豊田道倫『映像集3』

「なんで豊田道倫が好きなの?」

 友達にそう聞かれたことがある。私の好きな音楽は、マドンナ、カイリー・ミノーグ宇多田ヒカルローリングストーンズ、なにひとつ全曲聴き込むような聴き方はしていないし、好きだった音楽でも少しでも自分の中で過去を思い出すようなノスタルジックなものになってしまったら即座にCDを処分する。音楽で過去を思い出すのが気持ち悪いからだ。持っているCDは少ないので、豊田道倫のアルバムだけ枚数が異常に多いように見える。


 初めて豊田道倫のライブを観たとき、すでにカンパニー松尾豊田道倫は出会っていた。二度目にライブを観たとき、会場でカンパニー松尾がカメラを回してた。ライターになる前、会場で「ファンです。握手してください」とカンパニー松尾に握手してもらったことがある。行けばいつでもそこにいる、というくらい、豊田さんのライブには松尾さんがいた。


 その撮りためた映像はこれまで『映像集1』『映像集2』としてDVDがリリースされている。まだDVD化されていない『映像集3』は、今のところ上映会などでしか観ることができない。


 しかし、この『映像集3』は、ダントツですごい。ぶっちぎりだ。「豊田道倫の中で」「映像集3作品の中で」という意味ではない。こういう種類のミュージシャンの映像は、ほかにない。


 『映像集3』はドキュメントだ。豊田道倫の人生も音楽もひっくるめたドキュメントになっている。そして『映像集3』なんていうそっけないタイトルがつけられているが、限りなくこれは「映画」だと思う。


 内容だけでも、豊田道倫ファンにはたまらなく面白いものだろう。結婚、子供、離婚という人生の節目の映像に加え、地方のイベントステージのレア映像、ストリップ劇場でのライブ映像、結婚式で歌う姿まで収録されているうえに、昆虫キッズとのライブや久下恵生との共演など「あれは良かった」と思い出すようなライブの映像、CD未収録曲も入っているのだ。


 内容だけでもすごい。だけど内容だけじゃない。この映像の力は何なんだ。


 カンパニー松尾というと、エロ以外の部分では作品の情に訴えてくる部分、センチメンタルな部分が好きと言う人が多い。作品の内容に共感したとか、描かれている感情がすごいとか。私もたぶん最初はそう思っていた。しかし、いつからかそうじゃなく、映像そのものの上手さやすごさに魅せられるようになった。


 最近のカンパニー松尾は、もう、憎たらしいほど上手い。AVっぽくセックスにたとえるなら、キスだけで腰が抜けて立てなくなるぐらい上手い。


 人には、自分を表現するために使う道具がある。まるで自分の手足のように自在に使える道具、使うのが得意な道具、それがカンパニー松尾にとってはカメラであり、豊田道倫にはギターと歌なんだろう。


 豊田道倫の音楽は、魂こもってると言われやすい音楽で、自分自身をむきだしにしてると思われやすい音楽だ。カンパニー松尾の映像がやはり、本人の感情をむきだしにしてると思われやすいこととよく似ている。表現の純度が高くて、本人と表現しているもののあいだに何も挟まっていないみたいな印象を受けるのだ。自由自在に表現をしているように見えるから、スムーズに本人と表現がつながりすぎて、ものすごくストレートにただ思いをぶつけているみたいに思える。


 表現に作為がないわけがない。豊田道倫の音楽の好きなところはその「作為」だったりする。カッコつけて、ドラマチックに見せかけて、赤裸々に見せかけて、ポエジーを見せる。好きなだけ、好きな人格を演じる役者みたいだと思うことがある。不自由な逃れられない自分を使って、どこまでも自由になにかを演じているような、表現しているような、そんな感じがすることがある。その中に現実感が遠のくような名場面がときどきある。歌謡曲で描かれるワンシーンみたいな、映画の中のワンシーンみたいな、だれかの私生活で、自分の私生活で、こんなことがあったんじゃないかみたいな、そういう場面が見えるような歌がある。


 『映像集3』で、観た誰もが印象に残っているであろうワンシーンがある。終演後のステージで豊田道倫が息子にペットボトルの水を飲ませるシーンだ。水のボトルは最初から映っていて、そのままずっと画面の中にある。最初にそれが画面に入っていたのは偶然で、それを撮り続けたのは作為だろう。水のボトルを追うカメラに迷いはなく、この場で一瞬で決めて撮っているはずなのに、何の違和感もなく「こういうシーン」として観てしまう。これはひとつの例だけど、カンパニー松尾の映像にはこういった「最初の偶然」を呼び込む奇跡のようなシーンが多々ある。AVであろうが『映像集』であろうが、カンパニー松尾が撮るかぎりそういうシーンはあるのだ。


 平野勝之監督の、今年の9月に公開される映画『監督失格』の中で、カンパニー松尾が撮ったワンシーンがある。カンパニー松尾の映像は、ほかの人の作品の中に入っていてもすぐにわかる。色が違う、匂いが違う。テレビだろうがスクリーンだろうが、はっきりわかる。『監督失格』のこのシーンはすごい。まぎれもない映画のワンシーンなのでこの比喩が比喩にならないのはわかっているが、本当に映画のワンシーンのようで、最初からこのために撮られた映像のようにしか見えないのだ。ここでもカンパニー松尾の映像には、そうした偶然のマジックがかかっている。この映像を渡したということ、その映像を使用したということに、カンパニー松尾平野勝之の関係の重さが見えるようだ。


 偶然は意図したものではない。でもその偶然を撮ることには、ときにはあざとい意図や作為だってあるはずなのだ。きっと、ほかの人が撮っていたら。たまにそう思う。きっとほかの人が撮っていたら、こんなものは見るに耐えない、稚拙な作為だけが鼻につく映像になっていたんじゃないかって。作為と技術の高さが合っているから、こんなにスムーズに観れる映像になっているんじゃないだろうか。上手すぎるから、上手すぎて作為を感じない。切れすぎて切られたことに気づかない刃物みたいだ。


 上手くなればなるほど、作為はピュアになる。最近、そう思っている。まるでなにも、作為なんか挟まってないみたいに見えるほど、作為そのものが見えなくなるほど、カンパニー松尾は「上手い」。作為は見えず、ただそこに写っているもののすごさだけが印象に残り、心に残る。目の前の映像にひたすら引き込まれ夢中にさせられ、作為がどこにあるかとか、ドキュメンタリーとは何かなんて一瞬たりとも考えない。魅力的な人の語る言葉を集中して聞いているときと同じように、カンパニー松尾の映像を観ているときは、たばこを吸うことも忘れて、息もできなくなりそうになる。


 ただ、そこで起こっていたことを撮っていただけのはずなのに、それがすべて必然のように絡み合い、こういう形に仕上がることが最初から決まっていたかのように、必要なシーン、なにかを物語る象徴のようなシーンがある。『映像集』じゃない。一本で完璧なひとつの作品だ。水一滴も漏らさないような、いやらしいほど緻密な編集しといて『映像集』!? ほんと、だましうちみたいなタイトルだ。


 私が豊田道倫の音楽が好きなのは、理屈の匂いがしないところ、へんな文化の匂いがしないところ、肉体の匂いがするところ、セクシーなところ。そして、カンパニー松尾の好きなところは、ちょっと言えない。

東京で何してる?

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