「少女は挿入される生き物」第四回

★5/26,5/28,5/29の続きです。最終回です。

 「少女は挿入される生き物」の最終パート(ゆめちゃんのセックスシーンも含む)は、「エロを引き立てるためのドキュメント」には、なり得ていないと私は思います。それはゆめちゃんという女性が、セックスに対してアンバランスな部分のある女性だからかもしれません。ドキュメントを見た後でさらに興奮できるかというと、そういう人もいるかもしれませんが、私はちょっと、なんですね。これは彼女が「かわいそうな過去があるから痛々しくて見てられない」という意味ではありません。単純に、私は彼女と「ヤリたい」と思えないんです。「突っ込みたい」と思えない。(そして、これは「私が女だから」では、もちろんないです)

 ただ、それでも、このドキュメントパートは面白いんですね。ゆめちゃんという、地味な女の、地味だけどしっかり体内では女の業や嫌らしさ、自己防御のための詭弁やごまかしがうずまいている感じ、そして、そうしていなければ壊れてしまう脆い感じが、短い時間の中にしっかりと捉えられています。最後の、あの笑顔のうっと来るいやな感じ(あの笑顔には、恋愛関係で弱者にいる人間の媚びが貼り付いているように、私には見えました)は、傑作です。あんなもの、よく撮れるものだと思う。堀内監督は、彼女に最後まで同情もしなければ、べたついた感情移入もしません。その突き放したクールな視点は、堀内監督の左派としての才能です。この視点だけで撮れば、堀内監督は、AV極左にもなれると思う(極左とは、エロくはないのにそのことすら忘れるほど、べらぼうに面白い作品のことです。端的に言えば、バクシーシ山下監督などが、極左と言えるでしょう)。あと、冒頭と最後に読まれるあのポエムもいい。

 この堀内監督の冷た〜い視線は「豊田道倫 映像集2」に収録された「うなぎデート」のPVでもひしひしと感じることができます。豊田道倫のファンであるカンパニー松尾が撮った豊田さんは、いい顔に映っているのに対し、堀内さんの撮った豊田さんは、ものすっごく、うさんくさい。「えっ、この人、何やってる人? ……シンガー? へ、へぇ……」という世間の風の冷たさがそのまま映りこんでいるかのような、超うさんくさい豊田さんの顔が映っています。こんなにクールなのに、堀内監督本人が、いつもニコニコ柔和な笑顔を浮かべた好人物であるのが余計に怖いです。たぶん仔猫を13階からほうり投げる時も同じように柔和な笑顔を浮かべていそうです(注・そんなことする人じゃないです。たぶん)。あの、新宿駅前でニヤッと笑う豊田さんを見つめる堀内さんの冷たい目線は、ものすごい才能だと、私は思います。

 右派としても、左派としても、実力も才覚もある堀内監督の作品が、どちらかに統一されたものではなく、極右と極左を両方入れる、という構造になっていることが、この作品が「的確に評価しづらい」一因となっています。右派として評価すべきなのか、左派として評価すべきなのか、評価する人間が自分の立場を決めづらいのです。「エロい右派」と「面白い極左」という両端に分けると、どちらも高く評価できるけれど、それを一つの作品として評価するとなると、少し混乱してしまうのです。「少女」というテーマのもとにまとまっているとも言えますが、実際に観た印象としては「二種類の味が入ってて、どっちもおいしい」と言うしかない。

 この「右派」と「極左」の分裂構造は、堀内監督が「抜きやすく、しかも面白いAV」を作ろうと考えてやったことだと思います。現在、AV監督という職業には、必ず右派の実力が求められます。右派としての力がなければ、AV監督とは言えない。エロが撮れなきゃAV監督じゃないし、「売る」ものを作るために、それは絶対に必要なものだからです。でも、優秀な右派監督でありながらも、心のどこかで左派の部分を抱えていたり、この世界に入ったきっかけが左派AVだった、という人も多い。そういう人たちが、いちど思いきり自分の好きなように撮ってみよう、という時に選ぶのがこの「折衷案」だとしたら、それでいいのか? という気持ちが私にはある。

 「折衷案」は、エロ本のカラーページでエロいグラビア載せて、白黒ページで好きなサブカルネタを書く、という、あの発想によく似ているように感じます。エロとしての義務はカラーで果たし、白黒で好きなことをやる、というそのスタイルは、私が編集者であった頃、やはり陥ってしまったスタイルでもありました。現在私は、そういうスタイルを好みません。いや、はっきりと、嫌いです。

 好きなことをやるのなら、カラーだろうが白黒だろうが、全部巻き込んで一丸となってやるべきなのです。本当に好きなものが「白黒ページ」の方であるなら、なおさらそうすべきです。自分の好きなものが「エログラビアのおまけ」で、いいのか。自分のやりたいことが「別になくてもいいけど、あったら面白いでしょ?」程度のもので、いいのか。カラーと白黒をぐちゃっと混ぜて化学反応を起こさなければ、そこに「熱」は生まれない。「うねり」は生まれない。

 堀内監督の作品は、これはこれでひとつのスタイルであるかもしれない。初めて観る人には、十分面白く、エロくも見えるでしょう。ただ、堀内監督の才能を買って、あえて言うとすれば、初めて観る人には通用しても、この程度のエロやこの程度の面白さは、私の世代のAV好きには、そこまでは効かないのです。血管の一層目は突き破ってくれるけど、三層目まで突き抜けて血管の中まで入り込んではこない。私の世代は、もっとすごいものを知ってるからです。

 これは「AV OPEN」全体にも言えることですが、デマンドの全裸運動会など大人数のハダカが出てくる作品を知っている人間にとっては、「500人セックス」は想定の範囲内の出来事だし、インジャン古河の「毒虫」を知っている人間にとって「裸の大陸」(アフリカにAV女優をつれて行き原住民とセックスさせる)は、「なんで同じことやんの?」という気持ちしか抱けない(「毒虫」が最初にリリースされたのは3〜4年前だが、アフリカに女優を連れていき、マサイ族とセックスさせている)。知らない人は、「500人セックス」も「裸の大陸」も、その企画だけで楽しめるだろうと思うし、そのことはいいことだと思うけど、まぁ、私はビックリはしないんです。

 堀内監督の作品も、初めて観る人には、すごく面白くエロく感じるかもしれない。けれど、今のセルビデオを見慣れている人間にとっては、あのセックスがずば抜けてエロいとは言えないし、昔からビデオを見続けている人間には、あのドキュメントがずば抜けて面白いとは、言えない。そこが、私のもやもやする原因の二つ目です。今の若い人たちには十分かもしれない、面白いと思ってもらえるかもしれない。ドキュメント作品の少ない現在のセルビデオの世界で、ドキュメントパートだけ取ればそこそこ高い評価は得られるでしょうが、エロの部分だけ取れば、これが「レベルが高い」とは到底言い難い。もっとエロいものは、いくらでもありましょう。ドキュメント部分だって、数は少なくても、カンパニー松尾や高槻彰といった監督陣がまだ撮り続けている以上、「もっと面白いものはある」と言える状況です。非常にきつい言い方をすると、このレベルでもまだ「そこそこ面白く、そこそこエロい」というものに、私には見えてしまう。そこがものすごく「惜しく」感じる。

 私は、この作品は、堀内監督の「才能のサンプル作品」だと考えています。プレゼンテーション用の、堀内監督の力のいくつかの側面を少しずつ入れたものだと思います。もちろんいい意味で。これが実力のすべてだとは思わない。チャレンジステージという場で、こういう作品を出すことは、営業戦略としてはもしかしたら有効かもしれません。

 血管の中まで入り込んでくるようなAVが、必ずしも一番いいAVだとは言えないかもしれない。「うねり」や「熱」なんて、なくていいのかもしれない。でも、堀内監督の作品には、単なる「右派」「左派」を越えた、得体の知れない何かがある感じが、ちょっとあるのです。だから「もっと何かあるんだろ! 出せ! それ出せ! もったいぶってないで出せ!」と言いたくなってしまう。そういう思わせぶりな感じもサンプルっぽい。ズルいですね。これ見て「もっと出せ〜!」と思ってついつい仕事を頼んでしまう人や、次回作を見たいと思って「堀内ヒロシ」と友達でもない男の名前を手帳にメモってしまう人もいるんじゃないでしょうか。この作品自体は鉄道の置き石みたいなもので(不吉な例えで申し訳ない)、これ自体よりも、この先に起こる何かに意味があるというか、そういう感じがしました。長々としたものになりましたが、僭越ながら一言だけ堀内監督にメッセージを書くとすると、突き抜けてください。私の世代でも、もっと前の世代でも、見たことのないようなものを作ってください。期待してます。