transformation

 今年になって、去年をふりかえってみると、なんかすごくきっぱりと年が変わった感じというか、空気が変わった感じがする。ゼロ年代とかテン年代とかが関係あるのかわかんないけど、個人的に。オザケンショックのせいじゃないよ。もうすこし前からおもってたことです。


 去年の自分の目標は、本を出すことだったんだけど(そしてその目標は達成できてないんだけど)「本を出すこと」を目標にしてたから歪んだっていうか、ずれた気がする。本を出すって、売れるものじゃなきゃいけないというのがあるから、売れる方向に曲げて曲げて、自分ではその程度余裕で曲げられるし合わせられるって思ってたけど、本当にそうなのか考えたら、たぶんそんなことはなくて、曲げてる間に心がぽっきり折れてたんじゃないかと今になってみるとおもう。


 やりたいこと、好きなことを仕事の形に落とし込むことに成功したのもあったし、自分ではうまくやって、それなりにがんばっているつもりだったし、実際にがんばりはしたんだけど、去年ほぼ一年間、ここで長いまとまった文章ってほとんど書いてない。『ファンタジウム』ぐらいかな。


 やりたいこと、書きたいことは全部仕事にしよう、っていう気持ちがどっかにあって、去年一年まったく気づかなかったけど、自分をとても制御していたとおもう。実際にやりたかった仕事が来たりもしたし、本の企画もあって、そっちを向かなきゃいけないと思ってた。


 とにかく「きちんとしたい」という気持ちが強くて、それはイベントとかをやって、実際にお金を払ってわざわざ観に来てくれる人が目の前にいる、ということがあったせいかもしれない。すごく楽しかったし、楽しいんだけど、土台はきちんとさせてそれなりのものを見せなきゃって思ったら、自分にできることってすごく少なかった。イベントは土台はつくるけど、内容はどうなるか流動的で、そこがいつも楽しみで不安で「きちんとしたい」という気持ちもあるのに、その「きちんとしてない」、はっきりまとめられない部分が強い余韻になって面白かったりもした。


 「きちんとしたい」のに、「きちんとしすぎてる」「きれいにまとまってる」ことがなんか、面白くなくて、ここにも「きちんとしてる」ことはあんまり書きたくなくなってしまった。最初から最後まで、きっちり結論出てることを小論文みたいに書くことが、つまんなくなってしまった。はっきり、かっちり、まとめられないことや、ひとつの方向に結論がつけられないことのほうが面白くて、大事なことに思えた。


 もちろんおとなの話では、仕事のほうを向くのが当たり前だし、自分に対してお金を払ってくれる相手の要求に応えられるように努力するのが当たり前で、それが普通だと思う。


 けど、自分の中には、人から要求されることだけがあるわけじゃない。生きてるからいろいろあるし、仕事にはならないような、でもなんかどうしようもない気持ちや、感情の揺れや、そういうことがあるわけだ。守備範囲外のものごとに揺さぶられたり感動したりすることもある。けど、そういうことは「もう書かなくていい」って去年は思ってた。要求されてることが先だろう、って。


 でも逆なんだよ本当は。こういうのを書きたいって書いてたから「要求」が来たのであって、べつにあてずっぽうに「要求」されたわけじゃない。


 私は、何に対しても「専門」って言えることがない。強いて言えばエロが専門なんだけど、エロについて全てを知ってるわけじゃないし、エロのダークサイドでどんな利権がからんでいるかとか、AVの新作すべてを知っているわけでもない。すべてに対して浅い。そのことはよくわかってる。


 だから、あきらめていたんだなと今はおもう。自分はもう、この程度だから、この程度の人間の手に負える範囲内のことしか書けないよって。去年は嫉妬すら、しなかった。サザンのすごい歌詞を聴いても、すごい短歌を読んでも、詩を読んでも、文章を読んでも、もうそういうものに自分は手が届かない、それ以前にもう手を伸ばさない。そういう感じで、こぢんまりとまとまりたかった。こぢんまりとまとまれば、きっと、わかりやすくなると思ってた。自分がどういう人間か説明がしやすくなると思ってた。わかりやすい「肩書き」が欲しかったのかもしれない。そこから逸脱するのがこわかったし、面倒だった。はっきりしたかったし、「自分はこうです」と言えるものが欲しかった。


 去年私は二回一人で海外に行っている。ラクだった。本当はそういう状況が息苦しかったんだなーと今は他人事のように思えるけど、海外に行って、なにものでもないよくわかんない人間としてそこにいることがとてもラクだったっていうのは、そういうことなんじゃないかと思う。誰にもなんにも頼まれてないのになんか書きたくてしょうがなくて旅日記をいっぱい書いた。これは『溺死ジャーナル』次号に載るでしょう。へんな文章です。


 今年になって、なにか強い風が吹いた感じがあって、自分がかぶっていた布やら殻やらがぜんぶ吹き飛ばされるみたいな感覚が来て、どうしていいかぜんぜんわからなくなった。今まで正しい方向だと思ってたものが急に間違ってると感じて、動けなくなった。こっちに行けば間違いないと思ってたのが、ふいに「こっちでいいのか?」っていう感じになった。よく考えたらそっちに行きたいわけじゃないんじゃないか、とおもった。そうおもうことは今までがんばったことを全部ナシにすることみたいに感じて、不安になって、ちぢこまって救いを求めるみたいにサザンを聴いたら、すごくて、ああこんな一行が書けたら死んでもいいと思った。ほんとうは、こういう、すごいものを書きたいっていう気持ちがあったのに、あまりにも遠いからさっさとあきらめて大人の顔で仕事をきちんとしようとしてたのだ。祖母から「『100万回生きたねこ』、何回読んでも涙が出ます」という手紙が来た。そう、ああいうものを書きたいと思う気持ちがあったはずなんだ。文章が、ことばが、大好きな文章や言葉が光り輝く津波になって自分のからだをひきずりこんでいく感じがした。ヘッドフォンで大きな音で音楽を聴いて、すばらしくて涙が出て、とまらなくなった。


 なんでこの光を、見なかったんだろう。自分とは関係ない、ただまぶしいものとしか思わなかったんだろう。遠すぎるから? それを求めるのはこわすぎるから? 光を見てると絶望的な気持ちになるから?


 自分に神様がいるとしたら、それは欲望だ。だから、私は、その欲望から目をそらすわけにはいかない。たとえ死ぬまでにその一行が、光り輝く一行が書けないとしても。そこに向かわないのは、まちがってる。仕事は好きだし、大事だけど、それをただ「こなし」ていたらだめなんだ。仕事と希望はつながっていて、求めなければなにもやって来ない。


 去年は仕事がうまくなりたかった。そのことは本当だとおもう。去年「この人雨宮さんってライターさんで、インタビューとかまとめるの普通にうまいんですよー」って紹介されて嬉しかったことも覚えてる。「普通にうまいんですよー」でも、すごく嬉しかったのだ。それがライターとしての能力だから。でも、仕事がうまくなることと、いい文章を書きたいとおもうことは、別々のばらばらのことじゃない。なんかそれを、別々のばらばらのことだと思って、仕事のほうだけがんばればいいんだと去年はおもってた。それはそれで必死だったし、仕事で評価されたかった。器用になりたかったし、きちんと仕事ができる人間になりたかった。


 けど大波かぶって目がさめた気持ちになった。いまから、いまが始まるんだとおもった。これから先、わたしは希望のない道を歩いていくんじゃない。とてもこわい、もしかしたら崖から落ちておしまいかもしれない道を歩くんだとおもった。33歳でこんなこと言って、ばかかもしれない。でももともとばかなんだし、浅いんだし、頭悪いんだし、そんなことのなにも、こわくなんかない。ほんとうに怖いのはもっとべつのことだ。私が今まで積み上げたものなんて、ちいさな砂の山みたいなもんで、大波がぜんぶさらっていって、ただまっさらな砂浜がずっとさきまでひろがっている。どうすればいいかなんて答えはなくて、水にはいっていってもぐったり、砂浜をはしったり、夕焼けをみたり、そんなことを繰り返していくしかない。


 だって、自由なんだから、好きにするしかないでしょう。なんで自由じゃなくなってたのか、それは自分が勝手にそうしてただけで、檻の中にいれば安全だって思ってただけで、檻をこわしたわけだから、もうどこへでも、ひとりで歩いていくしかないんだ。いくしかないんじゃなくて、そういうことをしても良いんだ。はたから見て何やってんだっていうことを、やってもいいんだ。そのことが私にとって大事なことだと、だれもわかってくれなくてもいい。自分の大切だと思うことを、ちゃんと見ることのほうがずっと大事で、いまはぜんぜん、それがなんなのかもわからないし、目の前はまっくらで、息が苦しい。でもそれでも前よりはずっとましで、ぜんぜん空気がちがう。


 恥ずかしいけど自分で自分を産みなおしたみたいな気持ちで、むかしみたいに、触れるもののすべてが面白くてまぶしくて、自分の仕事になんの関係もなくてもそれを見たいとか聴きたいとか読みたいとか思って、それになんの遠慮もなく気持ちをぜんぶもっていかれて、そういうことの混沌の中でなんか出てくるのか、なんも出てこないのか、わからないけど、だめでもいいんだとおもう。なんも出てこなくて、なんにもできないまま終わっても、べつにいいやっていうすがすがしい気持ちでいる。なんかしなきゃ、早くなんかを確立しなきゃって焦ってたのがうそみたいだ。


 私は浅くてばかだから、自分が天才でないことに自信がある。ものすごく普通で、凡庸なことに自信がある。それは、自分の言ってることやおもうことが、他人に理解できないものだとはおもわないっていう自信、自分の考えてることは、言葉をまちがえなければ伝わるはずだという自信。万人に伝わるとはおもわないけど、理解するのにある程度以上の頭の良さが必要な文章は書けないし、その欠点が、わたしのような人間がずうずうしくもライターをやっていく上での武器になっている。ずうずうしい人間がどんどん幅をきかせていく世の中で、私もささやかにずうずうしく生きている。


 考えこむと唇をさわるくせがわたしにはあって、いまぼろぼろに荒れている。甘いあじがするリップバームをぬって、あしたは、何をしようか考える。去年占いで引いたカードの最後の一枚、未来を指すその一枚が「transformation」だったことを思い出す。現在を示すカードは黒くて、自分をまもる保守のカードだった。なんてきれいな符合。どんなことが起こっても、人生はたしかに美しく、どこかにかならず光がある。いまはぜんぶが、とてもまぶしい。