浅野忠信のモデルとの熱愛報道を見て、それがほんとかうそかはどっちでもいいのですが、思い出したことがあります。


 私が20代の前半の頃、浅野忠信charaというのは憧れのカップルでした。たしか渋谷のクアトロの入ってる、今はブックオフになっているビルの中で行われていた憧れの夫婦の人気投票で一位か二位になっていたような記憶があります。ほかは離婚前の永瀬・小泉夫妻、YOU夫妻とかUA夫妻だったかな。不確かな記憶ですが、そういう「憧れられている」ムードがあったことは確かです。


 私は特にどっちのファンというわけでもなかったのですが、charaが雑誌でやっていた連載で浅野との出会いと電撃的な恋愛、そして妊娠に到るまでのことを文章にして綴っており、それはけっこう、衝撃がありました。たしかに「憧れる」気持ちを持つような何かが、そこにはあった。


 ふたりの離婚を知ったときは、なんとなく「そっか、あの二人も離婚なのか……」と少しがっかりした気持ちを持ちました。


 しかし、ほんとうにショックだったのは二人が離婚したことではありませんでした。離婚後、charaが参加したエイズ啓発ライブ「RED RIBBON LIVE 2009」の映像が『NEWS ZERO』で紹介され、charaのインタビューも放映されたのです。そのインタビューの中でcharaは「私みたいな金髪のおばさんが……」と、言ったのです。


 むしょうに悲しくなりました。なぜ、アーティストとして活動を続けていて、ファンからの支持も評価も受けている人間が自分のことを「おばさん」とか言わなきゃいけないのか。その言葉は、charaさんが自分のことを知らない人が『NEWS ZERO』を観ている可能性が高いことを配慮してサービス精神のもとに笑いを交えて言ったなにげない一言で、悲愴感とか何もなかったのに、私はそのことが悲しくてしょうがなかった。男で自分のことを「おじさん」とか「じじい」とか、自虐的に言ってそれを笑いに変える人もいます。それと同じことをしただけかもしれません。でも、私にとってはそうじゃなかった。


 たぶん、私は浅野忠信charaという二人に「あたらしい男女の愛の形」を夢見ていたのだと思います。男が男でいられ、女が女でいられる結婚の形、そういうものがこの世にあるのだということを二人が証明してくれるような気がして、そこに憧れを感じていたのだと思います。離婚したからやっぱりだめだった、とは私は思ってなくて、たとえ離婚しても、あのときにあんな文章を書いたcharaという人は、世間の枠に縛られることなく、いくつになろうが世の中がどうなろうが、自分の魅力を信じ、あたらしい男女の愛の形を追い求めていくものだと思っていた。離婚してもなお、charaという人に私は期待と憧れを持っていた。浅野という人についてはまったくどうでもよかったのです。あの文章を書いたcharaが重要で、だから彼女が自分のことを「おばさん」と言ったことが、とても悲しかった。


 女であるということはときには疲れるし、年齢を経てなお自分を女であると規定した視点からものを語ったり、女としての性欲や愛情への欲求を隠さないでいることは「見苦しい」「イタイ」ものとみなされることがあります。年齢を経た女が、どういう立ち位置からものごとを語るかというのは、他人の反応を気にする限りとても難しい。受け入れられやすくするために「おばさんだから」とエクスキューズを入れるのはある意味きわめて当たり前のことで、私は当たり前でないと思っていたcharaがそういうことをしたのがショックだった。charaという人にがっかりした、というのとも少し違っていて、あのcharaという人にまでこんなことを言わせてしまうくらい、人の自尊心やオリジナリティを奪う今の社会ってなんなんだ、という怒りに近い感情を持ちました。女でい続けることは今の社会ではとても難しい。それはわかっています。だから、表面上だけでも今の社会に迎合したり、また女であり続けることに疲れてそういうポジションを降りることを、私は責めるつもりはありません。降りたかったら降りていい。それは自由です。


 ただ私は、自分は女のまんまでいたいと思っているから、その難しいことをやりとげている人として、勝手にcharaに期待をし、失望をした。それだけのことです。彼女の声や表現力が衰えたとは思わなかったし、おばさんと言うほどふけこんだとも思わなかった。十分に魅力があると感じました。だからこそそんな人が自分のことを「おばさん」なんて言わなきゃいけないような世の中ってなんなんだよ、と思ったんです。私が単におばさんという単語に極端に過剰な反応をしているだけかもしれない。


 私は「ブス」という言葉が嫌いです。そう言われて育ったけれど、それは自分では自虐としても口に出せないくらい痛くてつらい言葉だった。だからあるときに自分に対して、その言葉を思い浮かべることも禁止し、そう思うことをやめました。「おばさん」という言葉は、そこまで痛くてつらい言葉ではないけれど、私はやはり自分に対して、その言葉を使いたくないです。いつか笑って使えるようになる日が来るのかもしれないけど、いまのところ、その言葉に私は慣れることができない。私は私であって、若くもないけど、「おばさん」という生き物ではない。年齢と性別で自分のことを他人から規定されるのも、自分で自分のことを規定するのにも、うんざりです。若いときにだって「若い女」という規定をされ、されたくもないのにそういう扱いを受けて、さんざんいやな思いをした。もう、私はそのことを我慢しなきゃいけないと思えない。今までさんざんいやな思いしたんだから、もうこれからは好きにさせてもらう、そんな気持ちです。他人におばさんと呼ばれてもかまわないし、もう呼ばれてるかもしれません。それはどうでもいい。言いたければ言えばいいです。でもそう呼ばれたからといって、私が自分をそう規定しなければならないということではない。そう思います。