「好き」がオシャレを妨害する

 昨日初めて新宿のH&Mに行ったら、セールで服が500円とか1000円とかでばんばん売られていて、定価のフロアに行っても定価でもやっぱ安くて、最初は喜んでこれもこれも欲しい〜! ってなってたのですが、途中で急速に気持ちが醒めてきました。


 「こんなに安くてオシャレな服があるのに、私はなんでオシャレになれてないんだろう……」とふと鏡を見つめて考えてしまったからです。


 着てる服を見ると、べつに気に入ってない服や、ぼろい服をいやいや仕方なく着てるわけじゃないんです。むしろ好きな服、気に入った服を着てる。なのに、それが変。一点一点は好きでも、全体のバランスが悪い。


 私はほんとうにオシャレな人のセンスというのは、才能だと思うので、そこに追いつこうとは思ってないのですが、そこそこオシャレにはなりたいと思うんです。服やらアクセサリーやらも買ってます。ときにはH&Mより高いお金を払って……(いやH&Mも着てるんだけど)。なのになぜ、こんなことになるのか。


 考えてみたら、自分が服やアクセサリーを選ぶときって、それが「好き」か「似合う」かの二点しか考えてないんですよね。夏ならまだそれでもいける。合わせる服って上下二点でいいし、あとは靴とバッグ、服に合うものを持ってればいい。その夏もちょっとあやしい(合うサンダルがない! とかよくあります)のに、ましてや季節は冬です。服と靴は合ってるかもしんない。でもコートとマフラーはその服に合ってんのか? とか考えると、合ってない。でも寒いから着てきちゃってる。


 H&Mの安い服の山を見ていると、「好き」にはじまる自分の中の「こだわり」みたいなのをすっぱり捨てて、全体のバランスのみを考えてサクサク全身コーディネイトして服を買うほうが、オシャレになれるんじゃないかという気がしてきます。


 でも、それでオシャレになれて嬉しいのかっていうと、やっぱ、たぶん、嬉しくないんですよね。難しいけど「好き」なものを上手に着れるように頭を使うほうが楽しいし、好きなものを身につけている喜びのほうが大きい。


 「好き」とか「こだわり」とかがなければ、サクサク他人目線でオシャレふうに見えるコーディネイトで服を買って、いまふうな感じになれるんだろうなーと思うけど、なれない。ちょっとださくても変でも自分の好きな服のほうがいいと思うけど、オシャレなお店でふと鏡に写る自分を見ると「ガーン!」とかなしい気持ちになることもあって、心は揺れます。


 「好き」や「似合う」を極めるのがオシャレの近道だとずっと思ってましたが、じつはそうじゃなくて、パッと見オシャレな人になるためには、そんなものないほうがサクッとなれるんじゃないかなーと思います。


 けど、それってなんだか「衣装」みたいなもので、愛着や大事にしたいっていう気持ちはわかなさそうだし、そこがなんだか抵抗あります。服、好きですからね。べつにたかが服だから今っぽく、オシャレっぽく見せる「衣装」として利用してもいいんだろうけど、私はなんだかそれがだめなんです。今っぽくなくても、オシャレじゃなくても、今の自分の気分や感じにしっくり来るものを着たい。


 それは、ファッションで「自己表現」をしたいということなんでしょうね。服も自分の一部だと思うと、オシャレは難しい。服なんて衣装だと思えば、もう少し利口に賢く買い物ができるんだろうけど、いやファッションで自己表現をしたい人でも、上手い人は賢く買い物をしてると思うんだけど、私はそれができてないのだなー、と、H&Mで服を見てると思います。一万円ぐらいあればいくらでもオシャレな感じにできそうなのに、もっと高い服を買っててもそれができてないって、そういうことだよな。


 ちょっと「好き」や「こだわり」から離れた目線で自分を見ると、良くなるコツが見えるのかもしれない。他人の目で自分を見るっていうことかなぁ。そうすればオシャレっぽい人になれるのかも。


 でも、自分が好きなのはぜんっぜん世間の目とか気にしてないで自分の好きな服を好きに着ている人なんですよね。ははは。去年いちばん印象に残ったファッションは、シネマジックの『奴隷市場の女たち』の現場で見た音声さんのファッションでした。見たこともないファッションで、すっごいかっこよかった。


 オシャレっぽい人になれなくても、そういうふうになれてればいいんですが、どっちつかず……。今年も服の海を漂流することになりそうです。ファッションの世界は広大だわ……(草薙素子ふうに)。