愛情/ノマディック美術館

DOLCE&GABBANAの新しい香水、ピークラウンジの春の太陽、リビドー・ガールズの皆さん、真魚八重子さんのささやくような低い声、渋谷14階のエレベーターからのサイバーシティ東京の景色、真夜中の長電話、私をナンパしてくれた3人の男の人、石釜ピッツァ、四谷アトレのパウダールームで髪をコテで巻きながら「今日アレだよ、ミッドタウン今日からっしょ? 年度末っしょ? で金曜でしょ? アタシ頑張るよ。今日頑張んなくてどーすんだってハナシだよ。は? それ何? 入会金700万のスポーツクラブって何?」って話してた六本木のキャバクラ嬢、ペペ・トルメント・アスカラール、ノマディック美術館、これが先週私を元気づけてくれたもののすべてです。


 一週間前に私の生活に事件のようなものが起こって、それから嵐のような一週間があり、この一週間で私は10歳ぐらい年をとったと思う。14歳でわたしは大人になった、という書き出しで始まる小説があるけれど、私は30歳ではじめて大人になった。と思う。一週間以上前のことが、とても遠い遠い昔のことに感じられて、ほとんどなにもおぼえていない感じ。


 つらい出来事があって、神様はいないと思った次の瞬間に、今までずっと目をそらしつづけてきたものの正体がはっきりと見えてきて、ものすごい気分を味わった。神様はいるのかもしれない、とかうっかり思ってしまいそうなくらいの感じだった。


 私は、自分の容姿のみにくさを直視するまでにほぼ25年かかり、5年かかって自分の容姿を演出する方法をおぼえ、そのことで自分というものに向きあった気持ちになっていたし、見た目が変わったことですっかり自分が矯正された気分になっていた。


 でも、容姿のみにくさは直視できても、内容のみにくさは全然見えてなかった。私は、自分の劣等感を謙虚さだと思い込んでいて、AVに対する愛情の裏側に潜んでいたセックスを奔放に楽しめる人たちへの激しい憎しみや妬みを、焦がれるような尊敬や憧れにすり替えていて、女としての自信のなさを、自分の容姿のせいや、つきあう男たちの愛情の足りなさのせいにしていた。自分のことを性格がいいのだと、罪がないのだと、すさまじい勘違いをしていた。汚物を他人になすりつけて生きた30年間だった。自分の自信のなさの正体は、容姿のコンプレックスのせいでも、女としての自分に自信が持てないせいでもなく、ただ、自分のみにくい正体から逃げて目をそらしつづけ、ごまかし続けて、そのことをいつか誰かに見抜かれて、暴かれて、断罪されることをおそれていたせいだと、はっきりわかった。


 苦しいのは逃げているせいで、悔しい思いや怒りを常にかかえて、自分の外部のある種の人やものごとを敵視していたのは、それが自分の、そのずるい部分という弱味を刺激してくるからなのだと、わかった。


 30歳ではじめて私は大人になって、おそらくこの先また、 38歳や44歳や、そのときどきで大人にならざるを得ない、嵐のような出来事に巻き込まれるのだと思う。そうして、何度でも、はじめて自分に生まれ直すような、そういうことが起こるのだと思う。先週は、常に表面張力で保っているような状態で、何を見ても泣けて、おそろしいほどいろんなものに心が揺れた。はじめてちゃんと目が開いてものを見れるようになったんだからあたりまえだと思う。そして、はじめて自分のことが好きになった。みにくい自分のことを直視した自分のことを、はじめて少しだけ好きになった。はじめて素手で世界にさわって、この一週間は、まるで世界と寝ているような一週間だった。


 この世には、たとえば吉田アミというような信じられないほどキュートな人間が生きていて、働いたりしゃべったりものを書いたり声を出したりとかしていて(オトナアニメ絶対買う! 吉田アミのカラーグラビアもつけてくれたら15冊買う! スタイリングはツモリチサトの下着でお願いします! キャミ……キャミまででいいから……っ……。うさぎとか抱いてな! あとグラビアにつけるポエムは私に書かせてほしい……。「大キライ! の、反対の反対の反対、だよっ!」とか(上目遣いのちょいふくれ顔)。このきしょいセンスいつのまにどこで身に付いたんだろう……。自分でもものすごい謎だな〜)、私は、そういう人たちのことが好きで、自分の好きな人たちに、自分を好きにならせて認めさせることで自分を愛そうとする、まるで強姦のような行為は、もうこれからはしたくないし、たぶんしない、と思う。


 誰かからどんなにひどいことをされても、神様のバチなんかその人にはあたらない。どんなことをしても、その報いを受けずに生きていく人間はいる。だからバチがあたることなんか私は期待しない。神様はいない。どんな目にあっても、立ち上がる力なんて神様は与えてくれない。食後に薬を三錠。もっとでもかまわない。私は立ち上がりたい。吐き気がするようなことをされたことを、自分のために憎んで、昇華させたい。


 私の左手の薬指には、金の指輪が嵌まっている。それはデザインが好きで前に有り金はたいて買った、私が持っているたったひとつのブランドもののアクセサリーで、私が、私という、はじめてつきあう恋人にあげて、うけとって、つけているものだ。私のからだの三分の二は水分でできていて、その淀んでいた水はノマディック美術館などでだらだらと流れ出て、いまやサン・ペレグリノとみだらな血だけで満たされている。すごいナルシズムだね! しかたないよ。はじめて自分を好きになって、だいぶ浮かれていて、そのことの喜びで傷口に麻酔をしなければ、まだ、好きな知り合いに会うたびに抱きついて泣きたい気持ちになってしまうのだから。そうしてもいいんだけど。もしかしたら、今日はそういうことをしてしまうかもしれない。


 クラブハイツの化粧室でふと時計を見たら、文字盤の日付のところが「1」になっていた。4月がはじまる。昨日、AVの現場に行って、生まれてはじめて、私は女優さんに対して嫉妬せず、女優さんと自分を比べて自分がダメなのだと、自分のことを責めずに済んだ。今まで見た中でいちばんきれいなからだの、いちばんいやらしい女優さんだったにもかかわらず、そのことで自分が苦しくならないで済んだ。そこでおこなわれているセックスを、うらやましいと思ったけど、その気持ちは昔の苦しい気持ちとは全然違っていた。これから私は、前よりはちゃんと女優さんのこと、見れるとおもう。AVをこれまでと違ったかたちで、愛せるし憎めると思う。そのことの、この世に生まれた喜び、というものとほぼ同質の喜びを感じていて、私は今週ちょっと、かなりおかしなテンションになっているかもしれない。まぁ、ちょっと変だよね。


 たぶん、気付いても自分の弱点や欠点なんて簡単には直らないし、気付けばいままでの人生が真っ黒にぬりつぶされていくような気持ちになる。今までかかわったすべての人や、今まで自分がやってきたこと、すべてに、頭を下げてもどうにもならないことをしたという、罪の意識みたいなものが生まれる。ひとつの苦しみから逃れられても、新しい苦しみがある。でも、たぶん私はすでにある部分が変わってしまったし、変わっていくのだと思える。


 どんな出来事が起こったか、については、松本亀吉さんの「溺死ジャーナル」でカラー4Pで書きます! 頼まれてないけど書きます! セキララにな! おたのしみにね。タイトルも内容ももう考えてる。松本さん、おねがいします。



★あと、ノマディック美術館について。


 ノマディック美術館は今東京にあるすべてのものの中でもっともすごいもののひとつに入るから、東京にいる人も、いない人も、行ける人はみんな行ってみたほうがいい。


 お台場にあるノマディック美術館は、貨物用のコンテナと、ビニールのシートと紙筒と木だけでできている巨大な建物というかプレハブみたいなもので、ノマディックという名前のとおり、遊牧民のように世界中をまわっている移動美術館。今は、グレゴリー・コルベールの「ashes and snow」という展示をやっている。


 アーティストのことは、知らなくていい。ノマディック美術館のことも、知らなくてもいい。美術館の入り口でギャル三人がチラシを見ながら「これ写真? マジで? どーやって撮んの? 撮れなくね? 絵? 絵じゃないよね? どーなってんの? えー見る? 入る?」と言っていた、その衝撃がすべてでかまわないと思う(答え・合成ナシのほんものの映像と写真だよ! マジでな!)。


 三つの映像作品が中で観れるのだけど、そこには動物と人間の、本当に信じられない光景が映っていて、こういうものだろうと予想はしていたものの、予想をはるかに越えて衝撃的だった。


 中でも、チンパンジーと人間の女性が船の上で戯れるシーンは、女性が水を手ですくってチンパンジーに飲ませ、チンパンジーは濡れた女の腕をしゃぶるように、手首から肩まで口全体を使って舐め、女の手を引いて船の端に誘う。という、セックス以外のなにものでもないとしか言いようのない光景が映っていて、息を呑んだ。


 こういった映像をグレゴリー・コルベールがどのようにして撮ったのかはわからないし、おそらく、この映像の中に見えている美しく神秘的でスピリチュアルな何かとはずいぶんかけ離れたことも起こっていたのではないかと邪推するけれど、ただ、そこに見えているものの意味は、ほかに解釈のしようがないほど、愛情。としか受け取れない。


 動物が何も考えてなくて、人間も何か全然別のことを考えていて、行為はただ行為でしかないのかもしれない。私たちはただ、見えている現象の意味を自分なりに解釈することによって生きている。グレゴリー・コルベールの映像は、あまりにもその意味が、大きな意味での愛情に近いものに見えすぎて、おそらくそこにある種の人は拒否反応を示すだろうし、疑いをもったり、気持ち悪さを感じたりもするだろう。


 昔、暗黒舞踏大野一雄のレッスンをいちどだけ受けたとき、スタートの手を打つ合図とともに、号泣しはじめた女の子がいた。私はノマディック美術館に入った瞬間、ほぼそれと同じ種類の何かに包まれる感覚があって、自分でもこんな神秘体験のようなことを書いてて気持ちが悪いんだけど、大声をあげて泣きたくなった。


 このような、コンテナの移動美術館をつくって、世界中をまわってこれを見せる、という行為は、本当はお金のことやいろんなことがあるはずなのだけど、そんなとんでもなく楽しそうで変わったことをわざわざロレックス財団を味方につけてまでやる。という行為の意味は、私には愛情や、ただの純粋な楽しみに近いものにしか見えなくて、そのことが嬉しくてたまらない気持ちになった。ノマディック美術館は、プレハブの神殿のようで、そういう宗教的なことは思いたくないし、何かに感化されやすい人のようでいやなのに、大きな流れに押し流されるようだった。


 ここで見るものを、たとえ気持ち悪く感じるとしても、それはおそらくとても貴重な体験になると思う。グレゴリー・コルベールというアーティストが好きかとか嫌いかとか、いいかとか悪いかとかいう問題じゃない。これはいったい、何なのか、ということを体験するために、いちどは行ってみてほしい。