小沢健二・ひふみよ・わたし

 「最近、再結成の話を聞くと、うわっと思うんですよ」。NHKホールで席について、年下の女友達は言った。「ああ、なんか目立たなくてもしっかりやってたんだってじーんと来たりするよね」と言うと、彼女は「いや、そうじゃなくて今日のオザケンもそうですけど、みんなすごいのに自分だけ十年前となんにも変わってないし、成長してない気がして」と、言った。


 あんまりぐっと来すぎてとっさに言葉が出なかった。友達はいつも、すなおな言葉で気持ちを言う。そういうのを聞くと、自分はいろいろ、見栄とか、じゃまなものをいっぱいつけているなと思う。


 本当は私だって倒れそうな気分だったんだ。いちおう、ライターをやって、いままで食べてこれてるけど、自分に才能や実力があるなんて示せる根拠はまるでない。自信はいつだってマイナスで、ときどき高波のようにやってくる根拠のまったくないハッタリみたいな自信の波にのっているだけで、その波が去ればまたマイナスに戻る。ライターとしての自信だけじゃない。社会人として、いやふつうの人間としても、なにひとつちゃんとできてない。昨日使った食器をめんどくさくて洗ってない。仕事で人に迷惑をかけている。いい歳をして親に心配をかけている。


 書きたいことがないわけじゃない。やりたいことがないわけじゃない。だけどそれをやる気力も体力もどんどんすり減っていって「私はこれを書くんだ」なんていう、うつくしいすばらしい目標の看板は潮風にさらされて錆びて朽ちて砂と水に浸かってる。誰にも求められてなくてもやりたい一心だけで突っ走れた時期は過ぎて、もうどこをどうすれば力がわいてくるのか、わからない。この先、力がわいてくるというあてもない。もし、このままわいてこなかったら? それを考えると、こわくてたまらなくなる。


 自分なんて、誰にも求められていない。そして、自分で自分自身に「がんばってるよ、大丈夫だよ」と言ってやれるほど、努力したとも、やるべきことをやったとも、言えない。なんにもない、なんにもない十年。なにひとつ残せるもののない十年。


 すがれるような栄光もない。自分にはこれがあると言い切れるような、内に秘めたなにかもない。家に帰ってそんな自分を受け入れてくれる誰かもいない。あたらしく、なにかに挑戦したり、向かっていったりする前に、ぱったり倒れてしまいたくなる。


 暗闇で響く小沢健二の歌はまぶしすぎて、最初は自分にこれを聴いたり、これに共感したりする資格すらないんじゃないかと、疎外感のようなものを感じるほどだった。


 でも、友達のすなおな言葉を聞いているといつも自分のくだらない見栄やなんかがばからしくなってくるように、そんなちいさな壁は一瞬で消えた。その瞬間、音楽がからだの中にぐんと強い圧力をもって響いてきた。


 小沢健二の音楽は、昔の曲なんかじゃなかった。音楽はいきもので、圧倒的だった。すごい演奏、衰えてるとかそういうレベルの話じゃない、あたらしいいまの、小沢健二の音楽。


 恥ずかしい情けない自分を恥じなくていい。誰だってそんな、りっぱになんて生きてない。人から見たらつまんないことで絶望して死にたくなったり、なにもできなくなったりする。そういうぎりぎりの中で浮き沈みしながら生きてて、それがほんとうで、普通なんだ。


 小沢健二の十年間のことなんか、どうだっていい。十年前がどうだったとか、十年間どうしていたんだとか、そんなこと知るか。人間なんだから、音楽やりたいときもあれば、やりたくなかったときもあって、あたりまえじゃないか。今やっているこの音楽が、いいとかわるいとか、そんなこと知らない。自分が決めることと思わない。すごいものが、すごいものとして入ってくる。それだけでいい。


 小沢健二の恋愛の歌を聴いて、まったくかなう可能性のない、好きなひとのことを考えて、なぜそんな気持ちをこんなに大切に思うのか、よくわからなくなった。かなう可能性のない気持ちを、大事に大事に持っているのは、なぜなのか。なんなのか。


 それは夢でも恋でもおなじで、それが希望というものだからなんだろう。それを持ちつづけるのは、苦しい。重い。ただの負の遺産のようにしか思えないときもある。そんなの捨てて身軽になれたらいいと思ったり、そういうよけいな荷物をもっているから自分はなにもかもうまくいかないんだと思ったりする。


 希望は明るく楽しく優しいものなんかじゃなくて、そういうもので、叶うことがあるとしてもスムーズになんか、なかなかいかない。その前につらいことやめんどくさいことや、かかわりあいになりたくないようなことがいっぱいある。


 だから、希望をもつことなんて、なんの意味もないんだと思っていた。切実に願って泣いて必死に考えてもだめなことがあるなんて、つらすぎる。


 けど、叶うか叶わないかという結果だけを、私は生きているわけではなくて、たとえ誰に伝わらなくても、それがいちども表面にあらわれないまま終わっても、そういう気持ちを持った、その瞬間の輝きだけはほんもので、その時間も私は結果を生きるのと同じだけ、生きているんだと、そういうどうにもならない気持ちを持って、大事にしてもいいのだと、思った。


 泣いて踊って帰りに友達とビールをのんだ。おいしかった。人生どうしたらいいんだろうねー、結婚したいねー、でも今年はメタモルフォーゼ楽しみだねーとか言って、駅まで歩いて。


 絶望なんて、なんだ。今夜はすごく楽しくて、最高じゃないか。こんな日に「もうこんな最高のときは二度と訪れないかもしれない」なんて絶対に思わない。また、こんなすばらしいときが、今考えられうる最高のものをはるかに越えたすばらしいときが、あっさりやってくることを、私は知っている。




 あとぜんぜん関係ないけど私たちの席は関係者席の近くで、スチャダラパーの人たちが座っていたので「あなたがた、せっかくだからステージに上がって一曲やってくださいませんか」とたのみたくなったけど、帰ったら友達からメールが来てて「アニがツイッターで『NHKホールなう』ってホール前での写真まで上げてて、完全にお客さん気分でしたよ!」と書いてあったので、そうか……と思った。ブギーバックなうしてほしかったよ……。