クローゼット・クローゼット

 昔は、デートのために服を買っていた。一ヶ月に一度ぐらいしか会えなかったし、彼の服の好みは私が普段着ている感じとは少し違っていたから、彼好みの服を買わねばならなかった。いや、「買わねばならない」なんてことはないのにそう思い込んでいて、その頃の買い物は、必死だった。セクシーで、安っぽくなくて、でも買える値段で、私に似合って、という服を見つけるのはなかなか難しく、見つかればお金がなくても即買いした。でも一枚見つけても、それに合う服や靴がなかったり、コートがなかったりした。デートの直前にkate spadeで靴を見て、自分のサイズを他店から取り寄せてもらったのにその靴がすごく硬くて全然足に合わなくて、結局買わず、申し訳なくて代わりに財布を買ったりもした。


 彼はセンスの良い人だったから、否定されることが怖かった。服を否定されるのは、おおげさなようだけどある意味人格の一部を否定されるのと同じことだ。センスを否定されるわけだから。脱オタファッションとか、そういうものが話題になるときに重要なポイントはそこだと思う。自分の今までのセンスを捨てることや、新しいものを着ることには、ものすごい勇気が要るはずだ。


 当時の自分の買い物は、半分以上「見栄」だったと思う。付き合っていた相手に良く見られたいっていう気持ちだけじゃなくて、周りの人みんな、店の人にまで「良く見られたい」と思っていたんじゃないだろうか。kate spadeは私にとって、そんな簡単に買い物できるお値段の店じゃない。かわいいし好きだけど、パッと見かけた財布を買っちゃうような場所じゃない。でも買っちゃう。そのときに私が欲しかったのは財布じゃなくて「kate spadeを簡単に買える自分」だ。「これがあればカッコ良く見えるかも」「セクシーっぽく見えるかも」「仕事デキるっぽく見えるかも」っていうのがあれば片っ端から買ってて、結局そういうものは自分のもともとの持ってる服にはないものだから、それに合わせるためにさらに他のものを買わなきゃならなかったり、何にも考えないで買ってるから意外と着てみると動きづらかったり、サイズが微妙に合ってなかったり、仕事用に買ったはずのバッグにものが全然入らなかったりした。


 そういうときの、買うときの気分は、もう何かに急かされて、脅迫されているような感じだった。「これを買わなきゃ素敵になれない」「これを買わなきゃ、今までのださい自分のままだ」っていう必死な気持ち。いつも自分のクローゼットには大量に「足りない」ものがあって「スカートも、トップスも、バッグも、靴も、あのニットの下に合わせる服も、あのドレスの上に合わせるはおりものも、ピアスとネックレスで揃えられるアクセサリーも、買わなきゃ」と思い込んでいて、急かされるようにものを買ってきた。


 街中ですれ違う人が着ている服が素敵だったら、すぐそれに似たものを探したし、雑誌にかわいいワンピースが載っていたら、その店まで行ったりした。そんな風だからいつも何かが欲しかったし「買わなきゃいけない」と思っていた。自分のクローゼットには、いつも何かが欠けていた。買って満足するのは一瞬で、次は「これに合わせる○○も買わないと」「バッグがこれなら財布もこれぐらいの値段のを買わないと」とか、そういう連鎖が続いていた。


 ばかみたいだけど、「いい女」になりたかったし、「いい女」に見られたかったんだと思う。昔中村うさぎさんに取材させてもらったとき、ブランド買い時代のことを聞くと中村さんは「今思うとバカみたいだけど、私、あのときセレブになりたかったんだと思うんだよね〜」と笑っていた。私はその気持ち、ちょっとだけわかる。いろんなシチュエーションで、いつでも素敵な装いができる人に、私だってなりたかったからだ。金持ちに見られたかったし、センスある人に見られたかった。いつも新しい服、いつも流行の服、いつも女らしく素敵な服を身につけていたかった。だからがっつくように買い物してたし、いつも飢えていて、買っても買っても足りなかった。狭い家の狭い収納はパンパン。もう入らないのに、それでも「着るものがない!」と毎日のように思っていた。バッグが気に入らない、靴が合わない、スカートがださい、バランス悪い。何を着ても「間に合わせ」って感じで、いつも落ち着かない気分だった。早く家に帰りたいとばかり思っていた。


 友達に、いつも、手持ちの服をうまく合わせて着ている人がいる。お金持ちじゃないけど、丁寧に選んだものを買って、大事に使ってるのがわかる。彼女に買われたものは幸せだと思う。私も、そんなふうに服を着てみたいと思った。彼女は何年も同じ服を着てても、着方を変えてるから新鮮だし、古く見えない。何より着ることを、あるものでどう組み合わせるかを楽しんでいる感じがして、そのことが自分のさもしい根性に比べてひどく豊かに思えた。ひとつひとつのものが貴重で、大切なもののように、輝いて見える。それに比べて自分は、ひとつひとつのものが、値段はそこそこでも死んでるみたいに思えた。


 自分のクローゼットを生き返らせて、血液のようにいきいきと服を循環させるためには、まずは買うことじゃなくて捨てることだった。「使うかも」と思いながら何年も使ってないもの、服自体は素敵だけど似合わなくて、着たら落ち着かない気分になる服、完全に飽きちゃった服、使いづらくて持たないバッグ、片付けるとすっかり忘れていた服がいっぱいあった。入りきれないのをむりやり詰め込んだ結果、気に入った服もくしゃくしゃになっていたり、クリーニングに出すのが恥ずかしいくらいひどい状態になっているものもあった。ちゃんとした木のハンガーをいっぱい買ってきて、それにクリーニングした服をかけ直した。


 覚えていられる量以上の服を持っても、組み合わせることなんてできない。だって忘れてるんだもん。私は自分の許容量を越える服はもう、持たないことにした。まだ新しいものはリサイクルショップに送り、ぼろぼろなのは捨てた。どこに入ってたんだというくらいの量のものが出てきた。選ぶ基準は、それを着るとき自分の気分が落ち着くかどうか。少しでもいやな感じがしたら、きっと着ない。処分した後、それらの服を思い出して「あ〜、処分しなきゃ良かった」と思ったことは一度もない。むしろときどき思い出しては「ああ、あれがたんすに入ってたときは『着なきゃ、着なきゃ』と思ってむりやり着てたから落ち着かない気分だったんだな〜」と思う。「全然着てない、着なきゃ。でもあんまこれともこれとも合わない。どうしよう」という「着たくないのに着ないともったいない服」が入ってると、そういうおかしなことになる。気分に合わない服が入ってないたんすは、開いても「着なきゃいけない服」なんてない。「全然着てない服」もない。「着たい服」と「よく着てる服」、「これから着たい服」があるだけだ。


 いずれすぐに処分するようなものを買わないためには、なんでもかんでも「要る」と思うのをやめた。「これとこれに合わせるには、グレーのニットが要る!」とか。思って、たとえ条件通りのものが見つかったとしても、強烈に「欲しい」と思わなかったら買わない。どうせそういう間に合わせのものはイヤになるに決まってるからだ。特別に気に入らなかったら、買う必要がない。グレーのニットなんて東京にはどれだけでもある。もっと気に入ったのが見つかるまではほっとけばいいのだ。焦って買わなくてもいい。他にも着る服はあるんだし。安いからって飛びつくのもやめた。安いものなんていくらでもある。本当に気に入ってるかどうかが大事なんだ。似合わないものは、安くてもいらないよ。


 何かあるとすぐものを買うのもやめた。前は「イベントがある」「結婚式がある」「旅行に行く」「野外フェスに行く」となるともう「服買わなきゃ!」だった。おちつけ自分よ、フェスとかいってもジーンズは持ってるし、買わなきゃいけないものなんてそんなないよ。レインコートぐらい。旅行だって今持ってる靴で行けるでしょう。大きなバッグもある。余計なものを買うより、旅先でおいしいものを食べたり、旅先でみつけたかわいいものを買ったりしたほうがいいんじゃない? イベントってそんないつも新しい服着なきゃいけないの? 芸能人じゃあるまいし、気に入ったドレスがあれば何度でも着ればいいじゃない。たぶん「また同じ服着てる」って思われるのが恥ずかしかったんだよね〜。ほんとばかみたい。平民なのに自意識だけセレブみたいになっちゃってさ、も〜ファッション誌にどこまで踊らされてんだって感じですよ。三十路なのになさけない……。なぁ〜にが「カルティエのタンク・フランセーズ欲しいな〜」だっつーの! 年収考えろ! も〜やめやめ! タンク・フランセーズ買っても自分は自分だよ! なんにも変わらないよ。そもそも自分にごほうびあげたくなるほどがんばってねーよ自分! ご、ごほうび……せめてごほうびあげたくなる自分になりたいですね。


 今は買い物が楽しい。何が自分の中で変わったのだろう。す、スロークローゼットになったのかな……。素敵になりたい、お洒落になりたい、いい女になりたい、そういうことは今だってもちろん思う。けど、「これがなきゃダメだ! 今すぐこれを買わなきゃ!」と思うことは、なくなった。見て素敵なもの、かわいいものと、自分が身につけて素敵に見えるもの、かわいく見えるものは違う。


 それに、すごく素敵な人を見ると、そういう人は何か特別なものを着ているわけでも、身につけているわけでもなかったりする。


 私は、すごーく素敵な人を、何度か見たことがある。何人かは友達で、あとは福岡のある下着屋さんの、40代後半ぐらいの女性。ゴルチエのワイドジーンズ(きっと昔の)に、シースルーの黒いシャツ。首には革の土台に大きなラインストーンがつけられたネックレスを着けていて、茶色のショートヘア。はっきり覚えている。あのネックレスも、あのジーンズも、あのシャツも欲しいと思ったけれど、買ってもあの人にはなれない。


 いわゆるお洒落というのではなくても、女っぽさを演出していて素敵な人や、自分の雰囲気に合ったものを身につけていて、服が肌の一部のようにこなれている人もいる。


 お洒落は結局、知恵だ。お洒落というのは演出だから、知性なんだ。うわっ、と思うひとのお洒落は、なんかそこのところが絶対的に深くて、筋がとおっていて、美しい。


 自分は、自分にしかなれないし、自分が自分であることを受け入れたときに、初めて素敵になれる可能性が生まれてくるのだと思う。私は今も買い物をしているし、失敗もある。いくら考えて買ったって飽きちゃうこともあるし、使ってみなきゃわからないこともある。冒険もしなきゃ自分に似合うものなんてわからない。年齢とともに変わっていくべき部分もある。ここで張るか、張らないか。買い物は今でもギャンブルだ。でも、そこに恐怖や「これがなきゃ自分はダメだ」という、切羽詰まった気持ちはなくなった。同じ服が、合わせるもので全然変わる。小物ひとつ買い足せば済んじゃうことも多い。気分をむりやりアゲるためにとにかくものを買いまくる、排泄行為みたいな買い物はもうやめだ。持ってないものより、持ってるものを見て、それをどう使うか考える。服を選ぶ行為は、まるで才能をどう使って生きていくかということにそっくりだ。


 さて次の勝負は、コートかなぁ……。いやでもこないだバッグ買って以来、革の財布も欲しくなってたりするし、着る予定がなくてもなんとなくこの時期ドレスがいっぱい売ってて欲しくなるし、好きなお店からは冬のキャンペーンやりますよ〜というハガキが来てるし、あとシチズンの金の時計欲しい……! それに合わせてバングルも! と物欲は止まりませんが、まぁ女のクローゼットは実用一点張りじゃなく、いつかは着たいとかこういうの素敵よねとかそういう部分も必要なんじゃないの〜と自分を甘やかしてみたりして。喜寿の祖母でも買い物で失敗したものを私に横流ししてくれることもあるぐらいだから(ちなみにシャネルのカンボンラインのバッグ。買ってはみたものの、裏地のピンクが派手すぎて持つのが恥ずかしいんだって! う、嬉しかったな〜)、一生惑い続けるんでしょうな〜。まさに灰になるまで!