私は初音ミクになりたい

★昨日NHKの『トップランナー』観ました。ゲストはperfumeで、惜しげもなく何曲か披露してくれたんですけど、会場にいたみなさん、特に女性のファンのみなさんはperfumeを好きになって気が狂いそうになりませんか? 自分より若くて(もしくは、同じくらいの年か年上でも)、かわいくて、顔がエロくて(のっち)、ものすごい踊りができて、あんな声で、そういう才能ときらめきを目の前で見せられて、気が狂いそうになりませんか。私はなる。あなただって(あなたなりに)いいよ、という言葉にまったく意味がないほど、彼女たちのほうがずっとずっとよくて、その彼女たちには自分は一生どんな形でももうなれないのだと、たとえ年齢を巻き戻せたとしても、自分があの年齢のときはとてもみにくくて、今までもそしてこれからも彼女たちのような光の中に立つことはないだろうことを思うと気が狂いそうになる。ああ、これはAVを観始めたときの理由と同じ。私はカメラの前でセックスしているキレイな若い女の子たちがまぶしくてまぶしくて泣いてそれで、そういううらやましいものから目を逸らさないで生きていこうと思ったけど、結局、何度も何度もこうして発狂しそうにうらやましいものが現れて、なんとか少しずつ肯定してきた自分のことを最初から全部否定しなおすことになる。ふとももが、顔が、声が、エロすぎて死にたくなる。私は、「女の子」ではなくて「女」だから、だれか女のファンになることが、とても難しい。うらやましくてほとんど憎いぐらいの気持ちを恋愛感情に昇華できればいいけど、それもできない。


 私がperfumeよりも鈴木あみの『FREE FREE』のほうが好きなのは、FREEという言葉がエクスタシーの隠喩にしか聞こえなくて、気持ちいいに決まってる、からだの快感を直にまさぐって掘り起こすだけの音の、ある意味下品極まりない音の洪水の中で鈴木あみが言う「set me free」がイカせてと何度も言ってるようにしか聞こえなくて、それが、こんな状況ではセックスするしかない、それしか安心できる方法がない、それしか、いやなことをわすれるほうほうがない、というやってられないという自分のやってられない気持ちを瞬時に昇華して単なるエクスタシーへの渇望に変えてくれるぐらい、この曲がエロいからではないのかな。曲がどんなに好きでも、鈴木あみには、私はperfumeに抱くような気持ちを抱かない。ポイントは中田ヤスタカとの力関係。なんだろうか。例えば、私は宇多田ヒカルのことが死ぬほど好きで、この世でいちばんの天才だと思うけれど、彼女に対してこのような気持ちは抱かない。うらやましくて死にたくなったりも、しない。嫉妬もしない。ただただ彼女が好きなだけで、彼女のような才能がこの世にあることを感謝するだけで、ほかに何もない。私がperfumeに感じているのは、おそらく歪んだ性欲で、男であれば健全に処理できたのかもしれないけれど、私は女なのでそうできないうえに、中田ヤスタカへの性欲が入り混じってわけのわからないことになっている、という感じなのかもしれない。中田ヤスタカ単品への性欲ではないところが、どうにもならないポイントだ。


 私は生まれ変わったら初音ミクになって、中田ヤスタカ歌人形になって、ただ中田の歌だけを、歌い続けて、彼の才能が消費され尽くしたところで、路上に捨てられて、あたらしい時代のあたらしいプロデューサーに顔を踏まれ、グシャッとつぶれたい。私がセックスが好きなのはそのあいだだけは「お人形」のように、なれるからなのかもしれない。と思う。perfumeに実体がなければよかったのに。あこがれるには年をとりすぎ、絶望を知りすぎ、見下して嫌いになるには、どうでもよくなさすぎた。早く飽きてきらいになりたい。



※発狂してませんので安心してください。