『風のガーデン』

★ときどきAVの脚本を書かせていただいているのですが、監督さんにすすめられて『風のガーデン』観ました。すごい。何がすごいって、どの人物にも入り込んでしまうんですよ、観ていると。「私の歌がもし街で流れたら」と夢を語る人の気持ち、癌であることを隠して日常を生きようとする人の気持ち、その友人の気持ち、その全部に入り込んでしまう。緒方拳の遺作ということで話題になっているドラマでもありますが、観ていていろんなことを考えてしまった。


 表現をする人というのは、自分のやりたいことをやっているだけで、その出発点はものすごくエゴイスティックなもので、たぶんこのドラマの脚本を書いている倉本聰だって、そうなんだ。自分の書きたいこと、自分の作りたいドラマを書いているはずなんだ。だけどそれが人の心を打つ以上、結果としてそれは「人のため」になっていて、まるで最初から私や、ほかの大勢の、このドラマを観るのを楽しみにしている人のために作られているかのように感じてしまう。


 「誰かのために」作ろうと思っても、半端な気持ちではそれは結局偽善にしかならなくて、エゴのかたまりであっても、すぐれた表現というのは結果として「誰かのために」なってしまう。誰かが、誰かが自分のためにつくったものが他人を感動させるというのは、不思議なことのようでもあるけど、全然不思議じゃないことのようにも思う。芸術家だろうが、脚本家だろうが、何だろうが、おなじ人間だから、どこかで同じ気持ちを味わっていたり、同じような気持ちを想像できたり、するんじゃないか。『風のガーデン』には、そういう気持ちを共有できる登場人物が多すぎる。一人一人のキャラクターが嘘じゃなくて、私はそれを「キャラクターに愛情を持って書いているから」だと、言いたくない。倉本聰に技術があって、キャラクターを本物に見せる、役柄をリアリティを持って見せる技術があるからだと言いたい。技術があるから、本物に見えるのだし、本物の人間に見えるからこそ、それが「愛情」のように見えるのだ。技術と、おそらくかなりの量の綿密な取材、そういった努力を抜きにこんなものが「愛情」だけで書けるわけじゃないと思う。


 磨き抜かれ、悩んで考え抜かれたエゴや、素晴らしい技術、重ねられた努力というものは、ときに愛情によく似ていて、似すぎていてそれはほとんど同じものだと私は思う。私がある種の「芸術」と呼ばれるものに触れて泣いてしまうのは、それがほとんど愛情の原型のように見えるからだ。目に見えないものが目に見えたような気がしたり、聴こえないはずのものが聴こえたような気がしたり、触れられないはずのものに触れられた気がしたり、するからだ。


 『風のガーデン』が扱う問題は「生と死」だ。倉本聰富良野で癌で生と死。自分には関係ないドラマだと私だって思ってた。十代の頃は、二十歳までの人生しか見えなかったし、二十代の頃は三十歳までの人生しか見えなかった。それが変わったのは、たぶん、吉本隆明の講演を聴いてからだと思う。車椅子に座った、知の巨人が、わざわざ人前に出てきて、3時間も話して、それでも話し足りなくて続編をやるという、そういうことがあって、私はそのことにものすごく感動した。だって別に、私なんかにそういう大事なことを、おおげさな言い方をすれば命がけで伝えなくたっていいわけじゃないですか。吉本隆明のすごさなんて、頭のいい人たちはもうわかっているでしょう。吉本隆明が、今になって、今までずっと考え続けてきたことを「話す」という形で伝えようとしたこと、そしてその「伝えて」くれたことが、とてつもなくシンプルですごい言葉だったことが、私のくだらなくて俗っぽい心のどこかに刺さって、ばかみたいだけど私は、吉本隆明にあこがれたのだと思う。あんな風に、ことばを発せたらどんなにいいかと思った。そのために何をすればいいのかなんて、わからない。書こうとしても書けないこともあるし、思うようにできないこともいっぱいある。


 「○○したかったんだよね」「○○してみたいんだよね」と、口にする人生を、少しだけやめてみようと思った。行ってみたいところには、とりあえず行ってみる。使ってみたいものは、とりあえず買ってみる。つまんないことだけど、いつまでも「○○してみたい」と言い続けるよりはいい。三十代になったから、体力のあるうちにという気持ちが少しある。四十代、五十代、そんな先まで考えられないけど、三十五歳までに今やりたいことは全部やりきりたいと思うのは、少しだけどこかで、生きるということを考え始めたからじゃないだろうか。自分なんか、生きててもしょうがないつまんない人間だと思うこともよくある。死にたくなることもある。けど、こんな自分のまま生きているのはいやなんだよ。吉本隆明になれるなんて思ってない。だけど、少しは「ほんとうの生き方」や「ほんとうの言葉」に、触ってみたいじゃないか。とにかくあんなものを見せられて、憧れないわけには、いかないよ。だめなこといっぱいあるけどさぁ、しょうがないじゃない。前を向くしか、どうにも、しようがないじゃないか。


 みんな文学フリマに向けてがんばっているね。私は宮島に行ってきましたよ。ずっと「いつか行きたい」と思ってたけど、いつでも行けることに気づいて、ぱっと行ってきたら、面白かった。鳥居も見たけど、なんと生まれて初めて、砂曼荼羅を見ることができて、ぞくぞく鳥肌が立った(これは厳島神社ではなく、近くにある大聖院という、密教のお寺にあるのです)。もみじまんじゅうを揚げた「揚げもみじ」というのにはまってしまって何度も食べに行ってしまった……。おいしかったです。おいしいものを食べすぎて、自炊する気が失せている。なんとかご飯は炊いている。ふうっ、穴子めし食べたいなぁ。