二次元と三次元の間

mamiamamiya2007-06-16

(写真・フローチャートでこんなこと言われても……)


★「憑神」の予告CMを見るたびに「米米CLUBにこんな底力がまだ残っていたなんて……」と思ってしまう1976年生まれ世代の私ですが皆さんお元気でしょうか。


★そして周りの人々が次々と「ビリーのブートキャンプ」の門下に下っているのですが、今のうちに入隊しといた方がいいんでしょうか。姉ちゃんの減量法は地味すぎて(食事の量を減らす・水をたくさん飲む・おやつは蒟蒻畑Lightのみ・自宅で腹筋&ヨガ数ポーズ……炭水化物すら抜いてません!)ぜんぜん減らないんですけど……。400グラムほどの変化しか見られませんが、皆さんはお元気でしょうか! 吉田アミが甘いものを食べまくっている画像をアップしていて発狂しそうになりました(愛しさで)。あ〜、早く本の発売日になんないかな〜。出版記念イベントも行くよ! いやがらせのように!(もはやネットストーカーでなくリアルストーカーに……)


★あと、こちらのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20070614)を読んでいて思ったのですが、AVで言うならオーロラプロジェクトで人気が出てる女優はみんなサークルクラッシャーっぽいです。昨日ちょっと仕事関係で久しぶりに高井桃の「Gカップの誘惑」を見てて思いました。高井桃……サークラっぽい!(とくに同性に嫌われそうなとこが……)


★ちょっと仕事や、他の用事がたてこんで珍しく忙しい一週間を過ごしました。あまり眠れなかったり、一度にいろんな用事が押し寄せて混乱したり、やりたい仕事が後回しになったりして、体力的にも精神的にもテンパり気味の一週間だったのですが、重いカバンを肩から下げて汗だくになりながら地下鉄の階段を上っていくとき、帰ってひと息つく間もなく次の仕事にとりかかるとき、私の頭に浮かんでいたのは、なんと「あの三橋だって投げてんだから」という言葉でした。


 三橋というのは、前々回のエントリでも書いた『おおきく振りかぶって』という野球マンガの主人公です。三橋は、オドオドビクビクしていて、自分に自信がなく、野球が好きなのにものすごく怖くて、怖くて、びびっている。その三橋が、阿部という捕手に出会って、投げられるようになっていく。というか、全身全霊で投げて、投げて、初めて野球が楽しいと思えるようになるんです。


 あんな、コンプレックスの塊みたいな高校生の三橋でさえ、失敗が許されない試合の場で、緊張やプレッシャーと戦いながら投げてんだから、という意味で、私は「あの三橋だって投げてんだから」と思っていて、これは大槻ケンヂが忙しいときに「こんな忙しさ……手塚先生の忙しさに比べたら!」と思ってがんばるのと同じようなことなのですが、手塚治虫は実在し、本当に膨大な仕事量をこなしていた人であるのに対し、三橋は「マンガの中の登場人物」なんですよね。


 私ももう三十路ですから、三橋がマンガの登場人物であることぐらいわかってます。二次元と三次元をごっちゃには、してません。「三橋のモデルがどっかにいるだろう」とも思ってない。けど、「三橋だって投げてんだから、私もがんばろう」と思うとき、三橋は私にとって、確かに「いる」んです。「我思う、ゆえに我あり」と似たようなもんですが、「我思う、ゆえに三橋あり」なんですね。


 さる6月5日、朝日カルチャーセンターの「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生』へ」という、伊藤剛さんと東浩紀さんの講演を聴きに行ったのですが、その中で伊藤さんが高河ゆん『源氏』6巻のあとがき(『レシピ』という、マンガで描かれたあとがきです)を紹介し、その中で高河ゆんが「本当の人間を描きたい」と描いて(書いて)いることに触れ、その「本当の人間」とは何なのか? というところから「マンガや文学で人間を描くとはどういうことを意味するのか」「キャラクターの定義とは何なのか」という方向へ議論が進んでいったのですが(そして、私は伊藤さんが高河ゆんの話をした、ということがすごく嬉しかったのですが)、「本当の人間を描くこととは何か」という議論とは、まったく別の感情的な次元で、私は高河ゆんが「本当の人間」を描いていると思っているし、また、ひぐちアサも「本当の人間」を描いている、と思っているんです。


 私は年に数回、いまだに『アーシアン』を読み返し、『LOVELESS』の発売日を手帳に書き込む(初版特典の別冊付きを入手したいから)程度には高河ゆんのファンなのですが、中学生のときに読んでいて、今も読んでいる主なマンガは、高河ゆんと、西炯子と、藤田貴美です。


 高河ゆんを初めて読んだ中学生の頃、私は自分が女だと思えなくて男ものの服を着たりしていた。やおい好きや、アニメ、マンガ好きであることを「女のコっぽくなくてもいい」という逃げ口上にして、まぁ、「オタクだから可愛くなくていい」と思っていたわけですね。


 でも、高河ゆんは、そういう逃げ方はしなかった。大好きなやおいを描き、マンガを描き、描きながら恋愛をし、結婚をし、子供を産んだ。私は、それは高河ゆんという人が「本当の人間」であろうとしたからだと思う。別に恋愛や結婚や出産が「人間らしい」という意味ではなくて、「自分がしたいと思っていることから絶対に目をそらさない」という意味において、です。高河ゆんは、多分、怖いことから逃げずに本当のことを掴もうとしたのだと、かってに私は、思います。


 木曜日を待って、夜中に『おおきく振りかぶって』のアニメを見るときの気持ちを、どう説明したらいいのか、私にはよくわかりません。モモカン(巨乳の野球監督)の乳の揺れがバッチリアニメという特性を活かして表現されていることとかも見逃さずに観てますけど、主に観ているのは、三橋と阿部。です。やおい的な観点から観ても十分楽しいわけですが、三橋と阿部を観ていて思うのは、「人間は簡単に自分は一人ぼっちだとか孤独だとか思ってはいけない」ということです。忙しくてテンパると、よく、たった一人で誰からもわかってもらえずに苦労してるような卑屈な気分になってくるんですね。大した苦労でもないくせに。確かに孤独というのは、絶対にあるんだけど、そうじゃない部分も絶対にある。


 私は今の仕事をしていて、将来どんなふうになるかなんてわからないし、安定した収入や、安定した生活とは無縁です。家族は離れたところにしかいないし、結婚も同棲もしてない。パトロンがいるわけでもない。けど「三橋だって投げてんだから」と思うと、ああ、仕事、がんばらないと。って思うわけです。これが希望でなくて、なんなんでしょうか。


 昔、「電波男」を読んだときに、一カ所だけ賛同できなかったのは「二次元のキャラを恋人にする」という点で、その理由は「だって二次元のキャラは、こっちに何も働きかけてくれないじゃん」と思ったからだったのですが、もう今やその論理は私の中では成立しなくなってきてます。だって三橋は私を現に「励ましている」わけで。あぁ……私も二次元で恋人探そうかな……。阿部とか? いや阿部は三橋のものだし(え?)、実は本気で狙っているのは『フラワー・オブ・ライフ』の辻くんですよ! フリーだし! メガネだし!(最近「ベッドで眼鏡を取らないで」という替え歌を気がついたらよく口ずさんでいます)超好み……。すでに辻だけ「くん付け」しているところがもう危険ですね。阿部は呼び捨てなのに、辻はなんかちょっとリアルに感じてるから呼び捨てにできないわけか! 「もし辻にここ読まれたときに呼び捨てだと感じ悪いから……」とか思ってるわけか! 読まねえよ! ばーかばーか! 本気で「辻くん年上好きみたいだし」とか思ってる俺死ね! むだじにしろ! と思いました。