女の敵は

 なんか姉ちゃん微妙に心配とかしていただいてアレなんですが、イタ電ひとつ、呪いのメールひとつ、そしてついでに仕事の電話ひとつ来ない(……干されてる? っていうかもともと一夜干し程度には干されてるんですけどね、いい具合に香ばしい匂いがします)平和すぎる毎日を送っております。エロ業界にはびこるひとつの定説に「名前が売れると仕事がなくなる」という説があって、名前がそこそこ売れてくると『あいつはもう無記名原稿とか書かないだろ』『細かいエロ記事とかもうやんないだろ』とみなされて仕事が来なくなるっていう現象で、私はこっそりこの現象のことを『著書ショック』と呼んでいたのですが、まさかそれ? 共著のおまけの方なのに? 実際全然売れっ子になってないのがまた泣けます、弟よ……。故郷への手紙のインクが涙でにじみます。

 さてさて『エロの敵』関連でこういう話題が。
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20061016(吉田アミさんの『エロの敵』書評)

http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/20061018(それに応えて書かれた、映画評論家で、ポルノ映画に詳しい真魚八重子さんの文章です)

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20061019(さらに上のエントリに応えて書かれた吉田アミさんの文章)

 で、そこでの本題とはズレてしまうのですが、真魚さんがちらっと触れられている、私と真魚さんの立場の違い、というようなことにかこつけて、いろいろなことを書きますね。

 真魚さんは、ロマンポルノや他社のポルノ映画について、それらがあくまでも「映画作品である」という視点のもとに書かれている方です。「エロ」として、「ズリネタ」としてのポルノという捉え方とは違います。

 私は、AVを「エロ」であり「ズリネタ」であるという視点のもとに書いています。だから「抜けないけど面白い」というものは、基本的には三流だと思っている。それは本当に「面白い」の? とすら思います。たとえ抜きやすい映像でなくとも、その女優さんを何らかの視点できちんと見つめていると思えるものは(例えばバクシーシ山下監督の作品などはそうだと思えるのですが)まだ魅力的だと感じますが、エロや女抜きで「面白い」って言われても、それがどれだけ、本当に「面白い」のか疑問に感じます。エロや女を適当に扱っていて「面白い」のなら、AVである必要はないんじゃないの? と思うのです。AVで「面白い」というのは、その面白さがセックスや女と切り離せない面白さであってこそ成立するものではないかと思っています。もっとはっきり、AVに「面白さ」なんて別に必要ではないとも言えます。優秀なズリネタであれば良いし、おそらくそれがもっとも求められているものです。

 ズリネタしか求められていない、ということをさも悲しいことのように言う人もいますが、私はそのことをまったく悲しいことだと思っていません。むしろ「セックスシーンさえ入れておけばあとは何をやってもかまわない」という作り方の方に強い怒りを感じます(ちなみに、本当に少ししか見てないんですけど、ロマンポルノの作品には特にそういう思いは感じません。映画かAVかという違いもあるし、個人的にはロマンポルノはエロいと感じます。多分、ものすごく突き抜けていればいいという基準がどこかであるのかもしれません)。蒸し返すつもりもないんですけど、松嶋クロスさんについて書いた文章の中で私が述べたのはそのことです。セックスシーンが非常におざなりだったことと、女優が主役ではないかのような撮り方をされていたことがAVとしては評価できないと感じたし、新作『MEWになったおっさん』では、女を撮るということについて大きな変化が起きていると感じたので、そのことも書いています。簡単に言うと「エロくなった」と感じました。最初からそういう視点で観ているので、作品としてのクロスファンとの間に齟齬が生じるのは当然だと思います。

 優秀なズリネタは別に語るべきものではないんじゃないか、という意見もあるでしょうが、そういう風にも思いません。優秀なズリネタを撮る監督には、面白いものを撮る監督とは違った意味での「作家性」があります。職人的な技術と言っていいかもしれませんが、エロというのは単純でありながらややこしい部分があって、単にセックス撮ってりゃエロいかというと、確かにセックス撮ってるだけでもなんとかオナニーできることはできるんですけど、やっぱりエロさの度合いというのがあるんです。ちょっと、観てるだけで息が苦しくなってくるほどエロい映像ともなれば、それは作家性だと言っていいと思う。何もわかりやすく個性的なもの、目立つものだけが「作家性」ではないと思います。作家の署名はなくても、個人のカラーは消されていても、エロが際立っていればそれはある意味で作家性があると言えるのではないでしょうか。

 で、私は自分と違う視点でポルノ(ここでは広義にエロを扱っている映像を指す意味で、ポルノという言葉を使います)を語る真魚さんのことを、嫌だとかそういう風には感じないんです。むしろ、こういう言い方は図々しいかもしれませんが、真魚さんの立場は、それはそれで「わかる」と感じます。私には私が今の立場(書くときの視点)を選んだ道すじがあって、真魚さんのような視点を選ばなかった道すじがある。自分が選ばなかったものを、誰かが選んでいるのは、非常に助かることです。自分と違う角度でものを見る人がいることで(真魚さんと私では、ポルノ映画とAVで分野が違っているので、同じものを観ているわけではないのですが、それでも)、自分がラクになるのです。

 私がなぜ今のようなAVの見方をするようになったのか、ということは、おそらく出自に関係があると思います。私はAV誌で書き始めたのがAVライターとしてのキャリアのスタートです。AV誌の読者は、当然ながら男性です。当時は、女がAV誌で書くときには大きく分けて二通りの書き方がありました。ひとつは、読者が男性であるから「女の私がこんなエッチなビデオ観ちゃいました」という書き方、もうひとつは、読者が男性であるから、読者の男性に寄った視点で書くという書き方です。

 前者の書き方で読者を楽しませるのには、実はけっこう技術が要ります。キャラ立ちしてないと難しいと思うし、ただ女がエロいこと書いてりゃいいっていうレベルを越えるにはかなりのテクニックが要ると思う。

 私は、子供の頃から性欲がありましたが、自分が男の人から性欲を向けられる、という経験が長〜いことまったくないまま過ごしました。女失格だという強い思い込みがあって、今でも女であることにかなりの劣等感があります。付け爪をしたことがない、髪を巻いたことない、美容院でアップにしたことがない、エビちゃん風ワンピを着たことがない(それはちょっと年齢的にアレですけど)などなど、場合によってはそこを突かれると泣くという劣等感のツボがいくつも残っています。残っているというか、だらけと言ってもいい。年々、ナチュラルストッキングが履けるようになるとか、ビビリながらもネイルサロンに行けるようになるとかジミな進歩は続けていますが(牛歩のごとき歩み……! それでも付け爪とかスカルプはまだ無理って何? 先日この記事を読んで「わかる……」と泣きそうになりました→http://portal.nifty.com/2006/10/04/a/)正直「女として」の意見とか求められると、よくわからない部分があるんです。「女」っていうのは、私の中では生まれた時からかわいくて素直で自然に男とつきあったりできるような人のことで、自分とは違う生き物だという認識だからです。

 女が陵辱されるエロ小説やエロマンガが大好きでしたけど、そういうものの「陵辱される側」に自分を重ねることはできませんでした。きれいで、かわいくて、肌とかスベスベしててムダ毛とか生えてなくて、お風呂から上がったあとドライヤーでしっかりブローとかしなくてもイイ感じにルーズな髪が色っぽくなるような、スカートしか履かないような、きちんとシャツとか普通に着れるような、当たり前の年齢になったら当たり前にヒールの靴とか履けて、当たり前の年齢になったら自然にエロい下着とか買える、そういう女の人と自分との間にはあまりにも大きな隔たりがあって、そういう女にまったく感情移入ができませんでした。

 そういう女になりたくないなんて思ったことは一度もないです。むしろ、なりたくてなりたくてたまらなかった。でもなれなかった当時の私は、自分の性欲を「女の性欲」として吐き出す方法なんて思いつきませんでした。きれいな女の人の性欲はきれいなもので、歓迎されるもので、自分のような女のなりそこないの性欲は自分でもイタくて醜くて吐き出せなかった。バランスが悪すぎたんです。私がただひとつできると思ったのは、自分の性欲の中の「陵辱する側に感情移入している方」、つまり男に近い方を吐き出すこと。それだけでした。

 AV誌は、本にもよりますが、自分の好みに合うエロいAVを探すためのガイドとして読む人がほとんどだと思います。私は書き始めた当時は日常的にAVを買うような生活はしていなかったし、好きなAVはあっても、AVに詳しくはなかった。そのうえ、男ではありません。自分はどうしたら男の読者に向けて書けるのかよく考えました。共通項として何かないのかと思った。あったのは、ズリネタに飢えた経験と、セックスに飢えた経験、恥ずかしさをこらえて知人にAVを買ってきてもらって、それが二本ともハズレてくやしくて泣いた経験でした。当時、中古でも二本で五千円ぐらいだったと思うけど、フリーターで月収15万にも満たない私には大金で、しかも「ダメだったから別の買ってきて」と言う勇気はなくて、本当に情けなくて悲しかった。私は、AV誌ではそういう人たちに向けて書こうと思いました。エロくないAV勧めるライターには絶対ならない、自分の大切な人(かなり気恥ずかしいのですが、私は雑誌の読者のことをそう思ってます)がエロいAVを選ぶための、良いガイドになれるようにと思って今も書いてます。志だけでいろいろ伴ってないのはわかってますが、書き手が男であろうと女であろうと、良いレビューが書けて、それに読者が共感してくれることがあれば、そのとき書き手は読者と初めて同じ立ち位置に立てるのだと思っている。

 AV誌で書くようになったことは、なんというか、ものすごい喜びでした。誰にも話したことのない性欲を分かち合える相手を、私はビデオを観ている読者の男の人の間に見いだしていたと思います。「AVの話ならできる」「AVを通してならセックスの話ができる」ということは、私にとって救いだった。とくに同性とそういう話をしたいとは思ったことがないし、今も特に同性と、とは思いません。もとから「女」な人の性欲は、私には理解できない。「AVって男は喜んで観てるけどあれって何が面白いの?」(面白いとかそういうもんじゃねえよ!)または「AVってご都合主義で面白いよね〜」(面白くねーよ! そんな設定でもこっちは信じようと精一杯なんだよ!)って言う「女」のことは、よくわからないし、自分と同じ種類だと思えません。

 「女の視点でAV観てるんですよね」と言われる時に私が感じるものすごい違和感については、私はこういう自分の自意識の屈折の仕方を抜きにしては語れません。「女がAV観てわかるわけないだろ、だって女なんだから」という言葉もよく言われます。私は「女」としての視点をウリにAV誌でのレビューを書いたことは、ありません。今も名前を出さない無記名の原稿を書いていますし、そういう仕事はもっと欲しいくらいです(さりげなく営業してます。ええ、普通のレビューの仕事ください)。男の読者と共感したい、男の読者とエロについての気持ちをわかちあいたいと思って仕事してて、それを「女」であることで台無しにされる経験は、たくさんあります。女の名前で書いているだけで読んでもくれない人もいる。私でさえ女のライターに対して不信感がある(どーせAVなんか好きじゃないのに小遣い稼ぎに書いてんだろ、とか思いますよ。たまにそういう人もいますから。今となってはかなり少数ですけど)んですから、それはそれで当然だと思うしかない。

 女として失格で、女として普通にできなくて、鬱屈した性欲とか自意識があって、それを誰かと共有できるかもしれないと思った瞬間に「女にはわからない」と言われるのは、私には「死ね」と言われているのと同じことです。まともにちゃんとした「女」でもなければ、「男」にもなれず、女の世界からも男の世界からもはじき出されたように感じる。本田透さんの『電波男』を読んで共感して泣いていたらオビに『負け犬女は萌えないゴミ!m9(^Д^)プギャーッ』って書いてあった時みたいな感じって言ったらいいんでしょうか。恋愛市場から閉め出されて辛酸を舐めた経験があっても、キモメン王国には入れてもらえない。それとよく似た何かを感じます(本田さんには何の恨みもないです。キモメン王国に入れてもらえなくても本田さんは好きです)。

 「女だから」という言葉は、私には呪いのようなものです。私はカンパニー松尾監督が好きですが、そのことすら「女だから普通のズリネタAVじゃなくて、作家性の強い松尾とかが好きなんだ」と言われる。カンパニー松尾のセックスのやり方が好きで、Tバックズラしてやるあれが好きなのに、そういうことはあっさりとこぼれ落ちてしまう。自分のサイト(ここと、この前の『NO! NO! NO!』というサイト)に書くようになり、レビューでは書けない長文をネットに書くようになってからそれは余計に強くなりました。AV誌で書く時の視点と、ネットで書く時の視点は、私は少し違います。読んでくれている人が違うからです。でも私がAV誌で何十本、何百本ズリネタAVのレビューを真剣に書いていようと、ネットで一本カンパニー松尾の作品のレビューを書くだけで「ほらみろ、女だから、やっぱりな」と言われる。たぶん、一回書けば十年以上言われるんじゃないかと思う。さらに「女だからトクしてる」とも言われる。女でエロやってれば目立つと。もう二重苦、三重苦です。男だったらよかったのに、という言葉を必死で飲み込んで飲み込んで仕事をしているときに「トクしてる」と言われても。トクしたいわけじゃない、好きで女に生まれたわけじゃない、と思う。私の場合は、一方でちゃんとした女に憧れて、こわごわ化粧品を買って、キョドりながらギャル服の店とかに行って、そのこともとても怖くて恥ずかしくてたまらないのに、一方では女であることのせいでつまづいて、もうわけがわからなくなってくるんです。「女になりたい」という気持ちと「女になんか生まれたせいで」という気持ちに引き裂かれる。コンプレックスと戦って手に入れようとしている自分の像が、片方で足を引っ張る。自分がなりたいと思っている自分の像を肯定できないという矛盾があります。

 逃げられるものならとっくにそうしているし、男のペンネームを使うとか、男らしい容姿にするとか(坊主とかね。昔したことありますが)で解決できる問題ならそうしてます。確かにそういう手段もあったけど、それじゃどうにもならない。「女だから」という呪いをごまかしただけでは、どうにもならないんです。私はこの呪いから「いっそ女ってことを武器にして勝ち上がる」という方法で逃れることを望んでいません。それでは呪いは解けない。男女平等とかいうことですらありません。私は、自分が自分であり続けること、望んでいた自分の像を両方とも追いつづけることでこの呪いから逃れたいと思う。引き裂かれるのが先か、逃れるのが先か、それとも逃げてしまうか、微妙なところではありますが。

 というような自分語り系のことを私は書くことがありますが、真魚さんはそういう人ではない、ということもつけ加えておきましょう。真魚さんはすてきな人です。私のような暑苦しい人ではありません……。