月の裏で会いましょう

★知り合いの作品です。
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 私は、こういうものを見ていると、この世にどこか「別の場所」があるように思えてきて、そこが懐かしいような、作品の中に引き込まれてそこに行ってしまいたくなるような、そういう気持ちになる。それはときどき、不安な気持ちでもあるし、いつでも逃げてゆく場所があるようで安心する気持ちでもある。ポール・デルヴォーの絵を見るときや、シュヴァルの理想宮(写真でしか見たことはありませんが)を見るときには、よくそんな気持ちになる。少し怖くて、とても嬉しい。そういう気持ちだ。


 それは、「この世にはないと思っていたものが、本当にあった」という、ファンタジーが実在しているのを発見したという感覚に近い。私は宮崎駿の映画の中で『天空の城ラピュタ』がいちばん好きなのですが、その理由は「すごいぞ、ラピュタは本当にあったんだ!」という、あのひとことに尽きます。ラピュタという架空の浮島があって、それが自分の想像をはるかに凌駕したものであったこと、その嬉しさに尽きる。もちろんラピュタは本当には「ない」のだけれど、あれを考えた人間は現実に「いる」のだし、あれの発想の源になったものも実際に「ある」。


 たとえば、古代ローマの話や、ギリシャ神話の話って、本当にあったことと、本当にはなかったことなのに、その両者の境目があいまいなように感じてしまうことが、私にはあります。どちらも自分からはあまりに遠い話だからなんでしょうけど、そういう「本当にはなかったみたいに遠く感じる、非現実的なこと」が実際に目の前に形をともなって現れると、ものすごく遠い時間と距離を旅して、宝物を見つけたような、そんな喜びがあります。


 メタモルフォーゼでのアシュラの演奏が、限りなく彼岸の音楽のようでいて、絶対的に此崖のものだということも、それに近い。彼岸の音楽じゃなくて、はっきりと現実に耳に聴こえていて、生きている人間がそれを演奏しているということが、すさまじい喜びを伴っていて、たとえ神々の音楽を私が聴けたとしても、これほど感動するかはわからないと思う。


 「この世ではない別の場所」は、人間の頭の中にあって、そういうものを頭の中に持っている人がこの世に生きているということ、そしてそれを取り出して、ちょっと見せてくれること。それが私には嬉しい。それは愛のようでもあるし、今まで見ていた地面が見えなくなるような怖いことでもある。いちばん近い言葉は「飛翔」でしょうか。思考の重力から解き放たれるということに近い感じがします。


 この世の中にもし、心だけで、魂だけで誰かと密会できる場所があるのなら、私はそこへ行きたい。肉体も、踊ることも、セックスも好きだけど、心だけでお互いの感情を混ぜ合わせ、ふれあい、重なり合える場所があるのなら。この世のどこにもない、人の頭の中にだけある、そんな場所の中で誰かと、そんなふうに会えるなら、そんなに嬉しいことはないと思う。


 一度も会ったことのない芸術家と、まるで会ったことのあるような気持ちになるのは、心だけで会える場所で、その人の心に触れたような気持ちになるからではないだろうか。直島で私が体験したことは、そういうことだったんじゃないかと、少し思った。