32歳のクリスマス

飯島愛が死ぬクリスマス・イブほど悲しいイブを、私はほかに思いつきません。そんなに大好きでずっと追いかけていたわけではなくても、テレビで楽しそうに笑って正直に話してるだけで人を元気にさせる才能があった彼女が(自殺、病死にかかわらず、この若さで)「死んだ」という事実は、ちょっとした鬱病患者の心の支えをポッキリ折るのに十分すぎるほど悲しいニュースで、悲痛なものすら感じます。ずっとテレビで観ていたからずっと年上だと思っていたけど、まだたった36歳だったんですね。私は、彼女と同じ婦人科医を行きつけにしています。会ったことはないけど、大好きな芸能人が亡くなるよりも、もしかしたら今のほうが悲しいかもしれない。「陽」の感じをもった人が亡くなるのは、どうしようもなくやるせないものです。


 彼女の冥福を祈るとともに、これから先は別の話題ね。彼女についてのことではなく、彼女の死から、いろいろ考えたこと。彼女には関係のない話題です。


 今年の「明石家サンタ」に電話してきた女性がほとんど30代だった、ということも含めて、三十路はキツいです。こないだテレビをつけたら『29歳のクリスマス』という、ずいぶん古いドラマの再放送の最終回をやっていて、おもわず見てしまったのですが、最後は女友達二人の友情で「自分で、自分が好きだと言える人生は幸せだ。たとえ結婚できなくても、お金持ちじゃなくても」という価値観がポジティブに提示される形で終わって、たぶんリアルタイムで観ていたらそれなりに爽快だったのではと思える感動的な最終回だったのだけど、観終わった後でうーん……と考え込んでしまいました。


 電車の中で若いコ二人が話しているのを聞いてしまったんだが、職場の四十代女性のことを話していて「ヘタに美人だから、モテていい気になってるうちに婚期逃したって感じだよね〜」「『いつでも結婚できる』って、今でも思ってんじゃん?」「あ〜、まだ気づいてない感じするよね〜」……。聞いててイヤ〜な汗が背筋を伝わり落ちた。「負け犬」なんて言ってた頃はまだヌルかったんだね……。この扱いはもはや亡霊とか、そういうものに近いよな〜。「結婚できなかったから成仏できてない」ぐらいの扱い。キツいわ〜マジで! ひきこもりに拍車がかかりそうです。


 今の若い女のコの早婚願望の理由のひとつには、先をゆくわれわれアラサー、アラフォー世代(流行り言葉を使ってみました)の人生が、すんげえキツそうで悲惨でぜんっぜんうらやましくなくて、むしろ「ああは絶対なりたくない!」モデルに見えているということがあるのかもしれない。と思ったら、なんか責任感じるっていうか、もう諦めモードで「ええどうぞ、反面教師にしてください。私らの屍を踏み越えて幸せになってくださいよ」と地面にパッタリ倒れたくなってくるっていうか……。


 重要と思われるファクターをざっと挙げると「結婚(ラブ)」「子供」「仕事」「自己実現」「生活レベル」みたいなことなんだが、このいくつかが複雑に重なっていて、簡単に分けにくい。例えば今の若いコたちは「ものすごい金持ちになりたい」とは、たぶん思ってないんじゃないかと思う。そりゃなれればなりたいだろうけど、それより「そこそこの生活レベルを確実に保つこと」のほうが大切で、そこは別にわれわれアラサー、アラフォー世代も(まぁ、私の周りでは)クリアしていると思う。


 結婚、子供、仕事に関しては、私自身は独身で子供もおらず、仕事はしている状態で、友達には結婚して子供いて仕事してる人も何人かいる。私と同じ状況の友達もいる。でもたぶん「結婚して子供もいて仕事している」というオール手に入れた状態も、「結婚してなくて子供いなくて仕事している」というひとつしか持ってない状態も、どっちもうらやましがられてない気がする。全部ある状態はしんどいし、いっこしかない状態もキツい。多分望まれているのは「結婚して子供もいて(女として幸せそうで)、自分にしかできない仕事を少しだけする(お金のためのがまんがまんの仕事をフルタイムでするのじゃなく、自己実現としての仕事をする)」という「余裕のあるモデル」なんじゃなかろうか。ケッと言いたくなる気持ちをこらえて考えれば、そんなことが可能なら誰だってしたいんじゃないのかな〜と思う。私自身は子供が欲しい気持ちは今のところないけど、結婚して夫の収入が高くて「キミは好きな仕事だけ選んでやったら?」と言われたらラクだろうな、と思ったことは、ある。たぶんそんなこと言われても仕事、ひとっつも下りませんけどね! いやいややってる仕事なんかないよ、だからキツいんだよ! ということだ。


 われわれ世代の女は、そーゆー外部からの視線を日々ヒシヒシと感じてるわけで、若い女性からは半ば哀れみの視線で見られ、若い男性からは「この人何が楽しくて生きてんのかなー」って目で見られ、同世代でもあからさまに「どっちが勝ち組か」競おうとする女もいたりして、そりゃキツい。仕事してて独身でも、そりゃ天海祐希のようにキレイで、かつ肩の力が抜けたいい感じになっていれば、誰からも哀れまれたりしないだろうけど、仕事してりゃくたびれてほうれい線がクッキリ刻まれる日もあるし、「男から相手にされなくて結婚できなかったみじめな女だと思われたくない!」という一心から、余裕のあるフリを演出したりさりげなく男はいなくもないのよ〜的な話を挟み込んだり、「私は独身でも充実した生活してるの自慢」をしたりして、その心の機微が周りにダダ漏れてよけいに同情されるということもあるだろう。ナチュラルで肩の力抜けてて美しく……ハードル高すぎてヒザにガコーン! と当たってハードルも自分も倒れるさまが目に浮かぶようである(←元陸上部)。


 誰だって幸せになりたいし、私だって、べつに幸せじゃないわけじゃない。ただ問題は、それが下の世代から見て「幸せそうには見えない」ってことなんだろう。たとえば私が今なんかで一発当ててすんごい金持ちになったとする。青山あたりにマンション買って、コンランショップみたいなインテリアの部屋に住んでたとする(たとえ話でも一軒家買うって発想がないのがかなしい……)。それでも、たぶん「うらやましい」とか「幸せそう」とは思われない。じゃあベストセラーを連発して、誰が聞いても名前を知ってるような人になったとする。それでもたぶんまだ思われない。「仕事だけの人生で、いくらお金があってもなんか、かわいそー」って感じなんじゃないだろうか。「心からわかりあえてる感じのパートナーと結婚し、子供を産んで、そのステキな生活をグラビア公開」「カメラマンの夫が妻と子の(さりげなくて素敵な)日常を撮った写真集を出版(そして売れる)」(←まじでこういうのちょっとうらやましいです。桐島ローランドって今独身だっけ? 誰か会わせて! まだ無名なカメラマンでも青田買いするYO!)ぐらいまで行かないとダメっぽい。そしてさらに「結婚して子供を産んでも女捨ててない」「夫との間に恋愛感情があって幸せ」な感がないとダメっぽい。まぁ、一人でうらぶれたアパートの部屋を大掃除して、高いところでもガンガン手届いて(身長あるんで)重いものもガンガン運んで、雑誌をギリギリ縛ったりしてるようじゃ(大掃除したんですね最近)、ダメだということである。なにも女だけじゃない。男でも、自分より年上の独身男性を見て「ああはなりたくない」「淋しそう」とつぶやく男性も多いものだ。


 これは断じて「私は結婚できなかったわけではありません」ということを主張するために書くわけではないんだけど、私もそういう世間の思惑を感じ取って生きてきているわけで、毎日毎日「結婚して子供もいて、余裕のある生活が幸せなんだー」というよくわからないプレッシャーを浴びていると、自分がどうしたいかよりも「そっちの方が正しいんじゃないか?」と思って、何度か「そういう人生をやってみよう」としたことがある。ズバリ言うと結婚しようとしたことがある(見合いもしたしな! パークハイアットで!)。子供も産もうと思って産婦人科でブライダルチェックまでやった。そのときに感じたのは、ものすごい解放感だった。「独身で子供産まない」というのは気楽だと自分でも思い込んでいたのに、心のどこかで「子供が欲しいと思わない自分は、人として愛情や何かが欠落しているのではないか」「結婚したいと思わない自分は、他人とちゃんとした関係を築くことができない人間なのではないか」「両親は、今の私を見て心配しているのではないか」「孫の顔が見れないことを淋しいと思っているのではないか」という、自分を責める気持ちがあって、それが「子供を産もう」と思ったときにパーッと晴れたように感じたのだ。そう思って相手を実家に連れて行ったら、あとで母から電話があって「あんた、あの人のこと本当に好きなの? なんか、あまり好きなように見えないんだけど」と、本気で心配そうに言われた。ぎょっとした。


 すくなくとも母は、結婚しなくても子供がいなくても、私のことを欠陥人間だとは思ってなくて、それより何より「あまり好きでない人と結婚する」ことや、「本心から望んではいない方向に進む」ことを心配しているのだ、と感じた。そのときに初めて「両親は孫の顔が見れないことを淋しいと思っているのではないか」という疑心暗鬼のプレッシャーからは解放された。あとは自分の中の問題だ。今でも「子供が欲しいと思わない自分は、人として愛情や何かが欠落しているのではないか」「結婚したいと思わない自分は、他人とちゃんとした関係を築くことができない人間なのではないか」というのは、少し思っている。他人に対しては思わないし、誰かにそんなことを言われたわけでもないのに、自分自身に関してはそう思ってしまう。子供を産んでいる友達が「絶対そんなことないよ!」と力強く否定してくれて、少しだけ安心したりもするのだけど。


 私は『負け犬の遠吠え』という本を読んだとき、前半はゲラゲラ笑いながら読んだが、だんだん腹が立ってきて、最後の方はすごい複雑な気分になってきてしまった。別に「いくつになっても恋はしていたい」とか「エイジレスな女」とか目指してがんばってるわけじゃないけど、自虐の冗談でも、なんで自分のこと「負け犬」なんて言わなきゃいけないの? って、理不尽な気持ちになった(「ラクに生きるため」というテーマは十分わかったんだけど)。私は自分の好きなように生きてきて、周りの人に支えられて、それなりに幸せで、恋愛をするつもりも、結婚も(もしかしたら)するつもりもあるし、でもできなかったらそれはそれでしょうがないよね、と思ってる。雑誌があおりたてるような、そんなんムリだよっていうゴージャスな三十路ライフにはほど遠いけど、そんなどこから見たってパーフェクトな人生のモデルしかないことがおかしいし、変だし、歪んでると思う。


 ふつうに稼いで、ふつうに暮らして、ときどき欲しいもの買って、そういう暮らしを素敵にしている三十代、四十代はたくさんいるはずだ。ワンルームの部屋に聖域のような自分の暮らしをつくりあげている素敵な人は、いるはずだ。外国のファッションをまねるなら、その生活の哲学までしっかりまねてみればいい。フケてたって綺麗な人は綺麗だし、素敵な人は素敵だ。加齢の問題には、セックスの対象になるかどうかというシビアな問題が横たわっていることは十分承知しているけど、今や熟女ブームだし、けっこう全然イケるんじゃないかという予想と、セックスの対象になるかどうかとは関係のない「綺麗さ」「素敵さ」というものを許容できたら、もっと無理なくラクになれるんじゃないかと思う。私は日本人だし、周りの空気を凍らせないためならそりゃ負け犬と自称することもあるだろうけど、気持ちは卑屈にはなりたくない。よくわからない世間の風当たりのせいで卑屈になるのだとしたら、それは自分を自分で否定することと同じだ。自分が味方になんなくてどうする。ほかに誰もいないのに。


 天気のいい日に好きな服着て出かけて、おいしそうなサンドイッチ買って、コーヒー飲んだりして、そんなふうに人生が過ぎていって、それでいいじゃないか。私は好きなところに旅をして、好きなものを食べて、好きに暮らす。「日本は成熟してない」「文化的に豊かでない」と言われても、そんなものを変えていこう、なんて思わない。自分が豊かに生きることだけがただひとつの反逆の方法で、もう私は、そういうふうに生きていくほかない。世間から幸せそうと思われるのがムリなら、自分だけでも幸せと思える方向に向かって生きていくしかないではないか。誰もがそうしている状態を「豊か」と呼ぶのではないか。まぁ私の暮らしなんて、胸はって貧相ですけどね! 自分で幸せだとも……あ、あんま思えないかも……いやこの出版不況で虫のごとくしぶとく生き残っているだけでも幸せだって!


 イブは素敵なディナーを食べそこねたし、ロマンチックなあれやこれやもなくて、すさんだ顔で郵便受けを開けると、友達からのプレゼントが2つ、入っていた。嬉しくて涙が出そうになった。しかもどっちもすごく欲しかったもので、ああもういいや、もう最高のイブだよありがとう神様。と見知らぬ、今日が誕生日の神様に思わず祈りを捧げました。元気になった。年内にはどこかでこっそりおいしいディナーをたらふく食べてやる……。ケーキもな! みなさんもお気に入りのお店で、お好きなものを召し上がって、残り少ない年内、楽しい時間をお過ごしくださいませ。