『サプリ』おかざき真里

★ドラマ化がすべっていちばんワリを食ったんじゃないかと思えるのは、この『サプリ』という作品だ。私はこのマンガが大好きで、連載が始まってから欠かさず読んでいる。ドラマもいちおう、観た。その頃に神保町の三省堂書店で平積みされた『サプリ』に「ドラマより絶対面白い!」というポップがついていて、私はこれを書いた書店員さんと握手して、抱き合いたいと思ったのを覚えている。


 『サプリ』は、たぶんものすごく簡単に言えば「妙齢女性の仕事と恋」の話と言えるんだろうし、ドラマでもそのような描き方をされていた。「妙齢女性の仕事と恋」といえば安野モヨコの『働きマン』も同じくドラマ化されているが、私はこっちはなかなかいいと思った。作品のテーマがちゃんとドラマにもあったからである。私が『サプリ』のドラマに納得がいかなかったのは「原作のイメージと違う」なんていう、いかにも原作ファンの言いそうなことが理由ではない(それなら『働きマン』だって、最初は「イメージ違う〜!」と思った)。


 『サプリ』というマンガは、「妙齢女性の仕事と恋」がテーマだと、「まとめ」てはいけない作品なのである。『サプリ』という作品の魂は、細部に宿っていて、その集合体を強いて言うならば「仕事と恋」になるだけで、その細部をカットしてしまったら、このマンガの本質は何一つ浮かび上がってこない。『働きマン』が「妙齢女性の仕事と恋」を太いクッキリした線で描いた作品だとしたら、『サプリ』は、小さな小さなモザイクタイルが敷き詰められた道をゆっくり歩いていって、ふと振り返ると、そこに「妙齢女性の仕事と恋」という模様が浮かび上がっていたというような性質の作品なのだ。どのピースが欠けてもダメだし、そのような作品を「妙齢女性の仕事と恋」というふうに「まとめる」のは困難だと思う。


 そして『サプリ』で描かれているのは、「仕事を取るか、恋を取るか」というような二者択一の物語ではない。「どっちもバランスよくうまくやっていこう」という物語でもない。仕事をしている女には、ふたつの認められ方がある。ひとつは「女」として認められること、もうひとつは仕事で「社会人」として認められること。主人公の藤井は、わりと不器用で「女」の部分をときどきほったらかしにしてしまう。でも、必死に打ち込んだ仕事でさえ認められないときもある。


 そんなことは、誰にだってあることだ。女は、自分の意志にかかわらず、「女」と「社会人」という二足のわらじを最初からはかされている。そのわらじを楽しんでラクラク履きこなせる人もいれば、そうでない人もいる。会社に泊まり込み、メイクもボロボロになりながら仕事する藤井を見て、新入社員はこう思う。「こうはなりたくない」と。


 また、藤井が、仕事用の新しいバッグを買うエピソードがある。最初は「A4の書類が入って、マチが大きくて、ものがいっぱい入って……」と「使いやすい」バッグを探す藤井だが、薄くてでもすごく女っぽい素敵なバッグを見つけ、衝動買いしてしまう。このシーン、本当によくわかる。私も、仕事の取材などで汚れても良い格好をしているとき、仕事の都合に合わせてちぐはぐな格好をしているときなど、帰りに鏡に映った自分の姿にビクッとして、なんかかわいいものを買ってしまうことがよくある。買っても仕事には使えないのに。


 要するに、藤井は「中途半端」なのだ。「仕事」も「恋」も、「女としてどう生きるか」「社会人としてどう生きるか」も。それがこの作品を、単純明快なコメディのようにドラマ化できない一番の理由だと思う。だけど、実際、今働いてる20代後半〜30代、40代の女なんてみんなそんなのハッキリ何の答えも出せないのが普通じゃないのか。おかざき真里は、この藤井の「揺れ」を、ほんとうに細やかに描く。仕事で疲れきったときに差し伸べられた男の手、その男とのセックスを、まるで天国のような幻想的な、突出したイメージで描き切る。仕事の爽快感、仕事している中で味わう些細な棘の部分、恋愛の距離、迷い。一話一話で描かれるのは、決してドラマチックな出来事ではない。だけど、そこに描かれているのは、間違いなく「そうそう、そういうことってある!」という、働く女が味わう「ちょっとしたイヤな思い」であり、「ちょっとした嬉しさ」であり、「最高の気分」「最低の気分」である。


 『サプリ』は、最近は藤井の周りで働く女性のサイドストーリーが描かれることが多くなっているが、これもまたすごい。子持ちの男と中途半端に付き合っているフリーのコピーライター女性の回など、フリーの身のいろんなアレが短い話の中にぎゅっと詰まって、でもさらりと描かれていた。そして、やっぱりこのマンガはただごとじゃないと感じたのは、今出てる号の『フィールヤング』を読んだからである。


 今描かれているのは、藤井と同じ会社で働く女性の話である。彼女は、将来の夢ばっか語ってまったく働く気配のないヒモ男を信じて同棲し、食わせていた。愛し合ってると信じようとしても、セックスしなくなってだいぶ経っていた。そんなときに浮気の決定的証拠が見つかる。男は出てゆく。彼女はパニックになり、普段は絶対に取らない行動を取る。興信所へ行くのだ。そして、さらに深い深い傷を負ってしまう。そんな彼女のことが気になった藤井は、彼女に「ごはん食べにいこう!」と言う。自分が以前、恋愛でキツいときに友達にごはんに誘ってもらって、ただそれだけのことでずいぶん気がラクになったから、救われたから、藤井はそうした。彼女はごはんを食べ、笑う。けれど物語は「彼女が自ら命を断つ」という言葉で、終わっていた。


 ああここまで描く気なんだ、と思った。おかざき真里は、ここまでやる気なんだ。おかざき真里の絵は一見とても綺麗で、端正で、美しい。誰もその絵を見て、そんな恐ろしいマンガだとは思わないだろう。だけどこれは、今生きて働いてる女がどういう目に遭うかをあまさず描き、その中でどうやって死なずに生きていくのかを描いているマンガだと思う。


 「妙齢女性」と書いたが、10年ぐらい前から妙齢女性のライターや編集者で、重度の精神病にかかったり、自殺したりする人は少なくない。私が知っているのは自分の周りの例だけだけど、きっと普通の会社にもいるんじゃないだろうか。「失恋したから」死ぬんじゃない。「疲れたから」「希望が見えないから」「生きてるだけでつらいから」「これから先楽しいことなんかあるように思えないから」死ぬんだよ。20代後半からの失恋は、重い。周りの男はどんどん結婚している割合が増えてくし、若いコたちからは「30過ぎはババア」って明らかな侮蔑視線を投げられて、男からも「相手にしない」オーラをバシバシ出されることもある。要するに「これを逃したら、もうこの先ないかもしんない」と、思っちゃうんである。重い。相手にとっても重いだろうが、こういう恋愛はやってる本人にとっても重いもんだ。「自分が女として認められているか」「人として愛される価値があるのか」というアイデンティティに関わる部分まで、たった一人の男にかかってしまうんだから。その男がどんなにつまらない男だろうが、ひどい男だろうが、関係ない。疲れ果てたときには相手を責める気力なんて残ってない。「その男に捨てられた自分」を、ただただ責め続け「生きる価値がない」と自分を社会から切り捨てることしか考えられない。


 「社会人として認められる」人生を生きることだって、困難だ。藤井の尊敬している女の先輩は、実力もあり仕事もできるのに、異動させられる。自分の何倍もの実力があったって「女」は出世できない現実を藤井は目の前で見せられている。がんばったってがんばったって、その努力が「認められる」とは限らない。


 何を頼りに生きていったらいいのか、わからない。男を頼りにしたらいきなりガクッとその柱を叩き折られることもあるし、仕事を支えにしたって同じである。だから、そういうのを敏感に察している若い世代のコたちは「家族」を求めて早婚願望を強めているのではないだろうか。


 おかざき真里は、そういういろんなことを「だいたいこういうことだよね」と、絶対に大雑把に「まとめ」ない。それぞれの個人の、それぞれの些細な感情を丁寧に描くことでしか、女が直面している現実を描かない。それがおかざき真里の誠実さであり、『サプリ』という作品の、光輝く核の部分だと思う。


 些細なことで人は絶望するし、些細なことで救われもする。その「現実」を、細やかに細やかにおかざき真里は描き出す。ドラマチックなストーリーは、ない。藤井は、彼氏とこれからどーすんのか、まるで自分の人生の今後のお手本にするかのような気持ちで見守ってしまうのは、それだけ藤井の存在感がリアルだからだろう。藤井の彼氏(まだ読んでない人のために名前は伏せます)はカッコ良くて超好みなのでうまくいってうっとり楽しい気分を味あわせてほしい(我ながらすごい感情移入能力だ)反面、あんな超カッコいい彼氏にふられた場合、どうやって立ち直るかという例を見せてほしい気もする。どうやって立ち直るのか、本当に本当に、いいやり方があるのだったら教えてほしいと切に願ってしまう。


 さらりと終わることもできる作品だと思うけれど、それまでにどこまで描いてくれるのか、それが楽しみで仕方ない作品だ。とにかく今号の『フィールヤング』掲載分はヤバいよ! ということです。

サプリ 7 (Feelコミックス)

サプリ 7 (Feelコミックス)