圧倒的な快楽

井上陽水の40周年記念のライブ『40th Special Thanks Live in 武道館』に行ってきました。


 井上陽水クラスになれば、曲を知ってようが知らなかろうがすごいだろうなと思って行ったのですが、圧倒的でした。マイケル・ジャクソンが最後にやるばずだったツアーで「客が聴きたい曲をやる」と言っていたけれど、まさにそんな感じの、これしかないだろうという鉄板のような選曲で、すごい声量。


 私は、音楽っていうのはもともとわりと好きだけれど、「音」をちゃんと聴けるようになったのはごくごく最近で、10代、20代の頃はただ歌声とメロディの快楽しかわからなかった。雑な刺激にしか反応できなかった。今もそういうところはあるし、ちゃんと聴けてるとはとても言えないけど、演奏の音も声もすばらしく、音が粒立つってこういうことなのかと思った。


 年をとっておとろえてないのがすごい、っていう話じゃないんですよ。それももちろんすごいんだけど、何よりも驚いたのは、井上陽水という人が非常に自由で軽やかであることでした。それがこんなに気持ちのいいことなのかと思った。


 私に神様がいるとすれば、その神は快楽というものです。10代や20代のとき、私にとって快楽は「刺激」だった。次から次に欲しくなり、ときには手痛いしっぺ返しを食うような、そういうことで、その一瞬が過ぎればすぐに忘れて、はやくはやく次から次に欲しがって、漁っていた。


 ま、30すぎてたった3年で「あの頃は〜」ってそれ何だよって感じですけど(三十路になったら「今どきの若者は〜」とか「若い頃は〜」って言ってもいい許可が下りると思ってたので、ぞんぶんに言わせてもらいますが)、今は、快楽というものについての考え方は全然違っています。ほんとうの快楽は、どんなに圧倒的なものであっても、暗い感情を引き起こさない。井上陽水がどんなに、私が今から一生死ぬほど努力してもたどりつけない高みにいても、だからといって悲しいとか悔しいとか、そんな風には絶対に思わない。


 快楽は刺激でも敵対でも、勝敗でもない。ねじふせたりねじふせられたりする快楽はあるけど、私にとってそれは瑣末で雑な快楽で、欲しくなることもあるけど、それは、どっちかというと暗い。本当の快楽は、明るくて温かくて包容力のあるものだと今は思う。嫌なことが全部消えて、その時間が終わっても、そしてその時間が二度とおとずれないようなことが起こったとしても、ずっと残り続けて、二度と味わえないことを思い出して悲しくて泣く涙すら甘く、思い出すだけで力が湧く、そういうものだ。


 井上陽水のライブで私は泣いたけど(泣いたばっかりの日記だな。すぐ泣くからな)泣いたからすごいとかいうのじゃない。それは下に書いてる『べしゃり暮らし』もそうなんだけど、泣いてしまった場面や、泣いてしまった悲しい曲よりも、その全体のすごさ、涙という形で出てこない気持ちのほうがすごかった。


 あれはなんなんだろう。あのすごい力は、なんなんだろう。


 私は、今年この日記であんまりちゃんと結論とかが出ることを書いてなくて、なんだかてきとうにやってるみたいだし、そういうとこもあるけど、今年は、こういう、わからないこと、身体でも感情でもはっきりとわかっているのにちゃんとそれがなんなのか説明できないようなことに夢中で、ずっと考えている。雲をつかむようなこと。


★酔っぱらって忘れてましたが、演奏中はずっと「これは魔法だ」と思ってました。モジャ公にとっての人生の光がさす瞬間がクオリアなら、私にとってのその瞬間はmagicです。自分は魔法使いになれるんだろうか? とも思った。こんなん無理じゃね? とかなれないかもしれない、じゃなく、それは新しいはっきりとした希望で、まったくつらくなく、苦しくなく、目指す方向が見えるのはただただ嬉しいことでした。