『風のガーデン』最終回

★『風のガーデン』、終わりましたね。見事でした。観るようすすめてくれた監督の言葉を借りると、ほんと「老獪」としか言いようのない一分のスキも、とりこぼしもない脚本。すべての人物の演技が素晴らしく、退屈な時間なんて少しもない。


 倉本聰のドラマを「家族愛をテーマにした、なんか大自然とかそういうやつ?」と思ってる人には、まぁ私もずっとそう思っていたんですけど、そうじゃないよということだけは言っておきたいです。倉本聰のテーマは確かに「家族」にあるんですが、倉本聰は「家族」というものが、「男と女」でできていることから決して目を逸らさない。彼のドラマには、不倫が出てきます。愛人、セックスフレンドに近い存在も出てくるし、肉体関係までいかない淡い恋心も出てくる。からだの浮気も心の浮気もあるし、家族愛もある。それらのいくつかの要素が、一人の男や、女の中に二つ三つ同時にあったりもする。


 そんなことは、もちろん本当はあってあたりまえのことで、好きな人がひとりだけではなかったり、違う種類の愛情を、べつべつの人に対して持ったりすることは、あることだ。けど、そういうものを「悪いもの」「モラルに反するもの」としてでなく、かといって「当たり前でしょ」と開き直るでもなく、ただ「こういうことが、どうしようもなく起こりうるのだ」ということを描くのは難しいし、そういうものをお茶の間にガンガン流すのはちょっとすごい。


 自分の死期を悟った男が、かつて愛人関係にあった女に向けて書く手紙がある。「小生のわがまま、不埒な愛情、お許しください」とその手紙は結ばれる。不埒な愛情。性欲と入り交じった、自分勝手な、不埒な愛情。それは、触れもせず終わった純愛と、おなじくらいに美しく魅力的なものだ。「家族」と「不埒な愛情」は、べつの場所にある、べつの出来事ではない。それゆえの苦しみや不幸や蜜の味から、倉本聰は目をそらさない。人は不埒な誘惑に負け、不埒な愛情を貪り、そんな裏切りをしておきながら家族の愛情を求めたりする。そういうものだ。倉本聰は、そういう「どうしようもなさ」を、許す。世間が、何が許さなくても、どうしようもない人間というものを許しているように思える。他にも、たとえ偽善でも愛情は愛情だと表現しきったり、しびれる場面がいくつもあった。おとなの、おとなのドラマだった。