『愛スピリチュアル』発売中

★告知するのを忘れていたわけでも、故意にしなかったわけでもないんですが、『愛スピリチュアル』(マガジン・マガジンより発売中。略称『愛スピ』)というDVD付き女性向けマンガ雑誌が発売になっています。雨宮は誌面で中村うさぎさん、さとう珠緒さんのインタビューを担当させていただいているほか、DVDで森下くるみさん、AV男優の田渕正浩さん(ワープの『巨乳マンション』シリーズの管理人を務めていたあの人です)のインタビュー、さらに『雨宮まみの愛スピクリニック』と題してたどたどしくAVを紹介したりしています……。しかもなんかイラストで超美脚&美形に描かれてものすっごいアオられていて、長年私の担当をしてくれている編集者の間では「怖くて見れない!」「恥ずかしくてどうしても見れない」「ガチガチにアガっている様子が見てらんない」と呪いのビデオ並みに見れないと評判です。ちなみに本人もおそろしくてまだ見れてません……。こんなに俺をフィーチャーしてどうするつもりなのか、愛スピ編集部のみなさんよ。誌面もガッツリ詰まっててスゴイ濃いです。読んでると今すぐオーラソーマのボトルとか選びに行きたくなるYO!


 男優の田渕さんは、業界内では健康オタクとの評判が高かったのですが、お話を聞いてみると聞きしにまさるオタクぶりで、セックスに良い食べ物、感じやすいカラダを作るのに良い食べ物やマッサージなどスラスラと紹介してくれました。新書一冊ぐらいすぐ書いてくれそうなイキオイです。


 あと、中村うさぎさんのお話は、まだ身体の中に残ってる感じですね。私は中村さんのことが書き手としてものすごく好きで、インタビューで話してくれたことがズーンと身体の中に考えるべき宿題、向き合うべき問題として残っている感じがします。そしてさとう珠緒さんは想像以上にスピリチュアルオタクでこっちがときどき話について行けなくなるほどに詳しかった……! そんな『愛スピ』、全国書店およびコンビニで発売中です。よろしくお願い致します。


佐藤友哉ユヤタン)の「鏡家サーガ」を今さら読んでいてようやく「水没ピアノ」まで読破したのですが、いやーこれマジで死にたくなるね! 凄い。今さら凄いとか言ってももう乗り遅れすぎてて誰も共感してくれないだろうけど、凄いよ! 上手い小説じゃないんだけど、そこが良くて。


 ちょっと気になる相手がいて、何度か二人で会ったりしてて自分的にはいい感じだと思ってて、もしかしたらつきあったりしちゃうのかと期待したり妄想したりしてたら、実は相手にははなから恋人がいてこっちのことなんて別に異性としてすら見てなかったというオチがついたことがある、情けなすぎて苦くすらないゲロみたいな思い出を持っている方はぜひ。というか、そんな人間が読むと本気で死にたくなりますよ。でも、少なくとも「自分がそんな人間」であることからは目を逸らさずに済む。「水没ピアノ」は、「自分なんか死んだほうがいいんだ」という、存在の消失を自ら望むほどの自己嫌悪に対し、「おまえなんか死んだほうがいいよ、ほら死ね、死ね、さっさと死ね」という痛烈な罵声を浴びせ、崖の手前で背中を押してくる作品で、「ほら死ねないじゃないかバーカ。だったらちゃんと生きればいいじゃんか馬鹿」という、逆説的な希望。のようなものを描いている、ような気がします。自己嫌悪というか、自己憎悪の文学。自己憎悪と、再生の文学。自分を憎悪しながら、人はどうやって生きていくのか? 古野まほろの描く自己嫌悪は、どういう形で「再生」するのだろう。


 ユヤタンの小説ではまた、男性キャラの、女を見る目線のあまりのリアリティに、死にたくなる。関係自体はめんどくさくなってて「来月には捨てようか」と思っているのに、「もう少し体を堪能してからだと思い直す」とか、その女の太股がお気に入りだとか、そういう部分。頭は悪いけど顔がかわいいから好きだとか、めんどくさい女だけど体がいいとか、でもそんなセックスにも飽きてくるとか、そういう部分。


 こういう部分について感じるのは「自分はそういう、強烈な欲情の対象として見られることがない」という絶望と、「そういうパーツへの欲情だけでしか見られず、『ほんとうに』愛してはもらえない」という絶望という、まったく両極端な感情です。私は、どちらの気持ちも経験したことがあり、今も両方の気持ちを味わい続けている。好みのパーツ以外を隠してセックスされたことがあるし、外見を一度もほめられないままつきあったこともある。私は、自分の外見に関する自信を、どのような形で持てば良いのか、よくわからない。他人の評価と無関係なところでひとつ持っていればいいのかもしれないけれど、他人の評価の方がいつも正しく思える。隠されたパーツである胸は、自分では嫌いではないけれど、人に見られるのは嫌だ。隠されなかったパーツに関しても、自信を持つどころか、自分の心がそのパーツに嫉妬する、という分裂した状態になってしまう。「わたし」に欲情してほしかったのに、「わたし」ではなく、「わたし」の外見のひとつのパーツにのみ欲情されたという事実が、苦しく、重く、つらく思える。そこじゃなくて「わたし」を見てほしいという欲望。なんとも不条理な、どうしようもない欲望。「あなたはわたしのことなんか見ていない」という言葉は、「わたしは他人に承認されなければ生きてゆけないのです。だから早く、セックスなんかするのだったら認めてくださいわたしのことを」という、脅迫めいた言葉のようだ。結局、自分が自分の足で立っていないからそんなことを思うのだと、30歳になったくせに、まだ、そういった初歩的なつまづきのことを思う。自分で自分を認めて、愛するほかに、誰かから与えられる完全な愛情なんておそらくないのだということを、私はそろそろ気付かなくてはならない。のだろう。