★8/14(土)、ヴァニラ画郎で開催される田亀源五郎展のトークイベントに出演させていただきます。

http://www.vanilla-gallery.com/schedule/index.html


 9月には照沼ファリーザ晶エリー)ちゃんの個展もありますね。こっちもお客さんとして楽しみにしております。ついでにエリーちゃんがモンスターエンジンと共演している動画をはっておきます。神々と晶エリーhttp://blog.fujitv.co.jp/fujisan/E20100601002.html


★ブス会*の『女の罪』を観てきました。観たばっかでまとまった感想を書けないというか感想がまとまってないんですけど、面白かったです。会話のキレと関係性のシーソーゲームが相変わらずすごい。あと「やりたくてやりたくてしょうがなくてセックスに飢えまくってがまんにがまんを重ねた挙げ句に出会い系やって一回しかやってないのに妊娠しちゃったかもしれん! ひえー」という状態になった主婦・やよいさんの、すごい割に合わない感じとかぜんぜんやり足りてない感じとかが身にしみました。デリヘルのチラシ並べてどれにしよっかなーってわくわくしてる旦那の立場がうらやましいです。


 こないだ、枡野浩一さんの『結婚失格』のトークイベントで、町山智浩さんが恋愛論を語っていたのに対して、かなり「町山さんかっこいい!」的な意見がいっぱい出てたようですが、私はちょっとその反応にびっくりしました。町山さん、確かに『結婚失格』についての話はすごく的確で、あの小説を読んだ人が感じるであろう気持ち悪さの正体についてビシーッと気持ちいいくらい鮮やかに言語化されていてすごく見事だと思ったんですが、恋愛論についての部分にはかなり違和感がありました。


 間違ってると思うっていうのとも違ってて、「相手の愛情を得る」ということについて、得ることに成功した人はその理由を語れるけど、得られなかった人(枡野さん)は得られなかった理由やどうすれば得られたのかをああでもないこうでもないって考えるしかなくて、考えてこうではないかという結論を出したとしても、それを確かめるすべはないし、相手の方がどんな人だかろくに知らないくせにこんなことを言うのはなんだけど私は枡野さんがどんな行動を取ろうとも、終わるときは終わってたんじゃないかと思わないこともない。町山さんのような行動を枡野さんがとっていても、だめなときはだめだったと思う。一度だめだと思ったら徹底的にその相手のことがだめになってしまう、という恋愛体質を持つ相手に対しては、なにもかもどうしようもないんじゃないかと思います。自分がそうだから、そう思うんですよね。


 それでも「自分はやるだけのことはやった」と思うために、恋愛哲学のようなものを持って自分なりに行動するというのは大事なことかもしれないけど、どんなにがんばったとしても、私は恋愛で「やるだけのことはやった、悔いはない」なんて思えそうにないし、こうすればうまくいくなんていえる絶対のものなんてないと思う。成功した物語としては町山さんの話はすごくいい話だし、ああいう男気がかっこいいって思う気持ちもわかるけど、ああいうかっこよさに惚れ直さない相手に惚れちゃってるときは全然ああいう手段は「使えない」どころか逆に相手が醒めまくることだってあるわけで「そっか、こうすればいいんだ!」って素直に信じる気持ちになれなかった。どんなに努力しても恋愛において努力は無駄なときは無駄、だと思う。


 あと、気持ち悪い度合いで言えば私は離婚後の南Q太さんのエッセイマンガだって相当気持ち悪かったし、枡野さんの文章が気持ち悪さを隠さずに自分のことを書き尽くしているのに対し、南さんのマンガは自分の悪かったところとか気持ち悪いはずのところをごまかして隠そうとしている感じがしてそこがどうしようもなく気持ち悪かった。枡野さんの文章が、理論的に自分は正しいと言い募って相手の感情に配慮しない気持ち悪さであるとしたら、南さんのマンガは感情的に南さんのほうが正しく見えるようにミスリードされているような気持ち悪さで、わかるでしょ私の気持ち、私のほうが正しいでしょって共感を求めているような感じが、たまらなくいやだった。自分を善人にしようとしてるふうに読めたし、正直なところがなくなったように思えて、それからエッセイでないマンガ作品に対しても、まったく理解できなくなってしまった。心がわりは悪いことだと思わないし、別れた男に子供を会わせたくないとか裁判でどうなってももう関わりたくないっていう気持ちも想像はできるけど、どっちが正しいかっていう問題じゃなく、正直でないというところが信用できないと思った。私怨を隠そうとしていることが気持ち悪かったです。


 枡野さんが「自分は正しい」と言い続けたことについて、町山さんは批判していたけど、女同士の恋愛相談ってけっこう「正しい」ことについて語られてることが多くて、それは例えば「私ばっかり○○していて、相手はまったく合わせてくれない。おかしくない?(=不公平じゃない?)」みたいな感じなんだけど、どんな例がそこで語られようがその「不公平じゃない?」は、「私のほうがいっぱい惚れてて、不公平じゃない?」ってことにほかならないわけで、ほんとは「不公平を解決する」ことは主眼でもなんでもなく、自分が欲しいぶんだけ愛されていないことにどう対処するかが問題なんだろうな、と思った。たしかにそこでは降参するしかないんだけど、相手に下に見られていいように利用される形の降参や、自分が卑屈になるような形での降参では、惚れた弱みにつけこまれてるだけみたいになっちゃうし、それは幸せではないよねぇ。町山さんの「降参のしかた」は文句なしの降参のしかただから、あの議論の中で町山さんはものすごく「正しく」見えたんだけど、それはやっぱりひとつの「正しさ」でしかなくて、恋愛において「正しい」ことなんて、相手の愛情が得られなければ虚しいんだよな、と思いました。


 『女の罪』も、正しさと恋愛についてのお話、みたいに私には思えました。正しい女が勝つわけではなくて、幸せになれるわけでもなくて、ねぇ。だからそういうところできっぱりとした態度で、自分なりの哲学をバシッと展開する町山さんのことが、みんな、とてもかっこよく見えるんだろうな。『女の罪』は、こうすればいいとか、こういう態度でいるのが本当は正しいんだよっていう結論を提示しないところが、私は好きです。


 誇り高くある以外に、恋愛という不安定な足場にしゃんと立つ方法はないと思うんだけど、恋愛ってかっこわるくてひどく無様な状況もいっぱいあって、それがとても、難しい。ここでこんな長文をぐだぐだと書いてクダを巻いていることからもおわかりでしょうがわたしはもうしばらくはなやんでみようと思います。