『自由をつくる 自在に生きる』森博嗣

森博嗣は私が世界でいちばん好きな小説家ですが、そんな森さんが「自由というものは何か」「自由になるためにはどうすればいいのか」を書いた本を出されました。


 「自由」ということについて、多くの人は(自分も含め)わかったつもりになっている。これを読み始めたとき、ぞくっとして、そのあとは息苦しくなったり、泣けてきたりした。それは自分の苦しかったことの多くが「不自由」に根ざしているものだったと気づいたからであり、なんとなく感じていたことが言葉になっていたからで、「自由」を言葉にしたシンプルさが凄い本、だと思った。自分がなぜ森博嗣を好きなのか、そのことをうまく説明できたことは一度もないが、自分の中では「なぜ好きなのか」が、この本を読んですとんと腑に落ちたような感じがあった。


 私にとって、森博嗣という人は遠い人である。自分と似ているから大好きとか、小説にものすごく感情移入できるから好き、というのではない。自分には想像もつかないこと、自分の発想力では発想できない高みにいるように思えるから好きなのであって、あこがれに近い気持ちだ。森博嗣の本を読むと、いかに自分が綺麗でない思考や生活をしているか、ということを感じることがある。


 森博嗣がこの本の中で「自由」「不自由」という言葉を使っている部分を、私の感覚に置き換えるとそのまま「秘密」「めんどくさい」という言葉になる。いきなりそんなこと言われても意味がわからないと思うが(この本を読んでてもわからないよね、こんな言い方)こう置き換えるとしっくり来たのだ。たぶん、しっくり来る言葉は人によって違うだろう。


 私は「他人の目を気にする」人間だと思う。いや他人の目を気にしてたらエロライターとかいう人聞きの悪い仕事はしないのかもしれないので、そういう「大きな単位での他人の目」は気にしなくても、「自分の周りの人の目」はけっこう気にする。誰と会うかによって服を選ぶし、言葉を選ぶ。そのこと自体は私にとって、あまり苦痛ではない。むしろミッションをこなしていく感覚で楽しいぐらいだ。そういう性質なのだろう。


 けど、そういう自分にも、他人には見せられない部分がある。まず、自分の家の中がそうだ。自分の家の中は、他人の目を気にせず、完全に自分の好きなように、過ごしやすいようにしてある。「素敵〜」とは絶対言われないインテリアだ。どういう本を読んでいるか、どういう音楽を聴いているか、どういうものを本当に気に入って大事にしているのか、そういうことは私にとっては「秘密」である。「秘密」の部分について聞かれたら、相手に合わせた、相手が理解してくれそうな答えを言う。「秘密」を面白がってくれそうな人なら、本当のことを言うかもしれない。別に本当は秘密にするほどのことではないのだけど、私の興味の方向はてんでばらばらなので、たとえばふたつの好きなものを挙げると、両極端なものが並んでしまい、その中間は全部知ってるように誤解されたりする。「このアルバムが最高に好き」と言っただけで、そのアーティストのCDを全部持っているかのように思われたりする(その一枚しか聴いてなくて、それ以上聴く気がないことも多い)。そういうことが面倒だから話したくないだけで、家についても同様だ。色んな意味で偏っている。この「秘密」の部分は、私の「自由」の部分だ。仕事に対する考えもそのうちのひとつだと思う。


 面倒だ、と書いたけど、不自由だと感じることは、私にとっておおむね「めんどくさい」ことである場合が多い。嬉しいはず、楽しいはずのことに対して「めんどくさい」という感情がわくと、ささいな違和感でもそれがなぜかよく考える。だいたい謎はあっさり解ける。つまらない例を出すと「打ち合わせ」とか「プレゼン」と聞いていたのになぜか飲み会をセッティングされていて、こちらが資料や企画を用意していってもみんなお酒飲んでてメモひとつ取らないで帰ったとか、そういうことだ。その仕事自体はとても面白そうだったのに「めんどくさかった」と感じた。「めんどくさい」と感じることは、「今度は違うかもしれない」と期待しても結局同じ結果になることが多いので、めんどくさいと感じることからは全力で遠ざかるのがいちばんストレスの少ない方法だと私は思う。


 自由が秘密で、不自由がめんどくさいことだと言っても、自分以外の人がこの感じにピンと来るという自信はまったくない。あんまり気にしないでほしい。森博嗣のこの本は今息苦しいとかこれからどっちに進んだらいいかわからないとか、不安を感じるとかいう人は一度読んでみる価値があると思う。人によってはよけいに不安になるかもしれないけど。私にはおおいに役立つ、この先何度も読み返す人生の基本のような本になった。


 面白いなと思ったのは、私は自分の「秘密」の部分を、自分の好きな人たちには、「めんどくさい」を乗り越えて伝えたがる傾向があるということだ。他者との交流はだいたいめんどくさいものである。私は他者の前ではなるべく「わかりやすく」ふるまおうとする。わかりやすい服を選び、混乱を避けようとする(変な服でも混乱しない人の前では好きなようにする)。自分の「秘密」の部分は、「わかりにくい」という自覚があるから秘密なのだ。自分でも好きなものについて「これがこうだから好きだ」と全部説明はできない。その「わかりにくい」部分を、「めんどくさい」ことを通じて伝えたくなるってなんなんだろう。理解してもらえる、という確信があって伝えるのとはまた違う。好きな人に伝えたいと思うときは、「めんどくさい」を感じない。理解してもらえる、という確信がある人に伝えるのは、もちろんめんどくさいことそのものがない。ストレートに一発で伝わる。わかりやすく言い方を変える必要もなければ、全体のバランスを取る必要もない。「○○が好きなんて意外ですね」と言われることもない。


 宇多田ヒカルの歌で「あげたい 君の知らないCD一枚」という歌詞があるが、私はそれを、切れるように鋭い愛情表現だと思う。


 自由ということの話に戻ると、私はある一時期、たぶん数年の間、AVの世界で受け入れられたい、認められたいという思いを持っていたことがあった。AVについてより深く知らなきゃいけない、といつも思っていた。あるとき仕事が苦痛になり、AVを観ることが楽しくもなんともない「お勉強」みたいになった。なぜ苦しくなるのかわからなかった。


 ふっと「私はAVは好きだけど、AV業界は別に好きじゃない」と思ったら楽になった。AVの全部を知ることなんて不可能だし、一ヶ月にリリースされているAVを全部観ることも不可能だ。何も知ろうとしないで誤解や偏見に満ちたことを書くのはおかしいけれど、一作一作を真剣に、先入観をなるべく排除して観れば、それなりに誠実に書けるのではないか。っていうか最初はそうしていたよね。全員に認めてほしいとか思ってるからおかしくなるのだし、AVだってもし嫌いになるときが来れば嫌いになったり、飽きたりしてもいいんだと思った。飽きっぽいんだから「ずっと好きでいなくちゃいけない」というのが無意識にプレッシャーになっていたのだと思う。もちろん、いきなり飽きたり嫌いになったりすれば、いろいろ言う人もいるだろうし「そんなのは本当に好きだとは言えない」と言われるかもしれない。昔は、そういうことを考えると胃のあたりがぐっと沈むような、そういう感覚に陥ることがよくあった。


 今では、どうしてそんなどうでもいいことにこだわっていたのかわからない。業界に認めてもらうって、どんな状態のことかもよくわからないし、何を目指していたのかもよくわからない。なぜそんなことを考えていたのかも不明である。何か、名誉みたいなことが欲しかったんだろうか。AVに操を立てるみたいなことを思っていた気がするが、それは全部「自分はAVが好きで、そのことを理解して欲しい」という気持ちの顕われだったように思う。もちろん、業界に認めてもらっても、誰に評価されても、その乾きは癒えなかっただろう。「自分はAVが好きで、ほかにも好きなことがあって、それが自分にとっては当たり前」だと思ってからは、そういう乾きはなくなった。きっかけなんてない。ずっと考え続けた結果でしかないと思う。苦しかったから、答えを出さないと生きてるのが苦痛だったから、考えた。結果とても楽になった。それが、私がかすかに感じた自由というものの片鱗で、いまも見えている光だと思う。



自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

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