ダーク週間 暗闇の中の子供・番外

 もし明日世界が終わるとしたら、私は恋人のもとへゆく前に、知らない男と寝るだろう。知らない男に、たくさんぶってくれるよう、からだじゅうに噛みついてくれるよう、首を締めてくれるよう、願って、その最中に世界が終わってしまって恋人と会えなくても、かまわない。ときどきそう考える。

 私の欲望には、二種類あって、ひとつはひたすらいやらしいだけの欲望だ。痴漢されたいとか、リモコンバイブでどうこうされたいとかそういうものだ。恥ずかしいことをされたいという欲望で、それは、好きな人とセックスしたいという欲望とわりと相性が良い。好きな人には、何をされるのも恥ずかしいからだいたいうまくいく。好きな相手でなくてもモラルや常識を相手に恥ずかしがることもできるから、必ずしも好きな相手でなくても良いのだと思うけれど、全然好きじゃない相手のときは、頭の芯のようなところが醒めていて、どうしようもない倦怠感が残る。興奮していても、ひとごとのようだ。楽しくやるにはその倦怠感が邪魔で邪魔でしょうがない。

 もうひとつは、いやらしい欲望と少し違っていて、傷ついたときにさらに傷を求めるような、そういう欲望だと思う。私は、顔をぶたれることや、踏まれることや、強く噛まれることや、首を締められることが好きで、それをされると、理性が飛んだように泣いてしまう。ものすごく興奮して、わけがわからなくなる。音があまり聞こえなくなるときもある。

 前者の欲望は、私にとっては気持ちよく嬉しいことで、娯楽に近い。そういうことを考えているときも楽しい。後者は、楽しくない。考えていると泣けてくるときがある。でも、強く強くそれを求めている。後者の欲望は、叶えられることは少ない。女の顔をぶつのを怖がる人や嫌がる人は多い。「なんでそんなことしなきゃならないの」と悲しそうな顔をされたこともある。

 誰かに愛されて、かわいがられて、自分の身に起こっているそういうことをぜんぶ「嘘だ」と思うときがある。嘘だとは言わないまでも、こんなのはあと十年やそこらのことで、年をとったら、まったくもてなかった10代や20代にそうされたように男から目を背けられて誰からも欲情されなくなるんだと思う。ババアって言われて、おばさんって言われて、セックスを語ることを気持ち悪いと言われて、そういうふうになるんだろう。すべて元通りになる。今の、こんな、ちゃんとセックスしてもらえる自分は嘘で、嘘でなくてもただほんのつかの間の夢のようなことなんだと思う。私がいま一番されたいことは、顔じゅうにセロハンテープを貼られてひどい顔にされ「ブスのくせにいっちょまえに感じやがって」とののしられて唾を吐きかけられることだ。それがほんとうのことだと思う。

 いまの自分は夢だから、夢の時間は短いから、一日でもセックスしない日があるともったいなくて気が狂いそうになるときがある。仕事して、なまけて、なんて無駄な時間を過ごしているんだろうと思うときがある。こうしている間に、すべてが変わってゆくのに。世界が終わりかけているのに。

 自分は、マゾヒストではないと思う。マゾヒストってもっと、純粋なものでしょう。自殺願望や自己否定を他人の身体を借りてやろうとする私のようなのは、マゾヒストではない。不健全なだけだ。

 本当は、今起こっていることは夢なんかじゃない。誰かと愛し合ったまま、年をとって、ずっと死ぬまでセックスすることだって、できないことじゃないはずだ。そういう人たちは実際にいる。でもそういうことを考えると絶望的な気分になる。私は、誰かに、本当にそんなふうに求められているのかと思う。今だけでいいんじゃないか。べつにずっと一緒にいたいなんて思われていないんじゃないか。そう思ってすがりつこうとしているのは自分だけで、相手はべつのことを考えているんじゃないか。そして、もしそうなったとしても浮気や不倫やさまざまな犠牲を払わなくてはならないんじゃないか。そうして、劣等感という名の小さな子供が私の手を取って暗がりの中にひきずり込む。本当のお前は私だろ、とみにくい顔を向けてくる。助けてくれよ助けてくれよと全体重をかけてくる。

 できるだけひどいことを、できる限りひどいことをして欲しいと思う。顔が腫れるほどぶたれて、熱い頬を冷たい足で踏みつけられて、私は安心する。そうされて、やっと劣等感まみれの等身大の自分を誰かに受け入れてもらえたような気持ちになる。だめになることを許された安心感がある。不健康で、暗い、暗い欲望だ。

 いつからか、そういうことで安心する自分のことを、あまり好きではなくなった。自分からはそういうことを求めなくなった。それでも、極限状態になると求めてしまう。ひどいことをされたくなる。

 私は、そういう欲望を、いいものだと思わない。求めてしまうし、非常手段として残しておきたいけど、それが幸せなものだと思わないからだ。そういうことで満足するのは私の劣等感だけで、そうやって劣等感に水をやってえさをやって育ててどうなるのだろう。考えただけで恐ろしい。

 私は、セックスをないがしろにする人間が好きじゃない。傷つくだけのセックスを繰り返す人が好きじゃない。出し惜しみする人が、もったいぶる人が、どうでもいいもののようにばらまく人が、好きじゃない。自分が幸せだと思うセックスを、自分が本当にしたいセックスをするのがいちばんいいと思う。欠落を埋めるためじゃなく、自分の暗い暗い部分を満たすためじゃなく、自分がだめなことを確認するためじゃなく、愛されていないことを確認するためじゃなく。セックスは、不幸になるためにするわけじゃないし、自分を傷つけるためにするものじゃない。どうしようもなくて傷を負ってしまうこともたくさんあるし、不幸になんてなりたくないのにそういう状況に追い込まれて絶望的なセックスを繰り返してしまうこともある。だからこそ、自分をたいせつにしたいし、できるだけ幸せなセックスの記憶を増やしたい。そう願う耳元でカウントダウンの音が聞こえる。もう30歳だって、ひとりとつきあってる場合じゃないって、今のうちにいろいろしとかなきゃ、痴漢とか、リモコンバイブとか、そういう願望が叶えられることが一生ないまま死ぬはめになるぞって、そういうことを囁いてくる。

 友達の大学の先生で、性教育のようなことをしている人がいる。そのひとは童貞喪失がとても遅くて、見合い結婚した相手と初めてのセックスをしたそうだ。「若い頃のセックスは、相手のからだを使ったオナニーみたいなものでした。今は、相手のことをお互いに考えてするのがほんとうのセックスだと思う。私はいま60代で、妻も同年代ですが、生涯現役でいようねって言い合ってます。若いみなさんに言いたいのは、セックスは焦るなということです。焦ってしても、いいセックスができるわけではありません」と、その先生は言ったそうだ。そんな希望を見せられると胸が苦しくなる。自分はそういうところに行けるのだろうか。行けないかもしれない。でも、ちゃんとまっすぐに歩いていれば、セックスの暗闇にひきずりこまれることはないんじゃないか。劣等感にまみれた自分が本当の自分だと思って安心するような、そんな気持ち悪い自家中毒の快感に浸りきることはないんじゃないか。

 29歳から30代前半は魔の季節だと思う。森瑶子も、その年を過ぎてだいぶ経ってから「その年齢のときに『したいことはなにか?』と取材でよく聞かれたけど、本当は、だれかれかまわずやりまくりたかった」というようなことを書いていた。べつにこの年齢にかぎらず、人生はいろんな魔の季節ばかりで成り立っているようなものだけど、できるかぎり陽にあてて、腐っていない果実を収穫したい。自分のセックスを、腐った果物みたいにしたくない。誰からも求められなくなったとしても、自分で自分を、そういうふうに扱いたくない。そのときが来る日のためにすることは、他人の力を借りた自虐で傷つくことに慣れることじゃないはずだ。