ダーク週間 暗闇の中の子供・その3

★続きです。


 カンパニー松尾監督の、最高水準にいやらしい作品を観ると泣けてくる、ということを、私は長い間松尾さんに対するファン心理から来る嫉妬だと思っていました。松尾さんにいやらしいセックスをしてもらえる女がうらやましいから苦しいんだと思っていたんですね。そういう、ファンにありがちな心理だと。けど、最近になって、どうもそうではないということに気がついてきたのです。今回の、この二本を続けて観たときの苦しさは、ちょっとそういうものではなかった。

 思えば、AVを観ていて苦しくて泣けてくるときに頭の中に浮かぶのは、松尾さんの顔ではありませんでした。書くのも恥ずかしいですけど浮かんでくるのはそのときの恋人の顔や、好きな相手の顔など。です。

 映っている女のことを、いやらしいなぁと思えば思うほど、「自分が男だったら、この女はたまらない」と思えば思うほど、女としての自分が死んでゆくように感じます。だって、自分が男だったら、映っているこの女ほど、自分のことを良くは思えない。やりたくてやりたくて我慢できないほど欲情するかと言ったら、しません。つきあっていても? 愛し合っていても? それと欲情は、別でしょう。知っていて好きな女よりも、まったく知らない女の方に激しく無責任に欲情する瞬間は、あります。

 私は、松尾さんの作品だけでなく、堀内さんの作品を観るのもきつかった。私自身には少女時代から性欲がありました。でも、私には、堀内さんの作品にでてくるあずきちゃんのような、可愛い少女時代はありません。少女時代には、おとなの、峰不二子みたいなグラマーな女になりたいと思っていた。現実の自分がそこからどんなに離れていても「おとなになったら」という夢は持てた。二十歳ぐらいになって、それはあり得ない夢だと気づいたときにはもう遅く、可愛い少女時代もなく、グラマーなおとなの時代もないまま、自分は生きていくしかないと気づいたとき私には何にもなかった。女としての知恵や、おしゃれをする知識も、何も。

 自分の好きな女に、理想の女になる。という意味なら、ある程度のことは可能でしょう。おっぱいなんか入れればいい。顔なんかいじればいい。日サロで焼いて、プラセンタ注射打って、おくればせながらむりやり憧れのギャルになることだって不可能ではない。なのに、なぜ、私はそうできないのか。「似合わない」なんていうのは理由になりません。似合おうが似合うまいが、心の底から好きな恰好をして、好きに装っている人の姿は、一種すがすがしいものになるでしょう。それで気が済むなら、やればいいのです。ブリテリ表紙の「egg」を見て、泣くほどうらやましいと思ってるんだったら、そのときにさっさと焼いて、目の周り真っ白&真っ青に塗ればよかったんです。

 ギャルにまではなれなかったけど、それなりにやることはやって、だんだん男に間違えられなくなって、バニーガールのアルバイトなんていう荒療治もやって、だんだん少しずつ、まともな女のようになってきた。と思っていても、どこかに根深く女になりきれない自分が残っています。

 秋に、旅先でネイルサロンに行きました。私は、普段、ネイルサロンに行く習慣がありません。習慣がないというか、そんな女の子らしい場所にはなかなか行けなかった。旅先で浮かれてたんでしょう。短い爪を塗ってもらっていたら、奥の棚にきれいなラインストーンのついた小さな金属のボードが見えた。「あれ何ですか? 爪切りかな?」と聞いたら、「うちでは爪切りは爪をいためるのでおすすめしてません。あれはカンオープナーです」と言われた。私は、爪切りで爪を切っていたし、ひとり暮らしで、炊事も洗濯も、こういう風にキーを打つ仕事も自分でやらなくてはならないから、付け爪をしたことは一度もなくて、そんなことを考えている間に隣りの席に座っていた20歳ぐらいの女の子が席を立って、ネイリストのお姉さんに「そのヴィトン、可愛いですね。新作ですか?」と聞かれ、「ええ、いただきものなんです」とにっこり微笑んで帰っていった。彼女の爪はスカルプチュアで長く、ラインストーンがついていて、綺麗だった。

 自分の爪で缶ジュースが開けられないような、そんな女に憧れなかったことは一度もない。私は自分で買った、ヴィトンでもシャネルでもグッチでもないバッグとお土産を両手に下げて、スニーカーを履いていた。東京に帰って、せめて地爪を伸ばし始めた。爪切りは使わず、伸びたらやすりで削って、自分できれいに塗って、ラインストーンもつけた。出かけて帰ってきたら、中指の爪が折れていた。

 自分で働いて、稼いで、ヴィトンなんて貰ったことも、買ったこともない。付け爪をしたこともない。どうして、こんな人生なんだろう。髪を巻いたこともないし、長いブーツも今年になるまで履いたことがなかった。こんなじゃなくて、キャバクラ嬢みたいな女の子に生まれたかった。でもそれなりにやったんだけどね。短いスカートも履いたし、ペルラの下着も着けたし、ビキニも着たし、おへそにピアスも入れた。それでもやり残したことが泣きたいほど山積みになったまま、私は今年30歳になった。キャバ嬢はもう完全に無理だし、日焼けもキツい。何万円も出して美容液買ってエステに行っても限界がある。

 私がAVを観ていて傷つくのは、嫉妬するからじゃない。自分に、嫉妬する資格すらないからだ。別に化粧してなくたって爪塗ってなくたっていいよ、それで胸はれるならそれで全然かまわない。どれだけいじくるか、ということじゃないんだ。私は、それでいいと思ってないくせに何もしてない。本気で女を、自分自身をやってなくて、そういうことから大人になった今でも逃げ続けている。そんなの、誰に男を取られても、何の文句も言えないでしょう。

 自分が、自分としてしか生きられないのは、私には今でも苦痛です。私は、正妻がうらやましい。愛人がうらやましい。彼女が、浮気相手が、セックスフレンドが、ゆきずりの相手が、風俗嬢が、初恋の人が、純愛の相手が、うらやましい。

 一人の女は、たったひとりの男の欲望すら、独り占めにすることはできない。きみが好きだと言ったそばから穂花の唇に欲情し、原千尋の脚に欲情し、米倉夏弥の腰のラインに欲情し、女子アナの胸元をガン見してたと思ったら長澤まさみに恋をしていたりする。無理だよ、無理。勝てないって。

 でも、負けるときは胸をはって負けたい。やるだけやったと思って、さっぱり負けたい。たとえいくつになっても、そういうふうに生きることはできるはずなんだ。私は、たとえ自分が貧乳の30歳でも、長澤まさみとちゃんと男をとりあいたいし、ちゃんとけんかをしたい。不戦敗で逃げるのはいやだ。けんかったってつかみあいじゃないぜ。ラブメールから会話から食事からふとした仕草からセックスまでのすべてを駆使して、男をひっぱりあって、戦うんだぜ、女は。

 そういうことを思いながら、心の中では、私の劣等感のかたまりがずっと泣いている。爪の折れた中指にキスしてくれと泣きながら叫ぶ。正妻も愛人も彼女も浮気相手もセックスフレンドもゆきずりの相手も風俗嬢も純愛も全部を兼ねて溺愛してくれと、年を取ることも、容姿が変わっていくことも、一人きりで生きて、一人きりで死んでいくことも、怖がらなくていいくらいにがんじがらめにしてくれと叫んでいる。そうされなければ、私の劣等感は成仏できないのでしょう。でも本当は、そうされたとしても成仏できない。自分の劣等感は、他人にはどうすることもできない。暗闇の中で叫び続ける小さな子供のような劣等感を、他人が救うことはできないんです。

 私は、いつか爪の折れた中指で、劣等感という名前の、小さな子供の手をとれるのでしょうか。その子供の手を引いて、光のみえる方角に歩き出すことができるのでしょうか。憎い、憎い、殺したいほど憎い子供の手をとって。目をそらし続けた子供の手をとって。醜い、醜い、子供の。ほっておくことはできないんだ。手を触れなければ殺すことも、できない。そんな子供を、愛情を注いで、育てなおすことができるだろうか。

 AVを観ても、泣かないでいられるようになるだろうか。苦しくなく、なれるだろうか。私は目をとじたままとりあえず声のするほうにやみくもに手を、伸ばす。