『べしゃり暮らし』

 マンガの師匠に私の心のマンガ『G戦場へヴンズドア』(日本橋ヨヲコ)を貸したら、森田まさのりの『ROOKIES』と『べしゃり暮らし』を渡された。黙って読んだ。すごかった。


 『G戦場へヴンズドア』は、高校生がマンガを描く話である。内にこもっておびえて何もしなかった人間が、初めて自分の殻を破って外に出て命がけで戦う話である。


 このマンガの中では「いいマンガとはどんなものなのか」「読者と描き手の関係はどうあるべきなのか」ということが、主人公たちによって何度も問われ、いろんな人に答えられていく。マンガの中で、マンガの本質に関わる話、表現の本質に関わる話がなされていく。そのことに、作者であり、マンガ家である日本橋ヨヲコが、無関係であるはずがない。だからこの作品は、荒削りと思えるところもあるけど、私は大好きで、読むと必ず泣く。このマンガが好きだと言うのも照れくさくてあまり人に言ったことがないくらいだ。いろんなセリフ、覚えるくらいに読んだ。「作者が読み手を選ぶとは、思い上がりも甚だしい」とか。でも、言葉にならないことの方がずっと強く伝わってくる。ストレートで王道の表現、簡単なことをやっているようで、実は究極までシンプルにした表現、そういうものが強いんだということ、そういうものは簡単には描けないんだということ、表現において「自分を出す」「殺す」って、どういうことなのかということ。日本橋ヨヲコという人がきっと、本当にそこで迷い、血がにじむほど苦しみ抜いた上で見えて来たであろうことが描いてあって、そのまぶしい光が見えるような作品だ。


 森田まさのりの作品は、一度も読んだことがなかった。ヤンキー漫画だと思っていたから、自分とは関係ないし興味もないと思っていた。『ROOKIES』は面白かった。こんなにあっさりうまくいっちゃうの!? という気もしたけど、パーッと熱く盛り上がるし、細かい日常も挟み込まれててヤンキーが苦手でも入り込めた。野球の試合の見せ方も、落としどころも上手いと思った。


 で、『べしゃり暮らし』である。一巻、二巻、三巻を読みはじめた頃には鳥肌が立っていた。おそろしいと思った。こんなものを、よく描けるものだ。私だったらたとえ思いついたとしても絶対に手を出さないテーマだ。怖すぎて。手強すぎて。


 『べしゃり暮らし』は、お笑いをテーマにした作品である。お笑い芸人を目指す高校生と、お笑い芸人の世界を描いたものだ。今「笑い」について描く、というのがそもそも怖い。今の笑いや面白さって、何層にも分かれているし、「本当に面白い」と言われている人たちとお茶の間でウケている人たちは違っていたりする。例えば松本人志という人をどう捉えるのかということだけでも難しく感じる。そんなもの無視して高校生が芸人目指してがんばって挫折を知ってでものしあがっていくマンガにしたって、そこそこ大丈夫かもしれないのに、森田まさのりはそんな手抜きは一切しない。「何が面白いのか」「その場でウケることと本当の面白さって違うのか」「一発ギャグは面白いのか」「関西弁はどうなのか」そういう、本気でお笑いのことを考えたら絶対に逃げられないような事柄に、ちゃんとぶつかっている。さらにお笑いが人を傷つけるかもしれないということまで描いている。絵まで『ROOKIES』の時とは違う。今までのキャラクターと似ていない、ヤンキーじゃない顔で、表情も全然違う。お笑いの表情を描こうとしている。そして、そこまで描いているのになにひとつ小難しくなんてなってないし、わかりやすくてド直球で人間臭くてアツい「森田まさのりのマンガ」なのだ。


 なんなんだろう。怖い。普通『ろくでなしBLUES』があったらもういいでしょう。あんな代表作あって、さらに『ROOKIES』があって。ドラマ化までされて。そしたら『べしゃり暮らし』のカバーのコメントに「『ROOKIES』のドラマを見てると悔しくなる。マンガでは絶対にできない表現がドラマではできるから」と書いてあった。「月二回の連載になって、初めて晩酌の時間が取れた」と書いてあった。今まで晩酌すらやらないでずっとずっとずっとマンガ描いてたのか。そういうものなのか。それが当たり前なのか。


 どこまで貪欲なんだ。どこまでやるんだ。絵も、話も、今までよりさらに上を目指す、その貪欲さがおそろしくて、かっこよくて、しびれる。これがプロか、と思う。誰に言われたわけでもなく努力を重ねて、平均点なんかハナから見ないで自分だけに見えている頂点を目指す、これがプロなのか。お笑いを好きな人がお笑いのマンガを描くなんて、険しい険しい山に登ってるようなもんだ。描く前に批判がこわい。叩かれるのがこわい。まず、何より愛しているお笑いの人たちに叩かれたらこわい。マンガの中で「お笑いのネタ」を描くことだけ考えてもこわい。そんなことを考えなかったはずがない。でもこんなことを乗り越えてゆくのは、森田まさのりにとっては「何でもない、マンガ家として当然のこと」なんだろう。大きい。志が高すぎて自分にはそれを見上げることすらできない感じがする。


 『G戦場へヴンズドア』は、私が出版社に勤めている頃に連載が始まった。エロ本の中で自分の好きなサブカルじみたことをやって、自己満足して、でも何かが違うと思っていた。じゃあサブカルの雑誌作れるのか? と考えたら、自分には作れるわけないと思った。要するに、自分には何にもなかったのだ。ただ、サブカルにかぶれているだけで、ただの『Quick Japan』のファンで、それ以上の何物でもなかった。「自分のやりたいこと」と「自己満足」は違うんだ、じゃあどうすればいいのか? いったいどうすれば「自分のやりたいこと」と「読者の求めているもの」をつなげることができるのか? その前に「自分にやれること」なんて、あんのか? そういう気持ちに、この作品はぴたりと寄り添ってくれた。「ここは本当の居場所じゃない」なんて思ってる場合じゃなくて、エロの仕事を与えてもらってるだけでありがたいんだと知った。自分に何ができるんだ、何にもできねーじゃねーかよ。入稿ひとつ満足にできない、ゲラチェックは穴だらけ。そして愚痴だけは一人前。給料全額返金したいくらいの恥ずかしい社員だった。お金もらって学校行ってるようなもんだったのに。目の前にあるエロすら真剣にやれない人間に何がやれるんだ、目の前の読者に向かって真剣になれない人間に何がやれるんだと思った。今でもエロの原稿で「この人には勝てない」と思う人がたくさんいる。編集の人の前では言わないけれど、そういうのを読むと本気で悔しい。悔しいけど嬉しい。世間的には無名でも、エロの大物はいっぱいいる。「こんなにマニアックな文章書けない」「こんなに下品な表現思いつかない」「面白い、なのにエロい」……毎月送られてくるエロ本の山を開く度に敗北感に打ちのめされる。エロは、単純な文章の上手い下手じゃない。「下手でたどたどしいのが逆に生々しい」というのエロの形もあって、それを計算で書くのはもの凄く難しい。何度も何度も同じようなことを繰り返しねちっこく書き続ける本物のマニアの文章を、正確に真似するだけでも難しいのだ。


 世間から見たらたかがエロ原稿、それひとつとっても満足に書けたと思えることはほとんどない。だいたい終わってから「あー! あそこああすれば良かった」と思ったり、載ってから「なんだよここキャッチの語呂悪すぎ」と自分に悪態をついたり、そんなもんである。「毎月何本ぐらい仕事してるんですか?」とよく聞かれるが、私はその質問に答えられない。今月やった仕事が、来月また来るとは限らない。今月書いた原稿がダメだったら、いつ切られてもおかしくないのだ。「毎月、何本」仕事をさせてもらえるかなんてわからないのだ。ましてや自分より上手いライターがいることは自分が一番良く知っている。手抜きなんてしようがないし、どんなに手を入れても届かないものもある。コーヒーが美味しいけれど苦いみたいに、仕事にはいつも挫折感がつきまとう。


 真剣に上を向いて歩けば、森田まさのりの百分の一でも、千分の一でも、前に進めるんだろうか。怖いことから逃げずに、人から見えない部分でも手を抜かずに、しっかりやっていればいつかは、こんなふうな「仕事」が、できるんだろうか。森田まさのりは、おそろしいほどに初心を忘れていない。忘れていないどころか、初心そのものだ。強い。大御所と呼ばれていて、今なお刺激的な新しい代表作を生み出し続けている作家さんたちは、みんなそうなのだろう。それが「プロとして当たり前」なのだろう。鳥肌が立つ。そんなものを、読めるだけでも幸せなはずなのに、読むとこの差はなんなんだ、と自分との差のあまりの大きさがたまらなくなる。三文ライターが何言ってんだ、違って当たり前だろって話だけど、私と同じくらいのキャリアや年齢で強い作品を生み出している人はたくさんいる。自分が三文なのは棚に上げて、はずかしげもなく言ってしまえば、自分もこんな風に作品で人と深く深くつながってみたい。私が、会ったこともないしこないだまで読んだこともなかった森田まさのりを、今はまるで良く知っている人のように尊敬し、愛しているように。全然どんな人か知らない日本橋ヨヲコのことを、遠くで戦っている戦友なのだと、勝手に思って『少女ファイト』を買い続けているように。


 たかがブログでも、文章からは人が見える。表現をする人は、表現の上でいくらでも嘘がつけるようでいて、絶対にごまかせない部分がある。その「ごまかせない部分」が強い人は、ほんものなんだ。本物って何なのか、人によって定義は違うだろうけど、私はただ「ほんもの」と思う。「ほんもの」に触れ、「ほんもの」の空気を吸って、「ほんもの」に焦がれながら生きていきたい。「にせもの」や「二流」にだけ触れてれば安心して心乱されずに暮らしていけるけど。たとえ自分が三流以下でも、「ほんもの」の輝きと比べ、三流以下にできることを探し、三流以下なら三流以下なりの心意気で「ごまかせない部分」をきちんと生きたい。


 森田まさのり先生、『べしゃり暮らし』楽しみにしています。退屈なんていう言葉はもう忘れてしまいました。ああ〜もう真夜中なのにそば食べたくなっちゃったじゃん! くそー。おなかすいたー。

べしゃり暮らし 1 (ジャンプコミックス)

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