない。なんて言えばいいんだろう。それとは全然違う、才能のある人間のタイミングやささいな策略のミスには、気にすんな、としか言いようがない。作品そのもののミスでさえ、気にすんな。である。最大公約数と、少数派と、両方の心の深い深いくらやみの部分や、こうありたいと思う光の部分にものを投げることのできる人間は、いる。いるでしょう。とんでもない作品がすさまじいヒットを叩きだしたりするし、こんな歌がという歌がまたたく間に誰もが知っている歌になったりもするし、そういうことを起こすためには、ささいなミスでけつまづいてる場合じゃない。場合じゃないっていうか、そういうことを起こして欲しいんだよ。抵抗できないほどの、歓喜や快楽やどん底の渦の中に引きこんで、めちゃくちゃにして欲しいんだよ。だから、だからそんなことで落ち込まれたら、こまる。

 「ライターに誉められてもしょうがないんだよね」「ライター受けするのって売れないんだよね」「ライターなんてどうせ金払ってないんだから」「オナニーしてないんだから。仕事で観てるだけでしょ」って、もう「ラ」って言われただけで次の言葉わかっちゃうほど言われた言葉だけど、AVライターという仕事がもうかなりの部分で成り立たなくなろうとしているのは、そういうことなんだと思う。評価はセールスなのだから、ライターの評価なんて何の役にも立たない。買う側もライターが絶賛している作品より、一番売れている作品のほうが気になる。作り手だって別にライターの言葉なんて大して信頼もしていないし、たとえそれに励まされることがあったとしても、それでビデオ雑誌が売れるわけではない。悪循環だと思う。どうして、いい方向に向かないんだろうか。セールス以外の価値基準から誰かがものを言って、その言葉から影響が広がっていくような、そういうことにしていけないのは、なぜなのか。力が足りない、力が足りない、力が足りない。ということ以外に私が言えることは何もない。私には、力が足りない。文章力が足りてるのにどうにもならない人もいるんだろうけど、私は自分がだめだから、状況になんか絶望しない。状況なんて。いまよりいい時代があったことすら知らない。いまよりもいい時代がどこかに待っていて、いまよりもいい世界がどこかにあるなんて、そんなことは信じない。どこまでも泥沼の戦場が目の前に広がっていて、それが世界の裏側までずっと続いているだけだ。その中で戦って死ぬか、すべてを泥沼のせいにして死んでゆくかだ。

 「ライターなんて」って言う作り手も、AVを観る人たちも、私には敵ではない。愛情か憎しみか、どちらかしかないなんて嘘だ。愛してなくても話はできるし、憎んでいても話はできる。話し続けることを選んでいきたい。話せないときも、無駄な話も、しないほうがいい話だってあるけれど。