女をこじらせて

 こないだ飲みの席で「私もいろいろこじらせてたからさ〜」と言ったら、ライターの先輩の女友達に「過去形じゃなくて今もこじらせてるでしょ!」と鋭角すぎる(10度切ってるね。鋭利な刃物に近い角度)ツッコミを入れられた雨宮です。みなさんお元気でしょうか。


 「こじらせてる」ということについて、私は長年こじらせてきたので、自分の意志にかかわらず「こじらせ研究家」にならざるを得ない部分があるのですが、長年の研究の結果わかってきたことでひとつ大事なことは「こじらせ」には自分が原因のものと、そうでないものがあるということです。


 自分が原因のもの、例えば自分のことを自分で美しくないとか、恋愛するのに向いてないとか、コミュニケーションが苦手だとか才能がないとか、そういうふうに「自分で」判定し、「どうせ自分なんて……」と思ってる「こじらせ」は、その気にさえなればある程度は自分で改善できると思う。他者ではなくて、自分で自分を責めて、いじめているわけだから、責めていじめた自分が自分に対して態度を変えれば、変わることができると思う。まぁ、こんなあっさり言うほど簡単じゃないし、実際は何年も何年もかけて少しずつ解きほぐしていくもんだと思うけど、それでも自分に起因している「こじらせ」は、まだ「治りやすい」し、自力で「治せる」部分があると思う。


 問題は、自分が原因でない「こじらせ」だ。っていうか、今言ったことをまぜっかえるようだけど、まず「自分が原因のこじらせ」と「他者がかかわっているこじらせ」を正確に分けることは難しい。自分で「自分ってかわいくない」と思っているところに、他者が「お前ブサイクだよな」という言葉を浴びせた場合、自分起因のこじらせが他者によって補強されちゃうわけで、両方のせいになってしまうし、実際こういう複合的な要素によってこじらせの度合いがどんどん深くなっていく場合が多いからである。


 「こじらせ」に他者が関与している場合、その「こじらせ」は、ほとんど呪縛であり、呪いである。自分の思い込みよりも「人に○○と言われた」ということは、「自分が○○である証拠」として心に残ってしまうからだ。自分で自分のことをものすごいぶさいくだとかスタイル悪いとか思い込んでるのと、他人に実際に「そう言われた」というのでは、こじらせ方が違ってくると思う。


 ここで重要なのは、「他人に○○と言われた」人のほうが、「自分で○○と思い込んでる」人と比べて、必ずしも劣ってるわけではないということである。自分の中では「最近太ったな〜」と自分で思っていることよりも、他人に「太ったね!」と言われることのほうがショックが大きいし、「太った」という認識が自分だけのものでなく、客観的な事実として立ちあらわれてくるのだから、逃れられない事実のように感じてしまう(ま、ほんとに太ったよね〜って、まぎれもない事実だったりすることもあるわけですが)。けど、それはあくまでもただ一人の人がそう言っているだけのことで、「客観的な事実」でない場合も、もちろんあるのだ。


 例えば、ある男性から「お前色気ないな〜」と言われたとする。その男性とは仕事上の関係があり、色気なくつきあわなければいけない関係だったとする。その場合「お前色気ないな〜」は、ある一面から見た自分であって、「客観的に見た自分そのもの」ではない。もっと言えば、「すべての人が自分を客観的に見て全員そう思っている」という「絶対的に客観的な事実」なんて、ほぼ存在しないのではないかと思う。「デブ」「ブス」はさも絶対的な事実のように言われてたり、そう思われてたりするけど実際は「でも、俺はけっこうああいう顔タイプ」とか「太ってる子好きなんだよね〜」っていう意見がゴロゴロあったりもするわけで(もちろん「デブ専に好かれたくない!」とかいうまたややこしい自意識との戦いはあるわけだけどさ)、否定的な言葉がそのまま「好悪」に結びつくかというとそうではない。言葉のニュアンスももちろん関係ある。子供の頃、男の子とケンカするとムカついた相手が言う言葉はたいがい「ブス!!!」だ。それは本当にその子がブスかどうかには関係ない。でも、そういう「ある一面だけを捉えた言葉」や、「苦し紛れに言った否定の言葉」を本気にして、その言葉にずっと捕われてしまうことがある。


 そういう例はまだ些細なことだし、自力でその呪いを解くこともできるかもしれない。友達が「そんなんただ苦し紛れに言っただけじゃん」とか「そんなこと絶対ないよ!」とか言ってくれれば打ち消せる程度のことかもしれない。同性間(特に女性同士)のホメ言葉は、よく偽善的なものとして語られがちだけど、実際に女同士でも「このコのこういうところが好き」「(レズビアンでなくても)このコ、タイプだな〜」と思うことはあるし、長年つきあっていて「なんていいコなんだろう」と思って、その人の表情ややることなすことがかわいく見えてくることだってある。「友達が言ってくれた肯定的な言葉」には、私は人を救う効果があると思う。だって、それは同性であろうと何であろうと「自分のことを好きな人が言ってくれた言葉」なんだから。あなたのことなんてどうでもいい人たちが無責任に口にする「あの人って美人だよね〜(orブスだよね〜)」という言葉より、そのほうがずっと大事な言葉だ。なのに、多くの人は、無責任な「お前はブス」という言葉のほうを信じて、身近な人の「そんなことないよ」という言葉を信じない。否定のほうが信じやすいし、真実を語っているように見えやすいから。でも、そういう心の状態こそが「こじらせてる」んだと私は思う。そういう場合は、ただ開けばいいだけだとも思う。耳の穴をかっぽじってな!


 深く深く、表面的な傷が治ったあとも皮膚の中に残る棘のように残り続けて消えないのは、異性関係/恋愛関係(これは異性に限らないよね)での「こじらせ」だと思う。


 例えば浮気された、浮気相手が自分より若くて美人で巨乳だった。これだけでもう一生残ってもおかしくない。整形して若くて美人で巨乳になっても、たぶん、どうにもならない。浮気相手だと思っていた相手のほうに彼氏がなびいて、そっちに本気になって「君とは別れたい」と言われた。これは相手の容姿も関係あるかもしれないが、「自分の方が人間としてダメなんだ」と思えてくる。見た目のダメージもデカいけど、「長く付き合っていく相手として選ばれなかった」ということのダメージも相当デカい。


 それは「たった一人の人間から否定された」「選ばれなかった」ということでしかないんだけど、その相手が「自分がこの人しかいないと思うくらい好きな人」だった場合、神様に否定されたのと同じようなダメージを受けて、それがずーっと何年経っても抜けないということがある。


 表面上は傷は癒えているし、毎日がそのことでつらいということはない。けど、また別の相手と恋愛の行き詰まりの場面を迎えたときに、その記憶とともに「自分はダメなんだ」という強い強い否定感が襲ってくる。


 私の場合、この否定感を、自分にダメージを与えた相手との復縁という形で解消しようとした。でもダメだった。「覆水盆に返らず。別れた相手とはそれなりの理由があって別れたんだから、復縁なんて考えるのはムダ」(by秋元康/うろ覚えだが出典は『olive』の恋愛相談だった)という名言をかえりみることもなく、結局やっぱりダメなのだ。だって、その復縁の理由は「相手のことが好きだから」以前に、「ダメな自分を認めてほしいから」になっている。


 当たり前だけどダメな相手となんて誰だってつきあいたくない。人間には誰だってダメなところがあるけど、「ダメだけどしょうがないでしょ。好きなら全部受け入れてよ」と言われてもキツい。自分もキツいことを相手にやれって言ってもしょうがないし、不毛だ。でもこの不毛は繰り返す。どういうことかというと、相手を変えて、自分の「誰かに否定されたダメなところ」を「認めてよ」と言い続けるという形で、それが恋愛(もしくは、恋愛以外で他者の承認を求める関係)のパターンになっていくという最悪の循環を繰り返すのだ。


 その呪いは、一見自分で自分にかけた呪いと形は違うように見えるけど、やっぱり自分で自分にかけた呪いに違いない。他人の発言という「根拠」があるかないかの違いだけで、結局どちらも自分で自分にかけた呪いなのだ。自分で勝手にある人間を神様のように思い込み、その人の言うことは絶対だと信じ、たとえ周りに自分を受け入れてくれる友人や、新しい恋人や、家族がいたとしても、それはみんな「自分に対してジャッジの甘い人」だとしか思えなくなってしまう。それが自縄自縛の呪いでなくて、何であろうか。


 言われてもないのに貧乳だとか顔がキツいとか(ほんとだけど)コンプレックスになっている部分を言いつのって「そんなことないよ」「俺は好きだよ」とか言わせて、何が楽しいんだろう。自分のことだけど。だまって裸で寝そべって、ほかの人には否定されても、その人は好きかもしれない貧乳を、見たいだけ見せてあげればいいじゃんか。愛し合うひとの裸が、お互いにとってどれだけうつくしいものか、そういうことをしたことがある人なら、知っているでしょう。世界中の誰もがその光景をうつくしくないと言ったとしても、本人同士にはうつくしい。それは滑稽なことなんかじゃない(感覚としてわからなかったら『オアシス』という、韓国映画を観てね)。昔の「神様」の「呪い」にひきずられたままのからだを他の、自分のことを好きでいる相手にさわらせるのは、良くない。呪いの呪文のあとを、せめて自分で洗い流して行かないと、失礼だと思う。


 私は「ブス」という言葉が嫌いだけど、面と向かって言われてもそんなもん鼻息でフンッと吹き飛ばせるぐらいにはなっているし(だって昨日今日突然こんな顔になったわけじゃないし、気にしてたら外歩けないYO!)、いいトシになっていいあんばいに諦めついてきたのもあって、容姿のことで強烈な苦しみを味わうのは年に8回ぐらい(具体的〜! 今年に入って2.5回だから3倍して四捨五入してみた)に減ってきた。それは長年、自分で自分の呪いを解こうと思いつづけてきた成果だと思う。自分で自分を否定しない、自分のなりたい自分になることをおそれずに、ずうずうしく理想の自分になろうとする。それが私が自分でやってきた「呪いを解く方法」だ。


 ほかには、自分にばかり目を向けないということもある。自分がどんな自分であっても、面白い映画を観れば面白いし、いい音楽を聴けば気持ちいいし、そこには単純で純粋な「快楽」がある。その「快楽」を知っていれば、その力を借りてべたっと転んだとこから立ち上がることもできる。何よりそんな「快楽」を知っている自分は、ちょっといいでしょう。


 自分の力だけで呪いを解いたわけではない。呪いを解こうとしはじめたときから、新しい友達ができるようになった。解こうとしなかったときには感じてなかったけど、自分で自分を呪っていた自分は「閉じて」いたんだと思う。解こうとしていると、友達ができた。そして周りの人が呪いを解くのを助けてくれたと思ってる。


 何をやっても「自分はダメだ」というループに落ちていくのはわかるし、周りに人がいたらいたで、その人たちの期待を裏切る自分、その人たちに大事にしてもらっているのに、自分自身を大切にできない自分を余計に許せなくなるというのもわかる。そういうときに死にたくなるのもわかる。けど、その呪いは待っていても誰かに解いてもらえるものじゃない。自分を呪ったまま、その呪いにとらわれたまま苦しみ続けるのは「自分の選んだ人生」なんだ。そうじゃない人生を送るためには「自分で自分を呪わない人生」を選ぶしかない。「呪う人生」しか選んでこなかった人間には、その選択がものすごく難しく、苦しく、考えただけで涙が出てくるくらい、絶望に押しつぶされそうな選択であることも、わかっている。ただ、一歩踏み出しさえすれば、手伝ってくれる人はいる。「こんがらがってるのはそこじゃなくて、ここだよ」と指摘してくれる人もいるし、ひものはじっこを持っててくれる人もいる。呪われてるのは自分だけじゃなくて、苦しんでるのも自分だけじゃない。「呪われている」のは、特別なことじゃないんだ。だから、苦しんでいること、呪われていることそのものにアイデンティティを見いだしてはいけない。それがどんなに深い深い苦しみで、私の想像を絶するようなものだったとしても「この傷は絶対に癒えない」という形で、傷を受け入れてはいけないと思う。


 何度失敗しても、私は「自分で自分を呪わない人生」を選択したい。


 袋小路に入ったら、お風呂にお湯をはって、好きな香りのバスソルトを入れて、髪を洗って、からだを洗って、洗いたてのバスローブを着ればいい。きれいでいい匂いのする自分を、きらいになるのは難しいから。そうやって、少しずつ、きらいになるのが難しい自分になってゆけばいい。



 っていうかこじらせてる人はこれを読むといいよ!↓
http://blog.livedoor.jp/natsukimatsui/archives/788602.html