『だれでも一度は、処女だった。』千木良悠子・辛酸なめ子

 『よりみちパン!セ』(よく間違えて『よりぬきパン!セ』と言ってる人を見かけます)の新刊です。パン!セのシリーズはよく買うのですが、たまーにピンポイントで献本いただきます。この本は「読みたい。でも……」とためらっているところに届きました。


 この本は、まず著者の千木良さんが自分の母親に処女喪失についてインタビューするところから始まります。そして処女を失った人へのインタビュー、処女の人へのインタビュー、男性へのインタビューへと進んでいく。お母さんへの二度目のインタビューもあり、おばあちゃんへのインタビューもあって、千木良さん自身の処女喪失も語られていて、このへんのことはすごく面白い。


 構成もいいし、千木良さんの文章はやさしく、偏見がなくて、デリケートな問題を扱うがゆえの思いやりや苦悩も垣間見えたりしてとてもいいと思うのですが、そういう問題じゃなくて、この本、私にはとってもしんどくて、なかなか読み進められなかった。途中なので何かを書くのは良くないと思うのですが、これ以上読めると思えないので、あまり本の内容と関係ないけれど、自分がなぜこの本を全部読めないのか、とてもいい本なのになぜ読めないのか、理由を書きます。


 数年前から、知り合いのライターさん(男性)が、ネットで「いわゆる普通の男性に、童貞喪失の体験談を聞く」というインタビューをしていて(※注・昔のブログみたいな書き方をしておりましたが、現在も更新中です! 大坪ケムタさんのブログです。誤解を招く書き方してすみません。このブログも、千木良さんの本も、別におもしろおかしく書いてあるわけではないし、真摯です。そこは誤解なきように)、周りでは「面白い」「本にすればいいのに」と大評判だったことがあります。私はそのサイト、見たんですが、インタビューや文章がどうという以前に「見たくない」気持ちが先に立って、全部読めなかった。


 自分の処女喪失が壮絶につらかったとか、そういうことは全然ないんです。それにインタビューするときは女優さんに「初体験は?」とかだいたい聞いてるわけですから、そういう話が耐えられないほどイヤなわけでもない。でも、なぜだか処女喪失や童貞喪失の話を「面白く」「楽しく」は読めない(別におもしろおかしく書いた本じゃないし、ところどころにユーモアを交えながらも、いやな感じのふざけ方は全然していない本なのですが)し、きちんととらえられればとらえられるほどつらい。だから読んでいても、その人の体験のことより「なぜ自分は、この本を読んでてこんなにつらいんだろう」という気持ちばかりが先に立ってしまいました。


 千木良さんのお母さんは、自分の初体験について、かたくなに語ろうとしません。「娘だから恥ずかしい」っていう照れの問題じゃなくて、はっきりと「話したくない」というのがある。


 私は自分の処女喪失について語るのは、別に平気です。そんなにイヤじゃないし、自分から進んで言ったり、書いたりしたこともあると思う。処女喪失にイヤな記憶はありません。つらかったとか痛かったとかもほぼ覚えてない。ただ「自分は男の人に欲情された」ということが信じ難いくらい嬉しく、ようやく「女として生きてもいいんだ」というふうに思えて、目の前が明るくなるような感じがしたのをはっきり覚えてます。


 その処女喪失の相手のことや、その人とのその後のことも、覚えてはいるけど忘れられないとかトラウマになるとかいうこともなく、時の流れとともにいい感じにぼやけてきました。


 じゃあ、何がそんなにきついのか。なぜ童貞喪失物語、処女喪失物語に拒否反応を示してしまうのか。


 私は、自分の処女喪失についても、女をこじらせて劣等感バリバリだったことについても、ある程度克服した気持ちになっていたし、書いたり話したりできる程度にはそのことを俯瞰で見れるようにもなっている。


 ただ、処女喪失自体はなんの傷にもなってないけど、セックスについてきつい記憶や、いまだに思い出すのがつらい記憶、恋愛とセックスの絡んだ部分のことについては、封印しておきたいものがある。


 封印しないと、今までの努力が全部ムダになってしまうんです。少しずつ少しずつ、自分のことを好きになろうとして、牛歩の歩みでがんばってきたのに、そのことを思い出すと、高速道路を逆方向にズズーッと何百キロも引きずられるような感覚になる。そのことについて具体的なことを聞かれたら、私ははっきり「話したくない」と思う。


 童貞喪失、処女喪失って、他者との初めての肉体的な関わりの問題で、経験する前は「処女喪失」に至る道のりこそが最も不安で、拒絶されたらどうしようとか思って触れるだけで本当に震えたり、動けなかったりしてみっともなくて、興奮してることも恥ずかしいし、恥ずかしいというよりもっと強烈に不安だった。気持ち悪いんじゃないか、自分は。興奮してる自分は、気持ち悪いんじゃないか。痛みよりなによりそんな自分を他人に見られることが、それを見られてどう思われるかということが一番怖くてしょうがなかった。一晩過ごしたのに、腕時計をしたままだった。外すタイミングがわからなかったし、腕時計のことなんて考えてる余裕はなかった。


 処女を喪失したことで、私は「自分は、気持ち悪くない」と思えた。単純だが「他人から求められた」ことが本当に嬉しかった。


 でも、その後、処女喪失よりも怖いことや、処女喪失よりも痛いことはいっぱいあった。いや、いっぱいじゃないけど、いくつかのことがまだ痛くてたまらず、乗り越えられていないと感じる。


 処女を喪失したら、階段を上るようにして少しずつ変わっていけるもんだと思ってた。でもそれからセックスの経験が増えても、恋愛の経験が増えても、それで自信がつくわけではなかった。それどころか「自分は気持ち悪くない」と思えた、あのときのささやかな自信すら喪失するような出来事がいっぱいあった。処女のときよりも、今の自分のほうがずっと気持ち悪いんじゃないかと思うような言動をとって、気持ち悪いと遠ざけられた。でも、気持ち悪くなりたくてなってるわけじゃないんだよね。大人だから、自制しなければならないんだろうし、そうしなければ人と、つきあっていくことはできない。けれど、自分の感情ってそんなきれいなものや管理できるものだけでできてない。


 「本当に好きな人とのセックスは気持ちいい」とよく言われるが、私はそれを素直に口にすることにためらいがある。そう思ってるけど、それがどんなに甘く幸せなことか知っているけれど、その味を知ったあとで裏切られたり、それがうそだったことがわかったりしたときのことも知っているからだ。「本当に好きな人とのセックス」は、天国だけど、場合によってはそれが一瞬にして地獄に変わる。何も知らなければ良かったとさえ思う。


 処女喪失の話を、「すっかりのりこえてきたこと」として笑って話せる自分の裏側に、いちおう人並みの体験は済ませたものの、ほんとのところ「何にものりこえられていない」自分がいる。自分の写真が、自分のからだが、自分のこころが気持ち悪い。誰かに拒否された記憶は、こんなにも残るものなのかと思う。このひとしかいないと思い詰めて、拒否されたあとに違う恋愛もあったのに、ずっとずっと傷は残り続け、その「気持ち悪い自分」こそが、変えようのない自分の本質なんじゃないかと思ってしまう。


 私はこの日記に、自分の写真は基本的に載せないようにしている(最近フライヤーで一度載せましたね)。雑誌にも、昔はかたくなに写真を載せるのを拒否していた。おととしぐらいから出すようになり、今は他のサイトにも写真が出ているからすぐ見つかる。写真を出したくなかったのにはいろいろな理由があるけど、一番大きかったのは自分の恥部を見られるかのような恐怖感だった。単純にこわかった。ぶさいくかどうかとかいう問題じゃない。写真を出したら「ブス!」とののしられるのは当然だし、別に美人じゃないからそんなことはどうでもよかった。「美人ライター」とかテキトーなこと書かれて持ち上げられたゲタが脱げてすっきりするぐらいだ。私は自分の写真が「気持ち悪かった」し、それを多くの人の目に晒すのは、自分の心の中のいちばん触れられたくない部分を人に晒すことと同じに思えて、頼むからそういうことはしないで欲しい、なんでそんな残酷なことを簡単にやれって言えるんだと思っていた。


 何か乗り越えられたから、写真出してもいいやと思えるようになったんだと思うけど、それでもこういう本を読んだりすると、自分の写真がやっぱり気持ち悪くて、誰にも見られたくない気持ちになる。うそだ。誰にも見られたくないんじゃない。自分のことを「気持ち悪い」と去っていった人に、これ以上自分の顔を見られたくないだけだ。整形してどうにかすればこの気持ちがなくなるのかと思ったこともあったけど、なくなんないだろう。見られたくないのは顔だけじゃなくて、心も、からだも、気持ち悪い自分の全部なのだから。


 処女喪失や童貞喪失の話を読むと、その「乗り越えた」話のあとの、勇気を振り絞って恐怖と恥ずかしさと格闘して「やっと乗り越えた」あとの、「それでも乗り越えられない」もののことを考えてしまう。簡単に言うと「そんなもんじゃないだろう」っていうことだ。ほんとの問題は処女喪失じゃないとこにあんじゃないのかと思ってしまうのだ。


 わたしは、できることならもう一度処女を喪失したい。できることなら、他人の力だけに頼るのではなくて、自分で自分のことを受け入れたい。他人にからだを受け入れてもらったことは、今思えばほんとに、最初の最初の一歩でしかなくて、結局は自分が自分を受け入れるしかないのに、そのことがまだわたしはきちんとできていないのだと思う。気持ち悪い自分、他人に気持ち悪いと思われた自分、死ねよって思う気持ちを、克服して喪失したい。


 そんなおそろしいことが待っているなら、なおさら処女喪失も童貞喪失もしたくないと思う人もいるだろう。しなくてもいいと思う。自分のことを受け入れられるなら。でも自分のことが嫌いだったら、処女喪失や童貞喪失よりもそれを乗り越えるのはずっと難しいことで、苦しいことだから、だから、薬飲んででもいきのびてほしいと思う。私は自分のことがどんなに気持ち悪くても、死にたくなることがあっても、自分から死ぬことに対してものすごい怒りがある。生きることが正しいと思いたいんだ。生きることで乗り越えられるものがあって、すっきりした顔になれるときがいつか来るんだと思いたいんだ。その希望をつぶそうとする自分に対して、自分で怒り狂い、悔しくなる。格闘ばかりだ。


 処女喪失や、童貞喪失について、私は、なにか過剰反応してしまうところがある。だから、この、とてもいい本を素直に読めなくて、申し訳ないと思った。いつか、素直な気持ちで読んで、この本が気持ちに寄り添ってくれる日が来るのだと思いたい。