★この記事が面白かったんで(→http://d.hatena.ne.jp/hagex/20100416#p2 ただの修羅場じゃなくってその後の同居人エピソードが面白いので最後まで読むことをおすすめします)、思い出したんですが、私は男とか女とか、男の中の女性性とか女の中の男性性みたいなことを語るときに絶対に外せないマンガ家は小池田マヤさんだと思っており、こないだフィールヤング読んで家政婦シリーズを読み返したくなり『放浪の家政婦さん』買ってきました。で、再読したんですが(雑誌掲載時にどれも読んでいたのです。まだ単行本未収録のもあるので、はやく2巻出てほしい!)やっぱりすごい。


 一見男に見える、家政婦としては最高のウデを持つ「里」という女性がこのシリーズには出てきます。主人公は里ではなく、一話ごとに里が家政婦として訪れる家の人が主人公になっていて、それぞれの主人公が見つめる形で里のことも描かれていく形になっています。おそらく作者がこの作品で描きたいことのひとつは「生活の重要さ」であり、料理なり掃除なりそういったところの機微で、それは惜しみなくもう「た、食べたいー!」とよだれ出そうに描かれておりますが、もうひとつ、これはおそらく作者が全作品を通して描かずにはいられない「男/女が、どう生きるか、自分の性にどう折り合いをつけていくのか」ということが描かれていて、そこがもう、すごいんですよ。


 小池田マヤは、そういった男/女が、社会的な役割から例外的に自由になっているユートピアのような世界を『C.G,H!』で描いています。『放浪の家政婦さん』では、そこまで自由ではない。里は男でも女でも受け入れるし、男とも女とも寝るし、男にも女にも惚れたことがある。見た目は男っぽいけど女として男のオトし方も心得ていて、やりたいときにそれを我慢したりしない。里は「ブス」だという設定で描かれていますが、「大人になったらブスでもモテる様々なテクがあるんだよ」というセリフがあるように、そんなことものともしてません。


 でも、里と、里の女友達のやりとりで描かれていく恋愛の苦しみはすさまじい。男とうまくいかなくなった里の女友達は里のところに来て、こう言います。「どうして私、誰のことも愛せないの」「里が一番好き」「ねぇ…私おかしくないよね!? 誰のことも好きになれない欠陥女じゃないよね!?」「里の事は好きだし 里も私を好きよね!?」。


 「好きって言ってよぉ!」と泣き叫ぶ女友達をなだめ、抱きながら里は言います。「私に戻るのは逃げてるだけだよ」「それでも男と対になるのをあきらめきれないんだろ」。そして「男も女も誰ともつがいたくなくて それでも一人が淋しいなんて」という言葉が書かれる。この物語の結末は、すごいです。どんな人間をも肯定するラストシーンだと思います。


 里はトランスジェンダートランスセクシュアルのどちらとも違っている存在のように見えます。男になりたいわけではないけど、バイセクシュアルだというのが正しい見方なのかな? と思えるけど、それともちょっと違っていて、自分の中にある得意なことをただやっているだけで、自分にできることなら男の役割でも女の役割でも臨機応変にこなしている、そういう人だと思います。


 そういう里のような人間を描くことで、生物学的な性別はともかく、役割としての性別はいくらでも自由になれるんじゃないかという可能性を、小池田マヤさんは描こうとしているように見えます。料理や掃除のことだけ見てもすごく楽しいマンガなんですけど、小池田マヤさんの作品に常に流れているこの切実さを、私はいつもすごいものを見ている気持ちで読んでいます。はっきりと何かを見つめている人でなければ描けないものでしょう。本当に魅力的な作品だと思います。

放浪の家政婦さん (Feelコミックス)

放浪の家政婦さん (Feelコミックス)