★清原の引退試合がテレビ放送されないってどういうこと? てっきり放送されるものだと思い込んで手帳に「清原引退」と書き込んだ私の立場はいったい……。『ビッグダディ6』もそりゃ観たいですけど、清原と長渕はもっと観たいのに……。気合い入れて新幹線とチケットを手配しなきゃ観れない試合だったわけですね。でもほんと、なんで? 日本野球史に残る引退じゃないの? まぁ、私が観たいのは日本でセクシーだと思う男一位と二位が一同に会する貴重な機会だからという不純な動機だからまだしかたないけど……。清原と長渕の男臭いセクシービーム浴びながら感動の涙を流したいよ!(野球ファンのみなさんすみません)


★私は残念ながらこのイベント、行ってないんですけど(自宅で電話取材をしていたよ)、ここに書かれていることが、私が佐々木敦さんという人を信用している理由そのもののような気がしました。

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 私は、自分は佐々木さんとも、吉田アミつんとも、まったく違うタイプの人間だと思っているけど、「自分とは違う」だけで、ふたりの言ってることや進む方向を間違ってるとか変だとかは思わない。そういう態度ってときには他人事的で冷たいように見えるかもしれないけど、「自分とは違」っても親近感やエールを送る気持ちというのはあるんですね。私が『nu』を面白いと思うのは、それが自分にはわからない感覚で成り立っているからで、そういう感じなんです。そういうふうに、自分とは違う人たちが自分の周りに点在していて、それぞれがそれぞれに好きなようにやっていることのほうが、自分と同じ方向に進む人たちと徒党を組んで進むということより、ずっと健全だと思う。


 私は「信者」になりやすいタイプだけど、非常に飽きっぽいし、たとえどれだけ好きな人であっても、そのときの自分の状態によってはその人の作品に触れたくないこともあります。だから、もし自分に「信者」のような人が現れたら、それはそれでありがたいことだけど、その人がずっと自分の「信者」であり続けるという風には思わない。私も変わるし、変わったときに離れていく人もいるでしょう。変わらなくても、観ている側が「変わった」と感じて離れていく場合もある(こっちのほうが世の中ではよくあることかもしれない)。それは信者じゃなくても、普通の人間関係でも同じことかもしれないけど。誤解や偏見や過剰な期待で好かれたり、嫌われたり。「好き」や「嫌い」には、いろんな感情が混じり込む余地がありますからね。その人と同一化したいとか、その人の才能を手に入れたいとか、嫉妬、羨望、独占欲、憎んでいるから好きだ、という反転すらあり得ます。恋愛もね。ながく執着している人がいると、なぜその人にそんなに執着してしまうのか、ずっと考えてゆくと、自分の中に理由があったりする。その人だけが自分を支えてくれたとか、理解してくれたとか。その人だけが、自分の周りでかぎりなく自由な考えを持った人に見えるとか。そういう感情をどう処理するかについて、私は明確な答えを持たないけど、反射的に感じる好感や嫌悪感の原因をたどっていくと、本当は真逆の感情を持っていることも、よくあります。こないだピーコの本を読んでいたら「私、あの人の悪口なんか言ってないわよ。ただ『嫌いッ!』って言ってるだけ!」という一節が出てきて、かなり明快で気持ちいいなぁと思ったのですが(笑)、この『嫌いッ!』なんかも、何かのきっかけで『好き』に転ずることがありそうに思えます。「好き」と「嫌い」は限りなく近くて、「好き」の反対は「嫌い」じゃなく、「無関心」だと思う。「好き」も「嫌い」も、ピーコさんのようにさっぱりいければいいですね。