★「最近更新がないですが、生きてますか?」というお便りがちょくちょく届くようになってしまいました。ご心配かけてすみません。生まれてきてすいませんってくらい生きております。


 ちょっと仕事の告知をしておきますと、今発売中の『SMネット』(サニー出版/DVD付きの大判の雑誌です)で、縄師の奈加あきらさんのインタビューをしております。人はなぜ、どんなきっかけで「縄師」という仕事を始めることになるのか……? ということにご興味がおありでしたら、ぜひ。あと、コラムも書いていますのでよろしくお願い致します。こちらは「なぜ最近『私ってドMなんです〜』と聞いてもないのに自己申告する女性が増えているのか」についての考察です。


★「更新がない」=書く元気がない、忙しくて書くヒマがない、などといろいろな解釈をされますが、実際はそんなこともなくて特に今は、罰則のように自分にここで感情を吐き出すことを禁じているような、そんな感覚があります。


 私は今年は前厄。なのですが、その言葉通りといいますか今年一年に二度も恋愛が破綻していて、そのたびに、自分の愛情がきれいなものどころか相手にとっては泥饅頭みたいなものだったということを思い知らされて、もうどうしようもないというか、自分で愛情だと思っているものを相手にぶつけないことこそが本当の愛情なんじゃないかという、ヤマアラシのジレンマなどというもはやアニメの世界でも古典になりつつあるような言葉を持ち出すまでもなく、思ってしまう。わけです。


 他人に泥饅頭をぶつけた以上、こわいせつないつらいさびしいといった自分の感情を、受け入れられずに自分の中で押し潰して処理するしかなくなった愛情を、こういうところに書いて、吐き出して少し楽になる、ということを、してはいけない感じがする。


 書けば、楽になれるんです。でもそれは、こちら側から観た一方的な事情でしかないわけで、私が楽になるため、それ以外の目的を持たない行為で、私はそういう行為を今まで何の疑問も持たずにやってきたし、虐げられた人間だから、差別された人間だから、ひどい目に遭った人間だから、そういうことをやったっていいんだと、開きなおってさえいたように思う。私がいままでどんな目に遭っていようと、それが他人に泥をぶつけていい理由には、ならない。


 29歳から30歳になるとき、私はどちらかというと自信があって、20代後半でがんばってきたものの積み重ねで30歳を乗り越えられたように思います。ところが今年、30歳から31歳になるときは、30歳までに積み重ねてきたものをいちど全部捨てて、もう一度ゼロから始めなければいけない、という感覚がありました。それは、すごい恐怖でしたけど、同時にはてしなく自由で、地平線しか見えないようなところから海の中へドボンと飛び込むような心地よさもありました。そのときに、「自分が楽になるためだけに文章を書くのはもうやめたい」という気持ちがあって、それが、今の、吐き出したくてどうしようもないときにもまだ、あります。


 今週、私はいろいろなものを買いました。マーク・フィッシャーの靴、黒いニットのワンピース、石とリボンと紐を組み合わせたネックレス、好きな香りのお香、好きな香水のクリスマス限定バージョン。買おうと思えば、あんまりお金を持ってない私でも、もっともっと、いろんなものが買えます。でも、一番ほしいものは、失ってしまった信頼や愛情で、それはもうどうしようもなく、始まりつつあるクリスマス月間の中で、悲しみこそが世界をこんなにも美しく見せるという事実をひとりでただ味わうしかない。悲しいときには頭の中で音楽が鳴り響き、夜の中をきみの船が降りてくる、というどうしようもなく悲しくて美しい歌が聞こえてきて、今年のクリスマスは、六本木でイルミネーションでも見てやろうかとか、おかしなことを考えてみたりする。悲しいことのあとに、奇跡としか思えないような嬉しいことがいくつもあったり、うっかり、神様の存在を信じてしまいそうになるのが、この12月という、私が一年で、8月とともにもっとも好きな月の、ちょっとおかしな部分。です。ハッピーバースデー神様。と、今年はみなさん、どこで誰と、言うのでしょうか?