薔薇の花冠

 母と私はフィギュアスケートが好きなので、冬期オリンピックのシーズンになると「今日の観た?」と電話したりするのですが、先日母がこんなことを言い出しました。


 「あのジョニー・ウィアーって人、あれホモよね?」


 ジョニー・ウィアーがゲイかどうか私は知らないんですが、母の言う通りキス&クライでバラの花冠をかぶっての仕草が「オネエっぽく」見えたのはまぁ、わかる。


 母の今までの言動から言って、ゲイの人に対して特に差別意識を持ってないであろうこともわかる。大した意味もなく、ウィアーのオネエっぷりが面白かったから言ったんだろうなーと。


 だけど私はひっかかってしまって、ゲイだったら何が悪いんだーと母にえんえんしゃべり続けてしまったのですが、その途中で、あれ? と思うことがあった。


 ゲイで何が悪い! の例にファッション業界のデザイナーの話(非常にゲイが多い)ことを出そうとしては「でも、すぐれたデザイナーのほとんどがゲイって、逆にヘテロ差別だよな」と思いとどまり、ショーアップされた舞台が好きなゲイの人は多いからフィギュアではそれが活かせる、と言おうとしては「でもそれって、黒人がみんなリズム感いいっていうのと同じ偏見だよな。必ずしもそうとは限らないし、ショー嫌いなゲイもいるだろうし」と思いとどまり、あれ、じゃあなんて言えばいいんだろう……。となってしまった。


 あとではっと気づいたことは、私が言おうとしていたのは全部「ゲイの人にはこんなに優れた点がある。だから受け入れろ!」ということであって、それ自体が、大きく間違っているということだった。


 それは「障害者は心がキレイ」と同じだし、女性が社会進出する際に「職場の華」とか言われて一見ちやほやされてるんだけど結局差別されているのと同じ(「職場の華」でなければ存在価値がないってことだよね)だし、本質的には「なんらかの社会から差別される要因を持っているんだから、それを補ってあまりある美点を示せ」と、言っているのと同じようなものだ。自分は母に、ジョニー・ウィアーは才能があって美しいからゲイでも何でも受け入れろ、と言おうとしていた。じゃあ、才能がなくて美しくないゲイは、なんなのか。才能がなくて美しくもなくて、性格も悪い、弱い、そんな人間はどこにでもいるのに、ゲイだとそれが「受け入れなくてよい口実」になるのか。それは、ものすごく気持ち悪い思想だ。私は暗に「素晴らしいものだから受け入れろ」と言おうとした、だから間違っていたんだ、と思った。


 これは本当にただの私感だけど、差別されているものが受け入れられようとする過程では、かならず一度「美化」が起こる。黒人はすごい、女はすごい、そういう「美化」だ。いちど「美化」しなければ差別感情を乗り越えられない、という気持ちがあることも、わからないわけではないけれど、差別されている側は別にすごいなんて言われたいわけじゃない。普通にしてほしいだけなのに、そう言われる居心地の悪さを想像してみてほしい。他の人と同じだけの仕事をこなしているだけで「やっぱり最近は女性の方がすごいね〜。男はみんなサボりたがってるのに、女性はちゃんとお化粧して仕事もして……」と言われる気持ち悪さを。「お化粧」をするのは、その人によって「社会と変な摩擦を起こしたくないからしてる」「人前に出る服装と同じ礼儀だと思うからしてる」「単にメイクが好きだからしてる」って、いろんな理由があるのに、それを「女らしくするため」にしていると決めつけられたりすることの気持ち悪さを。全然すごくなんかないし、いっぱいいっぱいなのに、一度でもヘタ打てば「やっぱり女は」と言われ、理不尽なことに怒れば「ヒステリーだ」と言われ、泣けば「女は泣けば何でも解決すると思ってる」と言われるから、怒れもしなければ泣けもしない状況を。その「美化」を、自分はしようとした。無神経なことだ。


 ジョニー・ウィアーがゲイでもかまわない。ぶさいくで欠点だらけでスケートなんか全然できなくなったとしてもかまわない。嫌な奴だったら普通にきらいになればいいし、いい奴だったら話しかければいい。素晴らしいから受け入れろ、という形で差別の突破口を作ろうとすると、絶対にどこかが歪む。受け入れる過程でそういうことが起こるのはある程度しょうがないのかもしれないけど、その歪みは、当事者にとっては堪え難い痛みに変わるんだということを、忘れずにおきたい。「自分は素晴らしくなければ受け入れてもらえないんだ」と思うことが、どれだけつらいか。完璧で欠点のないようにふるまわなければいけないことが、どんな風に自分を傷つけていくか。そしてどれだけ努力しても、結局偏見をもって見る人はいなくはならないし、どれだけ自分の特殊性を排除しようとしても、それを誤解したりいやな目で見てくる人はいる。そんなことに、一生耐え続けなければいけないなんて、そんなことは間違ってる。


 結局私は母に何をどう言ったらいいのかわからなくなって「同性婚の許されてない日本は頭がおかしい!」とか言っていた。母は「そうよねぇ、別にいいのにねぇ」と言っていた。差別意識は母には、ない。ないのにかみついてしまう自分も、どうでもいい人間につけられた傷みたいなものを引きずり続けていて、いまだにそこから完全に抜け出せていないんだなと思った。社会的にどうあろうと、自分の中でそういうことに対する考えは決まって、すっきりしたと思っていたのに、ふっきれたようでふっきれてないんだなと思った。怒りや苦しみを蒸し返したくないからフタをしている部分があるのかもしれない。自分は昔にくらべたら、過剰防衛というか、警戒心の度合いは低くなっていると思う。それは理解ある友人に恵まれて、そういう人たちに囲まれている場では警戒をする必要がないからだ。けど、相変わらず他人のことでそういうのを聞くと過剰防衛ぎみに暴走したりするし、自分のことでも、はらわた煮えくり返るような思いはもうあまりしないにしても、ささやかにがっかりすることは、ある。


 自分がそういうことを知っているのに、加害者側になろうとしていたのが、私はショックだった。ゲイは素晴らしいから受け入れろなんて、何言ってんだ。死ねよって感じだ。置き換えればそれがどんなに嫌なことかは一瞬でわかるはずなのに、自分は無神経で、自分の痛み以外には、きわめて鈍感だ。と、書くことで懺悔して許されようとしている姿勢もまた最低だと思う。


 今までにした失敗は、とりかえしがつかない。人は傷つくことで大人になるなんてことを言う人もいるけど、傷ついた側が成長しようが何しようが、それで傷つけた側の人間が許されるわけじゃないと思う。自分は無神経だから、とひらきなおるんじゃなくて、無神経なりに頭使って、これ以上最低のところに落ちていかないようにしたい。