暗黒舞踏の思い出

★たまにブックマーク見るのですが(コメントして下さっている皆さん、ありがとうございます)いつもキュートなコメントを寄せてくださっているyoneyaccoさんが「漢」というタグをつけてくださっていてびみょうな気持ちに……(うそです嬉しいです)。「漢」! かっこいー。


★だいぶ前に、『エクス・ポ』の編集を担当されていた奔屋の小西さんが、舞踏家・大野一雄の写真がジャケットに使われているCDを買った、と書かれていて、大野一雄というひとのことを思い出した。


 私は1976年生まれで、大学進学を機に18歳で上京した。寺山修司に憧れ、澁澤龍彦に憧れての上京。世間はルーズソックス全盛、ギャルの先駆けの世代だったのに、私はひと時代遅れてきた家出少女だった。


 上京後間もなく、『ぴあ』で大野一雄の公演があるのを知り、当日券に並んだ。その後、多分一年生のときの夏休みだと思うが、同じく『ぴあ』の欄外のお知らせコーナーで、アスベスト館の短期ワークショップがあることを知り、申し込んだ。


 アスベスト館といっても、当時土方巽はすでに亡く、土方さんの奥さんである元藤?子先生が講師をつとめ、連続6日間、昼休みを挟んでのまる一日の授業があった。


 一日中からだを動かすことばかりしていたわけではない。午後の時間は土方巽の貴重な公演の映像を見せてもらったり、評論家の先生が来て話をしてくれたり、いろんなことがあった。


 生徒の中には、山海塾にいたという人もいたし、バレエなど他の踊りをやっている人もいた。おもに芸術好きの人が多かった。「私、人の足の裏の写真撮ってるの」などと自己紹介する年上の女がいたりして、何だかしらけた気分になった。


 その中にひとり、誰と話すでもなく、なんとなく浮いている感じの女の子がいた。年齢は私と同じくらいだろうか。気になって話しかけてみた。「本とか読む? 好きな作家は?」と聞くと、その子は「……言うと、すごくありがちで恥ずかしいんだけど、村上春樹村上龍が好き」と照れくさそうに言った。ここに来て初めて、見栄じゃないほんとうの言葉を聞いた気持ちになった。


 5日目だったと思う。その日は、朝から大野一雄先生が来た。先生は三枚の絵を私たちに見せて、ひどく抽象的な話をされた。その後「では、みなさん宇宙の塵になって遊んでください。始め!」と、手を叩かれた。


 私も含め、生徒のほとんどは戸惑っていた。それまでもテーマを与えられて自由に踊る課題はあったが、経験者以外はそれぞれ自分を「頭がよい」風に見せようとして、頭をからだが越えられていなかった。その中でも「宇宙の塵」になって「遊ぶ」という課題は、理解することも、表現することもたやすくない、てごわい課題だった。


 大野先生が手を叩かれて一瞬、あの浮いていた女の子が、大声を出して泣き始めた。その場に座り込み、何も構わずに泣き叫び始めた。「うわーん」としか表現できない彼女の泣き声が響く中で、わたしたちはわけのわからない動きを続けていた。


 そのときのことを思い出すと、自分がとても嫌いになる。あの「うわーん」ぐらい正直な反応は、なかったのだ。こんなことを書くと頭のおかしい人間と思われかねないけれど、大野一雄先生からは、ただすべてを受け入れてくれるような愛情が、アスベスト館をいっぱいに満たすほどに広がっており、それを初めて感じたら「宇宙の塵」どころじゃなかったのだ。ほんとうは、私だって、泣きたかった。なにかが内側から溢れ出すような、そういうことを誘発する感じが、大野先生にはあった。


 「宇宙の塵」は、本当は喜びに満ちたものかもしれない。感情なんかないのかもしれない。わからない。ただ、あのときは、わたしも泣きたい気持ちになったし、そうしていれば、宇宙の塵を踊ることはできなくても、頭をからだで越えられたかもしれないのだ。


 わからないなら、馬鹿になればよかった。気持ちのままにすればよかった。一緒に泣いて、彼女を抱きしめればよかったと思う。宇宙の塵のことなんて、わからない。宇宙の塵に気持ちがあるかなんてわからない。宇宙の塵がどう動くかなんて、わからない。でも、私という人間も、そもそも宇宙の塵みたいなものであって、その宇宙の塵が、いいなと思うべつの宇宙の塵に出会ったら、抱き合って泣いたっていいんじゃないか。


 彼女は今ごろ、どうしているだろう。頭を、からだで乗り越えることができた彼女は、たぶん生の人生を生きているんじゃないか。それは、どんなものだろう。どんなに素敵なものだろうか。