『監督失格』についての些細なことがら

 『監督失格』公開されましたね。町山智浩さんが『監督失格』について「自分の妻にカメラを向けて「林由美香に執着する夫をどう思う?」とインタビューするシーンが欲しかった。平野勝之監督『監督失格』で足りないのは林由美香を追い続ける監督と彼の妻たちとの関係だと思う」(http://twitter.com/#!/TomoMachi/status/109655892873588738)とTwitterで書かれていました。私は、平野監督の『わくわく不倫講座』を初めて観たとき、失恋に嘆く平野監督の姿を見ながら「コイツ(コイツ呼ばわりしてすみません)別の女と結婚したのに何やってんだ」と思った記憶があります。そして『由美香』を観たとき「離婚しないくせに好きだとか言いまくる男って頭湧いてんじゃないの!?」「ケンカしてるけど、お前(お前呼ばわりしてすみません)に彼女を責める資格ないだろ!」と衝撃を受けました。あまりにも当たり前のように、対等な立場で恋愛してるみたいな口ぶりだから混乱しましたよ。あれだけ好きだ好きだと言っておいて「だから離婚する」という話に一度もならないのが不思議でしょうがなかった。私の中の倫理委員会が紛糾しましたよ……。


 そうは思ってるんだけど、奥さんを引っ張り出せば良かったとも思ってなくて、奥さんを引っ張り出して、奥さんがどういう態度を取ったとしてもこの話は簡単に「夫婦の絆ってすごい!」「夫婦の愛情ってすごい」「他の女を追いかけてる平野さんを許す奥さんすごい」とかいう話に、観る側によって(作り手がどう意図しようと)すりかえられるんじゃないか、と思ってて、それは想像するとなんだか気持ちが悪い。それに、引っ張り出してきてそれが「平野監督の素材」になっていたら、それはそれでイヤな気持ちになると思う。作品の完成度としては、どちらがいいのか私には判断がつかないですけど、確かに『由美香』や『わくわく不倫講座』で最もショッキングだったのは奥さんの登場するシーンでした。


 それを言うなら、由美香さんだって「素材」になっているわけで、それをわたしたち観る側の人間は「林由美香は全身女優みたいな人で、素材になってどう切り取られても、そこに監督の意志があるならそれを許す人だ」というエクスキューズがあるから不快感なく観れているだけ、という気もしますけど。


 少し話がそれますが、私は別れたあとで「あいつはいい女だった」(遠い目)みたいに言う男のことを気持ち悪いと思います。いい女だと思うなら追いかければ? と思うし、今ほかに彼女がいるのに「いい女だった」とか言ってたら、もう無神経以外のなにものでもない。結局「真正面から向き合ってつきあうのは疲れるくせに、遠くから眺めて『いい女だった……』みたいな距離感でホメるのが気持ち悪い」ってことなんですけど。私は別れた男たちに、何も語られたくない。だって、しょせんは別れた男じゃん。続かなかったんだし、私から逃げ出したか、私が拒んだか、どっちかなわけで。試合は終わったんですよ。


 恋愛が終わったあとで、信頼のあるあたたかい関係になれることがあるのはわかるけれど、そこに男のロマンとかセンチメンタルな感情が乗っかってくると、急に気持ち悪いものに変化する。今現在の女の苦しみや孤独感や感情の振れに真っ向からつきあっていないのに、知ったような口をきかれることに違和感がある。自分は今ここにいるのに「今ここにいない、過去に別れた女」に対する幻想を背負わされているように感じるからかもしれない。


 『監督失格』に出てくる「今までの男が全員で棺をかつぐ」とかいうのも、もし自分がされたらと考えるとすごいイヤ。自分がああいうことされたらゾッとする。まぁされるような人徳もないけど(棺が持ち上がらない人数……)(いや一人でもいれば上出来)、断じて嫉妬ではなく、本気でイヤだと思います。


 私はカンパニー松尾ファンなので、この映画の中でカンパニー松尾が撮っているシーンがものすごく好きなんですが(ひと目でわかる。風景の色が完全にカンパニー松尾。濡れてる)、あれは「去った男の悲しみ」がよく出ているシーンだと思っている。もしかしたらもっと深く関わっていたかもしれない、今は頻繁に会うこともない、そういう関係だからこそ何かできなかったのかと悔やんだり、そういう関係だからこその喪失感があるのだろうなとすんなり腑に落ちる。平野勝之の喪失感はもっと思い込みが激しくてグチャグチャしてて、運命の女を失った、みたいな感じがあるんだけど、なんかそれって生身の女じゃないみたいに思えるときがある。生身でつきあっているはずなんだけど、遠い。誰よりも深くつきあった過去があり、今でも関わりがあるのに、それはもう恋人同士の関係とは違っている。


 私が思うのは、これを愛の物語だと呼ぶのなら、なぜ離婚して林由美香と結婚しなかった? ということだし、たとえ失ってからでも本当にそれだけ愛しているのなら、けじめとして離婚すればいいと思うし、結局、どんなに苦しんだとしても、他の女に軸足残してるじゃないか、ということだったりする。美しい愛の物語だなんて、絶対に思わない。自分が妻だったら、映画館に放火するよ。


 平野勝之林由美香の関係が、どれだけ深いものであったのか私は実際は知らないし、それを愛情と呼べるかどうかもわからない。でも、関係の深さに関わらず、一方的に思い入れ、一方的に深い傷を負うことはある。それを運命だと思い込むことも。一人の女に呪縛された、と感じるのはいつだってされている側の思い込みでしかない。そういう男のロマンみたいなものや激しい思い込みの見苦しさや醜さ、みっともなさみたいなものが平野監督の作品ではよく出ていて、この映画の感想で「美しい」とか「愛情」とかいう言葉をよく見かける気がするのは、その飲み込みづらい気持ち悪さを、観た側がなんとか飲み込もうと全力で肯定しようとしているからじゃないかと思う。それだけ「飲み込みたい」「受け入れたい」と思われたのなら、それは愛されてるのと同じことじゃないだろうか。


 美しくなくても、気持ち悪くても、そう感じることがこの作品をおとしめることにはならない。美しくなくて気持ち悪くて、不倫でしかもとっくの昔に別れてて、それでも整理しきれない感情がいろいろあって、私はそういうのが大嫌いなのに『監督失格』を観ている最中にはその不快感をまったく感じない。あとで思い出すとこんなにイヤなのに……。観てる間は、飲み込まれてしまう。理不尽な気持ちでも、そういうことがあるのだと、自分自身のことのように感じてしまう。


 世間的に正しいことだけが正しいわけじゃなく、責任をともなった愛情表現だけが愛情表現ではない。当たり前のモラルからはずれてこぼれて落ちたようなものが、こうして人に観られていて、支持されたり、やっぱり嫌悪感をもよおされたりしていて、でも、正しくない道しか進めない人間のこと、正しくなくても魅力的な道を選んでしまう人間のこと、私は否定する気にならない。そんなこと言ったら、AVだって肯定しようがなくなってしまう。私の神様は欲望だから、どんなに見苦しく、モラルに反していて、私の好みや主義主張とはまるで違っている作品であっても、そこに平野さんの100%の欲望が見えるかぎりは、やっぱり支持してしまうような気がするし、そこが平野さんのすごいところだと、なんとなく思っている。